第2話 死神、記者と夜鳴鶯

 電話で近くのタクシーを予約して、出かける準備をする。シャーロットは起こさずに置き手紙を一枚、タイプライターの上に分かりやすく乗せた。これで慌てることもないだろう。

 大帝国は基本肌寒いのでコートを着用する。

 準備が終わってそろそろタクシーが来る頃合いとなって部屋を出た。


「おやあ?」


 四階へと続く階段から剽軽な声がして立ち止まる。前を歩いていたオスカーが顔をしかめて振り向いた。少年に続いて振り向くと一人の男が立っている。背が平均よりも低いことを気にして厚底の靴を履き、香水を強く振りまいた顔は二枚目であるが、全くいい印象を与えない。


 彼はイーサンという。四階に住むゴシップ記者だ。オスカーが言うには夫人の情けでここに住んでいるが、あまりいい男ではない。何より、レイチェルに何かとちょっかいをかけるというのだ。


 これは面倒臭がりのエヴァンでも無視し難い。彼女が誰かと付き合い、伴侶になるというのは、彼女の料理が食べれなくなると言うことだ。これは無視できない。料理は、オアシスだ。そのオアシスを奪うなら、エヴァンは容赦なくイーサンと敵対する。


 このことは弟子との固い誓いでもある。

 イーサンはこちらの心情を露知らず、手帳と古ぼけた万年筆を手にオスカーへと駆けた。


「生きてたんだぁ? ビクトリア号での事件、ビスマルクくんは巻き込まれて死んじゃったと思ったんだけどなあ」


 ねちねちとした喋り方に不快感は跳ね上がる。


「すみません、イーサンさん。僕たちこれから行かないといけないところがあるんです」


 努めて冷静にオスカーが返事し、エヴァンの袖を引っ張った。行こうとするエヴァンの肩に、イーサンが慌てて手を掛ける。


「待てよっ、おい! おめえの母ちゃん、吸血鬼騒動に巻き込まれたみたいじゃねえか。その心境は? 容体は? 吸血鬼の歯型は首筋にあったのか?」


 勢いよくオスカーが振り返る。怒りで真っ赤に燃えた表情で殴り掛かろうとするのを、エヴァンが静かに止めた。イーサンがエヴァンにありがとよ、と笑ったと同時に肩にあったイーサンの手を強く振り払う。そのあとハンカチーフを取り出して触れられた肩を拭った。


「行こうか、オスカー」


 未だ怒りに頭に熱が上っているオスカーの肩を抱き、階段を降りる。イーサンに視線を向ける価値もない、と無視を決め込んだ。


 階下にはレイチェルが猫を抱いて立っている。長い真っ白な毛並みをした猫だ。足元にも同じ色の猫がいる。レイチェルが抱く猫の首輪は薔薇の飾りがついており、足元にいる猫には椿の飾りの首輪をつけている。


 レイチェルたちの姿を見て、オスカーはなんとか笑みを浮かべた。エヴァンはそれに安堵する。怒りで歪む弟子の顔など、見たくないものだから。


「こんにちは、オスカーくん、エヴァンさん」

「やあ、レディ」

「こんにちは、レイチェル先生」


 レディ、と呼ぶとレイチェルは頰をピンク色に染めた。


「この猫たちは?」

「マーサさんの飼っている猫ですよ。椿の首輪をしている子がカメリア。薔薇のこの子はアメリア。双子の猫なの」


 アメリアが返事をするように甘く鳴いた。

 アーネストの方がよっぽど可愛い。エヴァンは鼻で小さく笑う。影のなかでアーネストが恥ずかしそうに動いたのを感じる。


「今からどこかおでかけかしら?」

「病院へ。検査が終わったみたいなので、母を家に……」


 謎の集団昏睡状態はオスカーとの同居をはじめた次の日に記事に大きく書かれた。恐怖を扇情させるためにつけられたタイトルは「吸血鬼騒動」というもので、患者の真っ青な顔と死んだように眠るところを吸血鬼だと関連させた。被害にあった患者の名前は漏洩し、オスカーの母親の名前までも記載されて、フラットの住人たちからとても心配された。


 病院では取材に訪れたあまりにも失礼極まりない記者たちに、マーガレット博士がとうとう怒って拳銃を向けたことで大騒ぎだ。記事でこのことも書かれていたが、当の本人は平然と職務を全うしている。現に彼女に命を救われた患者は多く、味方となって記者たちに猛反発しているので、博士については大丈夫だろう。


「気をつけてね。お世話に関しては、手伝うから」

「ありがとうございます」

「ところで今日の夕食は?」

「マーサさんのご友人からジャガイモを沢山もらったのでパイにします」

「シェパーズパイ!」エヴァンとオスカーの声が被る。


 外で自動車のクラクションの音がした。タクシーが来たようだ。

 瞳を輝かせてエヴァンはレイチェルの片手を取った。階段の奥からイーサンの見苦しい視線を感じたが、気にするつもりはない。


「君は本当に私のオアシスの女神だ!」


 突然の行動に困惑する彼女の指先、手の甲に唇を数度落とし、手を解放した。薔薇色の染色がレイチェルの白い肌を侵略した。

 アメリアとカメリアまで固まっているが、そんなことよりもシェパーズパイだ。心が弾んで踊る。大好物が食卓に並ぶ以上のの食事に関する幸せがあるだろうか、いや、ない。


「寄り道せずに帰るぞ」


 口のなかがすでに唾液にいっぱいになり飲み込む。目を輝かせるオスカーの肩を押してタクシーに乗り込んだ。


 ロンドン郊外の病院にゴシップ記者がまばらに待機していたが、誰一人として病院に入れなかった。配置されている帝都市警とともにマーガレット博士に大恩ある屈強な男たちの自警団まで警備していた。博士は元軍医のため、救ってきた患者は圧倒的に軍人出身が多い。


 裏口にタクシーを寄せて、二人は病院に入った。

 マーガレット博士が丁度母親の診察を終えて待っている。


「坊や、迎えにきたんだね。診察したところ、外傷もないし、内部の損傷もない。君のお母さまは健康体そのものだ」


 相変わらず原因不明だ、と。


「医療は進んできたが、ここまで手を尽くしてもだめだなんて。本当に申し訳ない」


 唇を噛み締め、マーガレット博士は悔しげに顔を歪ませた。顔色には疲労が滲み、原因究明に苦労したのがうかがえる。


 女帝騎士だからと警戒していたが、博士の真摯な姿勢にエヴァンは静かに自分のなかにある彼女の人物像を更新した。全ての人間がこうであってほしいものだ。

 オスカーはマーガレット博士の手を取り、優しく握りしめる。


「そう、思ってくださるだけで、僕は救われてます。きっと母も、嬉しいと思います」

「……ありがとう。お母さまはこちらで送ろう」

「そんな、そこまでしてくださるなんて」

「私からのせめてもの慰めだ。それから、何かあったら連絡を。時間がある時は診察に来よう。それと、話しかけるのは大事だ。稀だが、それで意識を取り戻した事例もある」

「はい……」


 オスカーは複雑な顔でアドバイスに頷いた。魂がないのだから、無意味に近いだろうと確信しているからだ。博士と別れたあと、手続きを受付で行った。

 オスカーの母親が救護車に乗せられる。フラットの住所を何度か確認した運転手は、オスカーを連れて自宅へと走った。


 残されたエヴァンは裏口のタクシーへ向かう。ひどく待たせたので、チップをはずんでおこう。

 刹那、病院の廊下がざわつき始め、波紋のように静かになる。大人数の足音が響き、近づいてくる。


「──!」


 息を呑んで壁に飾られた観葉植物に身を潜める。今肌が粟立った。潔癖な、死を寄せ付けない、この感覚。マーガレット博士ではない、別の女帝騎士ヴィクトリアン・イークウェスのものだ。エヴァンの頰に冷や汗が垂れる。物陰から見えたその人物には見覚えがあったからだ。


 綺麗にまとめられたブルネットの髪、潔癖な白さを持つ踝ほどの丈のナース服。腰には医療道具のポーチと共に小斧ハチェットがぶら下がっている。固い表情は凛々しく、そして高潔である。彼女の背後には同じナース服の集団が続いている。


 間違いない。


 エヴァンはソッと集団から距離を取る。


──フローレンス・ナイチンゲール卿。またの名を、夜鳴鶯ナイチンゲール小陸軍省。


 看護、病院の革命家である彼女は多くの逸話を持っている。ラグナロク世界大戦に従軍した彼女は、仮設された軍病院を敵に襲撃された際、最前線でまさかの武器を手にして戦った。ただの看護婦が小斧を手に、敵の武器を破壊し、挙げ句の果てには物資を取り返した。その敵兵まで看護して返還するという所業までがワンセット。


 従軍看護婦の要塞とまで言わしめた彼女は、とても危険である。一人も殺しはしなかったが、彼女の闘いぶりは死神機関内では恐怖の対象である。一歩違えば、死神は彼女の理念の敵になるかもしれないのだ。関わりたくない。ヴィクトリア女帝はとんでもない女に女帝騎士勲章を授与したものだ。


 とにかく彼女の視線に入らぬように気をつけて裏口を出た。アーネストがいつでも出てこれるように臨戦態勢だ。


 タクシーの運転手からは顔色が悪いことを指摘されて心配されたが、いつものことだと言って発進させた。

 フラットに戻れば、レイチェルが出迎えてくれた。


「おかえりなさい。オスカーくん、お母さんと一緒に帰ってきましたよ」


 玄関を掃く箒を止めてレイチェルが顔を上げる。


「……ただいま」

「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」

「いつものことだから、気にしなくていい」

「でも……オスカーくんから聞きました。在宅のお仕事をされるんでしょう? あまり無理なさらないでくださいね。今、オスカーくんが頼れる親戚はあなたしかいませんから」


 確かにその通りである。エヴァンは口角だけを吊り上げる。


「そうだわ、エヴァンさん。明日にお茶会でもしましょう。マーサさんが時々フラットの皆さんを招いて開く時があります。明日もいい天気らしいので、やりたいと思うはずです」

「楽しみにしているよ」


 レイチェルの気遣いに、張り詰めた心が柔らかくなる。この女性はどこか陽だまりに揺れる花のように甘い。そろそろなかに入らないかと持ちかけて、エスコートする。掃除道具を片付けた彼女は何かいいことでもあったのか鼻歌混じりに、部屋に入って行った。


「夕食も楽しみだ」


 彼女のベルガモットの余韻を纏い、三階の部屋に向かう。シャーロットはまだ起きていないようだ。一週間も寝ていないのだから当たり前か。


 リビングにオスカーの姿は見当たらず、ビスマルク夫妻の寝室に入る。予想通り、オスカーがいた。しかし声を掛けることはできない。ベッドに眠る母の手を握り、何度も呼んでは泣いている。不安で仕方ないのだろう。きっと一週間溜め込んだ悲しみと悔しさが、ここで爆発したのだ。


 少年に聞こえないように静かに扉を閉めた。足音も、気配も消して遠ざかり、長椅子に横になる。

 影からアーネストが姿を現して鼻先をエヴァンに寄せた。


「慰めてるのか?」


 自嘲が溢れながらもアーネストの優しさに頰が僅かに緩む。スカーレットの瞳が寝室へと流れてエヴァンへ戻る。慰めに行くように、と言っているのが分かった。首を横に振る。


「俺の判断の甘さが招いたんだ、アーネスト。彼を、慰める資格なんてない」


 アーネストはエヴァンの手から離れた。寝室へ、のっそりと進み、器用に扉を開けてなかに入っていく。扉もしっかりと閉じて。

 真っ直ぐな優しさにエヴァンは羨望の目を細めた。

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