第5話 死神、干渉と発見
エヴァン・ブライアンはフロックコートを脱ぎ捨てる。鋭く顔を顰めて悪魔を蹴り上げた。醜悪な動物は体をひしゃげながらオスカーの頭上をアーチ状に飛ばされた。瓦礫のなかに落ちる。
「随分舐められたものだ」
それでもエヴァンの怒りは晴れなかった。ヴァイオリンを肩に掛け、構える。
「私の、目の前で、我が友の魂を盗ろうなど、余程死にたいようだ」
アメジストとガーネット色の双眸が怪しく輝く。瓦礫から這い上がる悪魔を、逃しはしない。
「聴いてもらうぞ。私の怒りを」
漆黒のヴァイオリンこそが彼の、俗に言う死神の鎌であり、武器である。弾く度に自由自在に、ヴァイオリンの中に組み込まれた歯車──人ならざる者の所有物なのだから、この世のヴァイオリンの構造と一緒にしない方がいい──が噛み合い、作動し、天秤と共鳴する。
共鳴したら何が起こるのか。答えはすぐに出てくる。
奏でられたのは怒りそのものを現した。地面から黒い染みが広がり、ゆったりと波紋を描いたかと思うとそこから激しく波打ち、固く、鋭い槍を数本形成した。
悲惨な状況でヴァイオリンを弾く自分を見るものは、オスカーのみ。他は誰一人として見えていない。そのはずだ。死神の力を行使する時、自然と人間は生存本能を働かせて見えないようにする。死から遠ざかろうとする生物ならではの、防御とも云えよう。
見えるのは、死の淵にいる者、無垢すぎる子ども、先天性と後天性により変わった力を持つ者、それ以外ならば人外となる。見えぬ者たちは肩を寄せ合ったり、聖書を読んで祈りを捧げたり、愛する者への遺書を書く者までいる。死にはしないのに。救助隊はすでに到着して瓦礫の撤去に入った。
「捕らえろ」
勢いよく弓がヴァイオリンの弦を嬲った。大きな音に揺さぶられ、精製された槍は悪魔に集中攻撃した。まずは両足を刺し貫き、地面に縫い付けた。次に両手、腹、首を貫き、動けなくなったのを確認すると音色は氷の冷たさを帯びる。すると雪の結晶の模様が悪魔の頭上で展開され、壁を作り、床を作り、鳥籠の檻へとなった。出口はない。
『出セ!』
何か、悪魔が言っているが、聞かないふりをする。
下級の悪魔ならでは、と云ったところだろうか。舌足らずで聞き取りづらい、稚拙な言語。ただの人間だと意味不明なものに聞こえるだろう。あまりにも耳障りな声に、オスカーが眉を寄せている。
口を封じるものでもさせるべきだった。
「獄界(人が云う地獄のこと)との条約規定違反だ。勝手に魂を奪うことは、禁止されたと
そう告げればやっと悪魔は諦めた。騒ぐことを止め、項垂れて静かになった。
もう満足だ。頷いて、演奏を止めた。オスカーのもとへ歩む。
「やあ、
頭のあるところに立ち、ヴァイオリンを足下に置く。悪魔よりも意地悪に笑みを浮かべて覗き込む。
顔色は未だ青白い。見たところ、死ぬ人間の兆候に間違いないが、死亡書類を作成する前に確かめなければならない。
こちらを縋るように見つめる友に、今度は優しく微笑んだ。壊れ物を扱うように、義手で頭を、頬を、首筋を、優しく撫でる。心臓を収める胸に、手をかざす。
今からやることが、死神の本分だ。
「開け。生命の真髄、人生の
プラチナの指先が、オスカーの皮膚に沈んだ。出血などはない。オスカーの表情はギョッと義手を見つめている。とうとう義手の手の部分がすっぽりとなかまで入ってしまった。
さて、目的のものは。
エヴァンは無遠慮に弄った。子どものそれを捜すのはやや時間が要る。指先に熱いものがあたる。それから生きている振動も伝わった。
「見つけた」
これだ。エヴァンはそれを掴んだ。義手越しでも伝わる鼓動が、そうだと告げている。
潰れないようにしっかりと。
握ったそれを、エヴァンはオスカーの胸から取り出した。
どくん、どくん、どくん……。オスカーのこぶしほどの大きさの心臓が、エヴァンの手のなかで鼓動している。黄金のオーラを纏い、オスカーの体と繋がっていた。
「君の魂だ」
そう告げると黄金のオーラは揺蕩い、オスカーの体を形作った。意識が、出て来たのだ。幽体離脱をした、と説明すれば分かるだろう。
長く肉体から離すことはできないが、そうまでしないと見れないもの、測れないものだ。
オスカー少年は出て来た瞬間に、好奇心に瞳を輝かせた。「これって幽体離脱?!」と歓喜に踊っている。周囲に気づかれないことをいいことに、色々と人の顔色を伺おうとする。エヴァンの悪戯の癖が移ったかもしれない。
愛らしい姿を一瞥したあと、エヴァンはオスカーの心臓──否、魂を見つめた。
弱々しく鼓動するそれを大事に手で包み、輝く歪な天秤に乗せた。
隣で、ようやく事態に落ち着いたオスカーが静々と隣に立った。死にかけていることに変わりはないのだから。
「僕は、死ぬの?」
「いいや、オスカー。君は助かるかもしれない」
「かもしれない?」
曖昧な返事に不安になったのか、今にも泣きそうだ。
アメジストとガーネットの瞳を細め、エヴァンは天秤に集中した。オスカーも、天秤を覗き込む。見えるように天秤を移動させた。
オスカーの心臓を乗せた皿が下に深く傾く。
「あっ」オスカーが失望の声をあげる。
まだそう失望しなくていい。
エヴァンは懐から髪の毛の束を取り出した。同じ黒髪と、金髪、微妙に色味の違う黒髪も混ざった髪の毛を三つ編みに織り込んで、赤いリボンにまとめられたそれを、片方の皿に置いた。その瞬間、ぐぐぐとゆっくりと魂を乗せた皿が均衡になり、髪の毛を乗せた皿が下に傾く。
「君はまだ幼いし、それほど大きな罪を犯していないようだ。分かりきっていたことだが」
「──分かっていたのに、乗せたの?」意味があるのか、と問いかけてくる。
「この行為はおおいに関係がある。こうでもしなくては、魂に干渉はできない」
「干渉って?」
「見たまえ」
魂に手をかざし、エヴァンは唱えた。
「展開せよ!」
魂が一際大きく鼓動した。形を変えて、長い長い本に変わる。それを天秤から取り、オスカーに差し出す。
「見てみるといい」
勧められたオスカーは頷いて本を開いた。いったい自分の魂に何が刻まれているのか、知りたかったのもある。好奇心がページを捲る。
しかし、正確に読むことは困難を極めた。本に記されてあったのは、文字ではなかったのだ。
「何、これ、読めないよ!」
全てが楽譜だったのだ。五線譜に音符。音楽に深く関わりのない人生を送ってきたオスカーにとって、楽譜はとても大嫌いな読み物である。音符など揺蕩う蛇のようなものだ。ズキズキと頭痛がした。苦手なものに対してはいつもこうだ。
顔をしかめる彼に、エヴァンは小さく笑って本を奪う。
パラパラと何ページか捲ってにやにやと笑っている。
「君は五歳の頃に友人を驚かせようとしたのに失敗して、転んだみたいだね」
「どうしてそれを!」
「書いてある」
「読めるの?」
「勿論。では証拠にもう一つ君の恥ずかしい思い出を──」
「だめ! だめだから!」
必死に止めるオスカーにエヴァンは悪戯に火がついたように笑みを浮かべた。もうしないさ、と肩を竦めるとオスカーは静かになる。
「エヴァンは、魔法使いなの?」
「いいや」
魔法使い──その単語に眉をしかめる。死神にとって魔法使いや魔術師は、味方や敵になったりする天使や悪魔とは違い、完全に敵である。
死神が魂の管理者と仲介人とするならば、魔法使いと魔術師は魂の侵略者と殺戮者だ。
魔法使いと魔術師の最大の特徴は長寿である。死神による魂の干渉を一切受け付けない。なので死ににくい。彼らが産まれた原因は、死神の持つ天秤を我がものにしようと取り組んだからだ。太古から誰もが一度は克服したいと思う死を、死神からヒントを得ようとした。その結果生まれたのが、魔法と魔術という天秤のまがい物である。
時には死神を捕らえて非道な実験と研究が行われた。故に、魔法使いまたは魔術師は完全なる死神悪なのだ。
エヴァンの無いはずの右腕が疼いた。義手が固い音を鳴らしながら小さく震える。
「エヴァン?」
どうしたの──紡ごうとしたオスカーの口から漏れたのは、苦痛の叫びだった。自分の体を抱き、叫びながら床に悶えるオスカー。
慌ててエヴァンは本を開いた。数枚捲り、手を止める。予想してなかった光景に、思わず目を見開いた。
花の形をした七色に輝く鉱石が、楽譜を突き破り、今にも花開こうとしていた。
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