第10話 死神、通学と事件
オスカーの登校日の朝、エヴァン・ブライアンは朝早く起きてキッチンに立っていた。隣にはレイチェルがあれこれ忙しなく指示を出したりしている。
オスカーの通う公立中等学校は給食の制度があるが、有料である。高等部や大学のための資金を貯蓄しているビスマルク家は、常に弁当である。しかし毎日弁当を作ってくれるアビゲイルがいないので、エヴァンが弁当を作ることになった。人並みに料理はできるが、弁当を作ったことがないエヴァンは、レイチェルに弁当作りの手伝いを依頼した。
だからこうして肩を並べて作っている。
エヴァンが野菜を切り、レイチェルがコンロに立って調理する。朝ごはんも作らなくてはいけないので、急いで次の野菜を切る。
朝はとにかく質などを気にしなくていい、とアドバイスしてくれたレイチェルが作るのは栄養たっぷりの野菜スープ。もう一つのコンロの上にはフライパンがベーコンを焼いている。
パンにバターを塗り、スライスチーズ、ハム、たくさんの具を乗せて挟む。古い伝統のあるキューガンバーサンドイッチも作った。これだけは自信がある。
ドタバタとしながら朝の準備は確実に進んでいた。
「エヴァンさんは学校はどちらに通ってました?」
余裕が出てきたので他愛のない会話をしはじめる。鍋の底を一回、おたまでかき混ぜる。
エヴァンはサンドイッチに包丁を入れて長方形に切り分けた。
「パブリックに」
「エヴァンさんもパブリック・スクールなのですね」
意外だ、と瞳が物語っている。確かにこうもだらしない青年が元パブリック・スクールの卒業生であるとは思えないのだろう。しかも在宅の仕事でいっこうに外に出ようとしない。
「も、ということは、君も?」
「ええ。女子校でした」
「親元から離れて大変だったろう」
「いいえ、全く。楽でした。父は兄と私をいつも比較するんです。事あるごとに」
「それは嫌だな」
レイチェルの家庭の事情が垣間見えた。彼女がこのフラットに来たのは、父親の存在が原因だろう。きっと早く嫁に行くよう急かされたのかもしれない。女性の社会進出が着々と進んでいるが、反発は未だ根深いものだ。特に貴族の女子は結婚し、出産することが一番の幸せで、当たり前の女性のステータスであると考えている年寄りが多く、その思想は子へと嫌が応にも受け継がれていく。
朝食を配膳し、オスカーの弁当であるサンドイッチを弁当箱にぎゅうぎゅうに詰める。彼の悩みは身長が伸びないことであることは熟知している。いっぱい食べさせれば、ほんの少しでも成長するだろう。
リビングのテーブルに朝食とパンが並び、美味しい匂いに誘われて、リビングの隅っこ、アーネストを枕にして寝ていたシャーロットが起きる。
オスカーも部屋から顔を出した。すでにブレザーの制服に着替えていた。
「おはようございます」
「……ぉはよ」目を擦りながら洗面所へ向かうシャーロット。
「おはよう」
「おはよう。ご飯、できてるよ」
食卓を囲むことに慣れてきた、とエヴァンは感じる。食事は基本一人、時々相棒などで数人。本部の食堂での食事が和気藹々としているなど忙しいのでほんの一瞬だ。
懐かしい風景だ。
オスカーがスープを一口飲んで息を吐く。
シャーロットが洗顔を終えて真っ先にカットされたフルーツに手をつける。
レイチェルが珍しく朝食をともにする。野菜を食べなさい、とシャーロットに野菜たっぷりのスープを押し付けてゴネられる。
「……」
目を細める。
そういえば、大昔に在籍していたパブリック・スクールの食堂はとても賑やかだった。次の授業の予習、休日の過ごし方について、テストをどう攻略するか。長方形の卓に群がって話し合った。少年時代はあっという間に終わって、そのあとの出来事は思い出したくもない。
忌まわしい記憶を思い出しそうになって、パンを千切り、野菜スープに一度浸してかじりつく。
「今日は久しぶりの登校ね」
行儀のいいテーブルマナーをきっちり守るレイチェルがオスカーに微笑む。
パンをリスのように頬張っていたオスカーは、口のなかにスープを流した。一息ついて頷く。
「友達に会えるのが楽しみです」
「昨日から緊張してたの? 目の下に熊ができてる」
「え、こ、これは、ですね……そうですね、ちょっと、眠れなくて」
オスカーの目の下にはうっすらとくまができている。レイチェルに気づかれないようにエヴァンは目を自然とそらした。
夜遅くまで彼にラテン語を指導していた。死祖の名前から分かるだろうが、死神機関の公用語はラテン語である。別に母国語で喋っても構わないが、本部からの手紙は全部ラテン語だ。昨日オスカーが訪問した時は、彼に考慮して英語で話していた。
どこに派遣されてもいいように、死神は見習い時期からたくさんの語学を叩き込まれる。オスカーはその時期なのだ。
ラテン語からはじめ、フランス語、英語、中国語……。植民地政策によって英語が主流となっている地域が増えてきているが、元から根付いていた言語が簡単に消えるわけがない。言語は多く覚えておくにこしたことはない。
レイチェルに何かしら怒られると心が萎んでしまうので話題を変えることにする。
「オスカー」
呼ばれてオスカーは顔をこちらに向けた。口元にパン屑がついていた。
「弁当を作っておいたが、味が合わなかったら言ってくれ」
「えっ」
眼鏡越しのヘブンリーブルーの瞳が驚きに丸くなる。
「先生が作ったんですか?」
「そうだが……」
気に食わなかっただろうか。
エヴァンの焦りはすぐに杞憂に終わる。オスカーは溢れんばかりの笑顔になった。
「弁当の中身はなんですか? サンドイッチですか?!」
「……サンドイッチだ。具をたくさんにしてある」
「やった!」
具沢山にしてあることにオスカーはとても喜んでいた。安堵しているとシャーロットが首を傾げてこちらを見てきた。いったい何だろうか、と思っていたら、片手を差し伸べる。
「私の分は?」
「知らん」
お前は学校に行かないだろうが。
何度も学校の準備ができているか確認して、レイチェルに見送られてオスカーとエヴァンは学校へ向かった。オスカーの怪我のことも心配であるし、学校の視察もある。シャーロットも学校へ行くように仕向けるか迷ったが、あの字の汚さは絶対治らないものだ。まず本人に自覚がない。
現在の学校には興味があった。エヴァンの知る学校とは、ちょっとした間違いでも教員に鞭で叩かれるところだった──何かしらの失敗があった生徒を鞭打ちしたり、教室の晒し者にするのは当然で、教育に必要だという認識があった。
パブリックに通ってはいたが、それは家の経済力ではなく、金持ちの補助があったから行けたのだ。それまでエヴァンは全く意味のない暴力に遭っていた。しかし世間はそれは仕方のないことだと済ませた。だからこそ、現在の教育現場がどうであるかを知りたい。
オスカーが言うには中等部はとても楽しいものだという。教師の暴力はないし、図書室が充実している。休み時間になると外で遊んだり、各々自由気ままに過ごす。時には教員まで混ざるというのだから驚きだ。
「ただやっぱり授業料は高いかな、って思います」
「ふぅん」
義務教育は初等部まで。特に田舎は非公式の学校に通っている世帯もある。
学校までの道のりはそう退屈しない。オスカーが見つけた秘密の通学路というのはなかなかいいものだった。迷路のように右に行ったり左に行ったり。
「ここの花屋さんの息子さんは僕のクラスメイトです」
鮮やかな色に包まれた花屋だ。看板女将が花屋の入り口に佇んで微笑んで手を振る。
「おはようございます、おばさん。テオはいますか?」
「おはよう。テオはもう早めに学校に行っちゃったみたいなの。珍しいことにお弁当まで忘れて行っちゃったのよ、あの子ったら」ぽっちゃりとした体型の女将が眉尻を下げて困ったように告げる。
「それなら僕が届けますよ!」
「頼んでいいかしら?」
「任せてください!」
それなら、と女将は一度店の奥へと向かい、しばらくして包みを持って現れた。添えられている紙袋はオスカーへのお礼だというので覗き込むとクッキーが入っていた。
「そういえば、そちらの方は?」
「僕の親戚のお兄さんです。その、観光に来たので僕のフラットで一緒に住むことになりました」
「……そうなのね」
女将の顔が曇る。きっとオスカーの事情を知っているのだろう。ビクトリア号の爆発に巻き込まれ、挙句母親が原因不明の病気に倒れてしまった。憐憫が透けて見えた。
エヴァンは短く挨拶を交わしてオスカーの背を押した。学校に遅れてしまうから、と告げて通学を再開する。
「食いしん坊のテオが弁当を忘れるなんて珍しいなあ」
クッキーを一枚かじりながらオスカーが呟く。さては、テオという少年は女将そっくりのぽっちゃりさんだろう。そう聞くとあっさりとオスカーは認めた。
「ぽっちゃりしてて運動は苦手だけど、テオはとても美味しそうに食べるんです。それでよくダイエットしてる女子たちに怒られるって」
美味しそうに食べている姿を見ると人は腹が減ってしまうし、食への欲求が高まるものだ。
容易に想像できてエヴァンの唇が緩んだ。
残りのクッキーは昼食に食べることにしたオスカーはそっと紙袋を包んで自身の弁当箱のバッグに押し込んだ。
ようやく目的地でもある大きな建物が見えた。ココアブラウンの建物は落ち着き払って佇んでいる。朝の門はとても賑やかだ。
しかしオスカーは門を潜る前に立ち止まって首を傾げた。エヴァンも立ち止まり、彼の視線の先を追った。
「なんで帝都市警がいるんだろ……」
法律の制服に身を包んだ市警が十人以上、学校の敷地内にいる。しかも救護車らしき車体まで見えた。門には教員が数人いて、学生たちに真っ直ぐ教室に行くように促している。オスカーも勿論そう言われた。
「何があったんですか?」
初老の女性教員は口籠もり、困ったように再度教室に行くよう告げる。
訳がわからない、と首をかしげるオスカーに上級生らしき学生が彼を見て大声で告げてくれた。
「テオが講堂で自殺した!」
地面に、テオの弁当箱が落下した。
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