第15話 少年、咆哮と屋根裏

 オスカー・ビスマルクは悶々と午後の授業を受けていた。テオのためにも真剣に聞かねばならないというのに、ペンは止まってはため息を吐いてしまう。


「オスカー。授業中ですよ」

「……すみません」


 素直に謝罪すると男性教員は口元だけを微笑ませ、黒板に視線を戻した。数式の羅列が増えていく。

 それでも懲りずにオスカーの視線はノートに落とされた。数式の代わりに、不満が書かれている。


『僕は頼りない?』


 エヴァンにとって自分はその程度の存在なのだろうか。胸の奥が澱んでオスカーの心を蝕んだ。

 子どもだから。

 非力だから。

 それとも、兄弟子の方が頼り甲斐があったのだろうか。

 鉛筆の芯が折れる。これは自分の心だ。


 なんて醜い──!


 放課後、真っ直ぐフラットに帰る気にもなれなかった。ロッカーから鞄を取り、オスカーは廊下の隅に立った。


「エヴァン、先生──……」


 近くにいるだろうと襟元のバッジのスイッチを入れる。しかし、望んだ人物の姿はどこにもない。どこを見ても、学生や教員が何食わぬ顔で廊下を行き来している。テオの自殺が未遂で済んだからか、サークル活動をしに向かう生徒もいる。

 もしかしたら帰ったかもしれない。

 ピタリとオスカーは正門へ向かう足を止めた。振り向き、再び校舎の奥へと歩き出す。


 高揚感に足が進む。エヴァンの方針に気に食わないのであれば、功績をあげればいいだけだ。自分は非力ではない。

 やることは一つ。

 テオに関する情報を集めればいい。


 フラットへの連絡を済ませ、テオは確か音楽のサークルに入っていた。そして前に自殺した生徒の一人も音楽サークルの生徒だった。音楽教師はアントニオ・クレセント。イタリアから渡英してきた優しい男性教師だ。音楽が苦手なオスカーにも、全く怒りもせずに手ほどきをしてくれる。──未だ楽譜を読み解くことはむずかしいままでいるが。


 音楽教室練は今日は静かだった。いつもならばアントニオ氏の声やそれに応えようとする学生たちの返事、演奏が教室から溢れているはずだというのに。


 オスカーは静かに教室練の扉に歩み寄り、音を立てぬようにほんの少し開ける。隙間から覗くと、学生たちはおらず、アントニオ氏だけが、教室の中央に立っている。手にはヴァイオリンを持っていた。

 よかった、いたようだ。

 安心してオスカーは扉をノックしようと拳を上げた。


 その時だった。


 アントニオ氏は突然ヴァイオリンを持ち上げ、床に目掛けて振り下ろした。

 職人の集大成とも言える複雑な楽器が、呆気なくバラバラに砕けた。それにアントニオ氏は息を荒くさせ、革靴でヴァイオリンを踏みつける。


 何度も。何度も。


「っ……」


 身を竦ませてオスカーは隙間から見える暴虐を見つめていた。アントニオ・クレセント氏があのような凶暴な性格であっただろうか。

 オスカーは昼時のエヴァンの講義を思い出した。

 確か吸血鬼ヴァンピーアに吸血されると性格が変わったりするのだ。


 オスカーが震えたことで持ち上がり、手持ち無沙汰になった拳が揺れて結局扉に当たり、乾いた音が溢れた。

 ぴたり。

 足が止まり、ゆっくりとアントニオ氏がこちらを見た。四月の終わりよりも、彼の頬は青ざめており、まるで幽霊のようだった。あまりにも恐ろしい顔がオスカーを捉える。


「……見たんだな? 何を、何を、見たんだ」


 後ずさるオスカーに対し、アントニオ氏は床に座り込み、頭を抱える。


「君、は」

「……お、オスカー・ビスマルクです。テオの友人です」


 近づいてこない様子なので、オスカーは恐る恐る返事をして相手を見た。胸ポケットにある万年筆を握りしめる。


「テオ……テオ、ああ、そうだ、テオの、彼の、あの子の、ああ、そうかそうか……」

「そ、そうです。あのテオのことで聞きにきました」

「……」

「先生?」


 長い沈黙がして、オスカーは一歩踏み出す。踵が床に着地した途端、アントニオ氏は大きく叫んだ。まるで獣の咆哮のように教室を木霊した。


「違う違う違う違う違う違う──!! 私は何もしていない! 私は何も! 全てはジゼルのためだった!!」


 顔を両手で多いながらゆっくりと立ち上がる。オスカーへと一歩、また一歩。歩み出す。

 とうとう扉一枚、隙間が開いているところに来てしまった。指の隙間から見える血走った目に、オスカーは耐えきれずに走り出した。


「待て! 待て、オスカー!!」


 背中から怒声が響いたが、恐怖が優って振り向く余裕はなく、音楽練を抜け出した。

 脳裏に残っていたアントニオ氏の優しげな表情があっという間に恐ろしいものに塗り替えられた。とにかく目的もなく音楽教室練から離れた。運動不足の体は早くも悲鳴を上げて立ち止まる。


 空気を求めて口が鯉のようにパクパクと動いた。肩が激しく上下する。

 前に影が差し込んだ。

 オスカーは恐る恐る見上げると、そこに捜していたエヴァン・ブライアンが柔らかく微笑んで立っていた。


「エヴァン、はあ、っ先生……!」


 数回の深呼吸で肺を落ち着かせ、姿勢を正す。アメジストの瞳がとても柔らかく見えた。


「……吸血鬼は、どうしたんですか?」

「無事に捕まえた。……そうだ、オスカー。捕縛の最中に面白いものを発見したんだよ。一緒に見に行かないかい?」

「え、何か見つかったんですか?!」


 しっ、とエヴァンは笑って右手の人差し指を唇に押し当てた。


「あまり大声を出してはいけない」

「ぁ、すみません」

「さあ、行こう」

「はいっ」


 エヴァンはオスカーの肩を抱いて別の教室練へと歩き出す。右肩を抱く温かな右手にオスカーはホッと安堵した。

 階段を登り、屋根裏部屋らしきものへ到達する。


「図書室で調べてみたんだ」


 屋根裏部屋の入り口の周囲は埃を被っていたが、目を凝らすと複数の足跡が見えた。古臭い扉のノブには埃が薄く乗っているだけ。

 エヴァンは埃を軽く落としてドアノブに手をかけた。


「この学校の屋根裏部屋は荷物置き場として使われていたらしいけれど、別に倉庫を作ったから今はもう誰も知らない場所だったらしい」


 扉が開いて埃が舞った。小さく咳が溢れる。


「さあ」


 なかは薄暗かった。小さい窓の隙間から流れる陽の光で天井の隅には蜘蛛の巣がカーテンを作っていることが見えた。エヴァンが室内の電気をつけて内部は明らかになった。

 部屋の中央に真っ白なキャンバスが立っている。


「……」


 真っ白なはずなのに、異様な存在感を放つキャンパスへオスカーは吸い寄せられる。足が言うことが聞かずに歩き、前に立つ。


 するとキャンパスに黒の絵の具で文字が書かれる。


『望みがあるんだろう?』


 望み。


 脳が曖昧に、朧げになる。

 オスカーは真っ直ぐに、ぼんやりと文字を見つめた。


「……ある」


 頷くと後ろからエヴァンが肩に手を置いた。

 彼の両手は温かい。



──温かい?


 右肩に乗せられた右手を見る。漆黒の手袋を嵌めていない、男の肌が、しっかりと掴んでいる。


「オスカーはお洒落なんだな」


 耳元をバリトンボイスが擽ぐる。左手が襟元のバッジを撫でた。


 偽物だ!


 ぼんやりとしはじめた脳が、はっきりとしはじめた。背筋を鳥肌が覆い、オスカーは体をエヴァンから、否、にせものから逃れようと暴れた。


「逃げてはいけない」


 偽物はエヴァンとは違う笑みを浮かべてオスカーの体を拘束し、キャンパスに向き合わせた。


「君の望みは、お母さんかな?」

「うるさい、離せ!」

「死神は君のお母さんを見つけ出せない」

「違う!」


 再びぼんやりと考えが朧げになる。暴れる力は無くなり、偽物のエヴァンに屈服される。


 頷くしかなかった。

 オスカーの胸の闇に、絵の具が塗り潰される。


「今こうして助けが来ないのは、何故だ」

「こうして離れているのは、君を信用していない」

「可哀想に」

「可哀想に、オスカー・ビスマルク」

「死神は君の味方ではないようだ」

「望みを言ってごらん。望みを言ったら、叶えてあげよう」

「代償は勿論払ってもらう」


 オスカーの唇が動く。


「僕の……望みは……」

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