第14話 相棒、追憶と運命

 母親の口癖は、いつも運命ってあるのね、だった。娼婦という社会的立場のない人間にも、幸せになれる運命が待っているのね、と。幼いシャーロットの髪を優しく撫でて、毎日そう言うのだ。

 対して自分はどうだろう。


 母の言葉を馬鹿馬鹿しくまともに聞いてはいなかった。

 幸せになると言うのなら、何故自分たちは薄暗い社会のなかにいるのだろうか。ひもじい思いなど、しないはずだ。


 物心つく頃から、シャーロットは母親と己の立場を理解していた。

 娼婦の母は貴族の男に惚れて身も心も捧げ、シャーロットが産まれた。本当ならすぐ堕胎するか、孤児院に置き去りにするというのに、本当の愛を信じた母は、育てることを決めた。しかし母が見ているのは現実ではなく理想だった。もう、まともに現実を見ることが辛かったかもしれない。


「あの方の家はね、ゼフィランサスが綺麗に咲く場所なのよ」


 遠いところから持ち帰った物好きが広めた柔らかな花を、母はいつも想像していた。


「三人で行きましょうね」


 母のお気に入りはシャーロットの真っ赤な髪。


 ねえ、母さん。


 シャーロットは母が死ぬまで聞けなかった言葉がある。問いたくても問えなかった。もう二度と聞くことはない。


──私が。私の髪が。


 おそらく、母親にとっては禁句だろう。


──私の髪が父さん譲りじゃなかったら、捨ててた?


 見ていたのは、愛してたのは私じゃなかった。いつも見知らぬ父だった。

 己の存在は、ただの父を思い出すためだけにいるただの装飾品のそれと変わりなかった。


 だってそうでしょう?

 私なんかこれっぽちも心配してなかった。


 母の最期の言葉は確実にシャーロットの心を打ちのめした。


「あの人のためにお洒落しなくちゃ」


 お粗末なドレスを着て仕事へ行く直前に、母は発作を起こして死んだ。苦しんでいる間も必死に父の名前らしき言葉を呟いていた。

 それをシャーロットは失望と諦めの顔で見下ろした。



 収入源が途絶えたシャーロットの生きる術は犯罪となった。盗みをして儲けるしか、生き方を知らない。いつ報復が訪れるか分からない夜を寂しく過ごす日々。

 ボロボロな毛布で身を包んで瞼を強く閉じる。

 そして強く願うのだ。


 母さん、私を見て。

 見て、お願い。

 思い出す母はいつも遠い目ばかり。



 ねえ、なんで?

 お願い、お願いよ、母さん。私を見てちょうだい。


「──見て……かあ、さ」


 頰を伝う水の熱さに、目を開ける。ぼんやりとした視界にブルネット色の髪の母はいなかった。代わりに、自身と同じ真っ赤で長い髪が見えた。輪郭は鮮明になり、心配そうにこちらを見つめるレイチェルがそっと額を拭う。これまた同じのピーコックグリーンの瞳が微笑んだ。

 シャーロットは何度か目を瞬かせる。

 何故彼女がいるのだろうか。


「起きたのね、良かった……」


 思考がはっきりとしてきたシャーロットは慌てて起き上がる。

 腹部が痛みを訴えて呻く。死神の怪我は人間よりも治りが早いが、吸血鬼の及ぼすものは些か遅い。


「ダメよ。さっきまであなた、ひどい怪我だったのだから」


 呆れたようにレイチェルは立ち上がり、枕元にあるデスクの上のグラスを手に取る。水がたっぷりと注がれてある。渡されたシャーロットは喉の渇きもあって、いっきに飲み干した。まだ渇きは満たされず、二杯目を所望するとレイチェルは快く頷いてベッドから離れた。

 扉が閉まる音がしてシャーロットは周囲を見る。


 オスカーの部屋ではないことは確かだ。まず匂いが違う。短く表すならば、爽やかで女性的。

 壁紙は落ち着いたクリーム色の下地に菫色の唐草模様。調度品は高級とは言えないが、派手すぎない。大事に使われていることが分かる。


 部屋の窓際には、ココアブラウン色のアップライトピアノがあり、椅子には優美な曲線を隠すためのレース刺繍の施された布が掛けられている。また横の本棚には語学や使い古された教科書が並んでおり、レイチェルの仕事道具であることが伺えた。

 ライティングビューローにはタイプライターと羽根ペンとインク壺が仲良く並んでいた。

 他は飾りっ気がない。ただ装飾品としてあるのは古い猫のぬいぐるみだ。


「やっぱり苦手だわ……」


 整理整頓が行き届いた部屋にシャーロットは額にかかった前髪を払った。

 レイチェルのことは会った時から苦手意識があった。変に勘がいいのか、エヴァンが知らぬところで彼女は鋭い質問をしたり、今日だってフラットを出ようとすると偶然にも玄関でばったり遭遇した。


 それよりも、レイチェルはふとエヴァンを真剣に見つめては、息苦しそうにしている時がある。胸元を抑え、眉を寄せて悩ましげに目を伏せる。あの仕草は母親の姿と重なって尚更苦手になる。

 二杯目の水を持ってきた彼女に、シャーロットは精一杯笑みを浮かべた。


「ありがとう」


 猫かぶりは得意だ。生前そうやって周囲に取り入って生き延びてきた。媚びを売ることを厭う人間は、苦境など経験したことのない甘ちゃんだ。

 今度は味わうように水をゆっくり飲む。

 その間、レイチェルの鋭い視線が注がれた。飲み干して首を傾げると彼女は少しだけ困ったように眉尻を下げている。


「シャーロットちゃんって、私のこと苦手でしょう?」


 本当に勘がいい。

 どきり、とシャーロットの心臓が飛び跳ねる。


「あ──ごめんなさい。気にしないでいて。ところでお医者さんを呼んで診てもらったけれど、大事には至ってないって仰っていたわ。変ね、私があなたを見つけた時はあんなに怪我してたのに」


 これ以上何も言わせない。シャーロットは追求の糸を切り離すことにした。


「今、何時なの……?」

「今は……」


 レイチェルの視線が空を彷徨ってベッド脇の壁掛けの時計を見る。


「午後五時過ぎよ」


 数時間ほど眠っていたようだ。シャーロットは我慢できずにベッドから降りようとする。それをレイチェルが押しとどめようと手を肩にあてた。


「あんなひどい怪我してたのよ、安静にしなくちゃ」

「……エヴァンとオスカーは?」

「二人はまだ、帰ってきてないわ。……オスカーくんからは少し遅れて帰ってきますって、電話が」


 ならば大丈夫だろう。きっと二人は無事だ。

 しかし何故だろう。

 胸騒ぎがする。ひどく、騒いで落ち着かない。シャーロットは部屋に戻ってそこで休むと告げてレイチェルの部屋から逃げた。

 下腹部の痛みを手で押さえ、階段を登る。


「夕食の時間に来るけれど、何かあったら呼んで」


 大きなお世話だが、シャーロットはレイチェルの言葉に頷いて扉を閉めた。機械仕掛けのアンネだけがシャーロットを出迎えた。

 エヴァンはいない。吸血鬼三人の捕縛はどうなったのだろうか。いや、それよりもやることがある。


 放出機のタイプライター喚び出し、キーボードを打つ。


「本部へ連絡を。指名手配の吸血鬼が見つかったわ」


 折り畳んだカーボン紙を封筒に入れ、真紅の封蝋で閉じる。アンネは嘴で器用に手紙を受け取り、窓から飛び立った。


 スモッグ。

 素早い動き。

 そして下腹部への強い執着。


「あいつしかいないわ。……まさか、ここまで綺麗に潜伏していたなんて」


 十九世紀、帝都ロンドンを恐怖に貶めた殺人鬼。人間側で未解決事件として大きな傷を残しているが、当然だろう。何故ならば、その殺人鬼は人ならざる吸血鬼であり、人間が解決するのにはとても重荷でもあったのだ。しかし、死神機関でさえも未解決のままである。鉄槌卿が複数派遣されたにも関わらず、五人の犠牲者を出したのち姿を消した。あまりの手練れだったのか、十人もの鉄槌卿が犠牲になった。

 忌々しく、シャーロットはその名を口にする。


切り裂きジャックジャック・ザ・リッパー──!」

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