第3話 死神、追放と再会
ため息が漏れた。あの任務を受け持った日からの怒涛の多忙さに意識が遠のきそうだ。現実に戻ったエヴァンは給仕が持ってきたオレンジをアーネストと半分に分け合う。
「まさかこんな形で里帰りするとは思わなかったわ。あなたもそうでしょう、エヴァン?」
「私は来たくなかったさ」
「……でしょうね。いつもあなたは大帝国に行くの嫌がってたもの。理由は分かるわ」
シャーロットの目の前にホイップクリームの乗ったココアが置かれる。甘いそれに、シャーロットは問答無用で砂糖を追加した。あまりにも残酷な光景に、思わず目を反らす。
角砂糖を五粒ほど投入し、乱雑に混ぜられる。彼女はエヴァンの歪んだ表情に素知らぬふりをして会話を続けた。
「相棒だからあなたのこと、サポートするからちゃんと無理な時は言いなさいよ」
「そうするよ」
「義手の具合はどう? カルディアさまが心配してたわ」
「手入れはちゃんとしている」
かの死祖は随分と心配性だ。エヴァンは白衣の死祖の姿を思い出す。籠りきりのせいか、分厚いレンズの眼鏡を愛用し、髪の毛は適当に結ばれた彼女は、死神たちにとって姉のような存在だ。義手と義眼を提供してくれたのも、彼女であり、エヴァンの恩人だ。しかし解せないのは、今回の仕事の相棒以上に甘党であること。
エヴァンはちらりとシャーロットを見た。あんなに甘ったるい劇薬のような代物を、美味しそうにいっき飲みしている。胸焼けがして胃の部分をさする。
冷めないうちにアールグレイを飲み干し、ゆっくり過ごしたあと、二人と一匹、一機は喫茶店をあとにした。流石は機械の産業に力を入れているだけはあるロンドンだ。動物アレルギー持ち──三百年前にアレルギーの存在と対処法はやっと広まった──でもペットを飼えるように機械仕掛けの動物が誕生した。金属のラブラドールが初老の紳士と散歩を楽しんでいる。
「ホテルは、確かこの先だったな、シャーロット」
地図を広げてシャーロットに確認する。飛行船の方が早かったので、彼女が先にチェックインしているはずだ。
「あー……」
隣を歩いていたシャーロットが立ち止まり、あからさまに目を空へと向けた。胸中に厭な予感が波紋する。この国では彼女とは兄妹という設定で過ごす予定だ。
「シャーロット?」
「じ、実はね、エヴァン、あのね」
歯切れの悪いシャローットの頭を、アンネが非難がましくつつく。
「ホテル、追い出されちゃった」
衝撃的な言葉に、エヴァンは開いた口が塞がらなかった。
とあるロンドンの路地裏で、男が一人の少女を前にして腕を組んでじっと見下ろしている。少女は気まずそうに肩を上げて、目を彷徨わせた。逃げないように、黒い大型犬が少女の横に佇んでいる。重たい旅行鞄を無防備に二つ置かれているが、悪党もスリに慣れた子どもでも手を出しにいけないほど、二人の間に流れる空気は冷たいものだった。
「まず、私に言うことがあるんじゃないか? え? シャーロット?」
「ご、ごめんなさいぃ」
この少女が何をしたのかというと、拠点となるホテルでやらかしたのだ。そこのホテルはそれなりの富裕層が使う場所でもあった。ネズミを素手で掴んでキッチンに運んだり、食道で見せびらかしたり。他のホテルでもこのようなことをされたら追い出すに決まってる。
「その生前のくせをなんで治さないんだ? 言ったよな、俺、この前にも」
「だって、そこに、ネズミがいたんだもん」
シャーロット?
エヴァンの唇がひくり、と引きつった。必死に笑みを浮かべているが、額には青筋が浮かんでいる。
「し、仕方ないじゃない? 丸々太ったネズミがどれほど、腹を満たしてくれると思ってるのよ。昔、私がどんな暮らしだったか、知ってるでしょ?」
こう言われたら強くは言えなくなってしまう。
しかしだ、拠点がなくなったのはとてつもないほどの問題だ。きっとこれから捜すのは大変だろう。なんたって、この時期は社交期。各国の貴族も顔を出すのだ。きっと良いホテルは全部まるごと借りられている。
「ほ、ホテルは私がなんとかするわ! お金は任せて! 綺麗な字を持つ私のことだもの! いい仕事があるはず!」
「止めておけ」
「ひ、ひどい」
シャーロットは傷ついたと言わんばかりに涙を貯めた。そんな顔しても了承する気にはなれない。何故なら彼女の字は壊滅的に汚い。
いや、汚いどころではない。英語だとアルファベットだと認識するのも難しい。あんなにエヴァンよりも長く死神でいながら、今日に至るまで、彼女の字を読めた試しがない。そのため、書類作成に万年筆ではなく、重たい修正機能を搭載されたタイプライターを死祖カルディアから提供された。
「私の芸術的センスに満ちあふれた字を、皆に披露するチャンスなのに!」壊滅的センスの間違いだ。
「しなくていい。いい。それに、死神が深く多くの人間に関わるのは好ましくない」
小さい頬が真っ赤に染まって膨らんだ。睨まれるが全く怖くない。
「私より年下のくせに」
年上のくせに子どものような発言をしているのはどこの誰か。呆れて何も言わずにため息が漏れる。
「……拠点はなんとかなる」
エヴァンには心当たりがあった。もしかすると、なんとかなるかもしれない、という希望が。
どういうことか分からないシャーロットを引き摺って、エヴァンはロンドン郊外の病院へと向かった。車を拾おうか迷ったが、人口が過剰に密集した都市でタクシーを捕まえるのは至難であった。
足が疲れた、と何度も駄々を捏ねるシャーロットを宥め、時には屋台のレモネードも買ってあげたりもしながら、目的地を目指した。屋台の店主からは似てないけど、いいお兄ちゃんだね、と言われてしまった。本当は可愛い妹のふりをしているシャーロットが百歳ほど自分より歳上なのだが。
到着した郊外の病院はとても清潔な面構えをしていた。白を基調にした医療現場の要塞といったところか。死亡率が低くなったとしても、死神にとっては縁の深いところである。
「大昔はひどかったわよねー」
レモネードについていたレモンの輪切りを咀嚼して、シャーロットが呟く。
「これも
千九百十年八月十三日に病死する予定だった看護の革命家フローレンス・ナイチンゲールは、ラグナロク世界大戦の際に従軍看護婦として出動し、女帝から女帝騎士勲章を授与されて今も健在である。
彼女の存在がなければ、大帝国中の病院は不潔のままだったかもしれない。
「女帝騎士も調査してみた方が良いんじゃない? 人間のくせに五百年も死なないなんて変でしょ」
「対象が難しすぎる。魔術師が向こうにいるんだぞ」
「そうね、そうなると、あんまり会いたくないわ……。それで、ここを拠点にするの?」
まさか死体安置所に寝泊まりするのか。あからさまにシャーロットは嫌悪感を出す。
死神のくせに嫌がるのかと思うだろうが、そうではない。死体安置所はカタコンベや墓地の次に亡霊たちの住処となる。まだ大人しい亡霊たちがいればいいのだが、様々な性格があり、なかには死神たちを恐れない無作法ものまでいる。その性格の亡霊に、シャーロットは痛い目に遭った。
用があるのは死体安置所ではない。
病院内に入るとなかは騒然としていた。たくさんの患者が運び込まれたのか、医者と看護婦が清潔な廊下を慌てて走っている。
二人は顔を見合わせ、天秤の力を解放した。シャーロットの頭上に、ゼフィランサスの花に包まれた小さいアンティークの銀色の天秤が浮かぶ。看護婦と医者が集まるその先に二人は走り出した。皆、二人とアーネストとアンネの姿を見ていない。
「何あれ」
シャーロットが驚きの声をあげた。広い病室に、たくさんの人間が運び込まれ、全てのベッドを埋め尽くしている。老若男女、誰もが、顔を蒼白にして死んだかのように眠っている。
「魂がないぞ」
一人の患者の胸のなかに手を沈ませてエヴァンはシャーロットを呼んだ。
「な、なんでよ、おかしいわよ。脈は動いてるのに、魂がないなんて」
シャーロットは上着にかけていた丸い愛らしい懐中時計を引っ張り出した。ピンクと金の装飾のそれは静かに時を刻んでいるだけで、他は何も言わない。
「懐中時計がなんの反応も示さなかったわ」
「それは死の予言だ。この人たちは死んでない」
「それなのに、魂が消えたというの? 肉体から? そんなことができるのは、私たち死神と天使と悪魔ぐらいよ」
「いや、もう一人できる奴がいる」
エヴァンの顔は恐怖と憤怒に燃えていた。記憶が蘇る。
雨のなかのロンドン。
夜の帳がずっしりと降りたロンドン。
その雨に打たれる、自分ともう一人。右腕は千切れ、右目は奪われた。そして、一緒にいた人物も。
──エヴァン、私の
胸から血を吐き出す、黒い肌の男がエヴァンを優しく見つめている。
──いやだ、いやだ、やめてくれ、その人だけはやめてくれ。
雨の向こうに、闇そのものがエヴァンを嘲笑う。
──これ以上、お前に、お前に奪われてたまるか。
血まみれのまま、エヴァンは親友と言ってくれた男に手を伸ばした。せめて魂だけでも救おうと。
親友の体が、びくりと震える。後ろから胸を突き破った手が、エヴァンよりも早く親友の魂を、心臓ごと引きちぎった。
空っぽの肉体が鮮血を雨に溶かしながら、力なくエヴァンの目の前に倒れる。虚ろな瞳と目が合った。
──ぁ。
冷たい雨に、エヴァンの絶叫が響く。
「エヴァン?」
シャーロットがエヴァンを現実に引き戻した。顔を青ざめたエヴァンを、心配に見上げている。それを無視してエヴァンは言い切った。
「魔術師だ。魔術師の仕業だ。昔よりも高度になっている」
また、義手と義眼が疼いた。
あの非力だった頃が、反芻する。
その後ろで、再び喧騒がやってきた。聞き覚えのある少年の「母さん!」という、切ない声がして、エヴァンは振り向いた。シャーロットもエヴァンの視線を追う。
「母さん!」
包帯と清潔な入院着に身を包んだオスカーが、病室に雪崩れ込む。付き添いでともに来た看護婦が、オスカーを止めようとした医者に、なんと弁明する。
「あの、実は、お母様がこのなかにいらっしゃるみたいで……」
オスカーはキョロキョロと見回し、病室の窓際にいる女性へと駆け寄った。
「母さん、どうして」
悲痛な声が病室を支配する。
オスカーの母親は顔を蒼白に染めて眠っていた。まるで血を全て吸い取られたかのように。
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