side B 面倒な弟が増えたみたいだ
エプシロン・テクノロジー横浜本社ビルの最上階に近い社長室。
役員会議を終え、ロベルト・ハスラーCEOの招きでアダム・ブレインズは社長室に通された。
中には黒革のソファに座るハスラー本人、そして黒いパンツスーツのトオイ・イブキが傍らに立ち、ブレインズを出迎えた。
壁一面の大きな窓や絵画、豪華な調度品が列び、絵に描いたような社長室である。外はすっかり暗く下方には横浜市街の美しい夜景が広がっている。
その華々しさとは裏腹に寒々しさを感じるのは、偏に部屋の主人の印象によるものだ。
部屋の主、ハスラーはオールバックの白髪にグレイのスーツを着た老人だが、血の気のない顔に痩せ細った身体はまるで蝋人形のように見える。
部屋の隅に置かれた車椅子がハスラーの健康状態を物語り、一切の色がないモノトーンの空気が部屋中を冷たく満たしている。
対するトオイは、背筋を伸ばした美しい姿勢が育ちの良さを窺わせる。瞳と同じ淡いブラウンの髪は後ろで纏められ、前髪の隙間からNDポートが見える。
「ああ、そうだ。直接会うのは初めてだね。改めて紹介するよ、トオイ・イブキ君だ」
この部屋の主人は、ブレインズが社長室に踏み入るなり切り出した。
「はじめまして、トオイ・イブキです。お電話ではいつもお世話になっております」
「こちらこそはじめまして、イ重力研究科学局のアダム・ブレインズです」
型通りの名刺交換。視線を名刺に向けると『伊吹 十一』と記されている。
「ほう、珍しいお名前ですね、『十一』と書いて『トオイ』と読む」
「私はナーヴス出身ですので、養成施設で付けていただいたものです。この名前、気に入ってるんですよ、誰彼も間違いなく覚えてくださるので」
「忘れないのは名前の所為、だけとは思えませんが」
ブレインズは遠回しに世辞を言う。
実際、トオイは印象深い佇まいをその身に纏う女性である。黒ずくめのお堅いスーツ姿だが、目元の小さな黒子が仄かな色気を醸し出している。
「そうそう、お茶をお持ちしますね」
トオイはにっこりと微笑みながら、部屋の給湯室らしき部屋に消えていった。
淡いブラウンの髪と瞳、額のNDポートはナーヴスの主な外観的特徴である。つまり彼女も元は調整クローンだ。
「ああ、頼むよ…… 彼女は秘書としても優秀だが、この身体なんで色々助かってる」
老人はそう告げると、ソファの対面に手招きでブレインズを誘導した。
「さて、ウチの会議は君には退屈だったろう。五年くらい前から同じような話題が、延々とループしているだけだ」
「私共も状況はそんなに変わりませんよ、何しろ『頭』が打ち止まってますから」
ハスラーは不平を口にするが、言葉の割にうんざりした様子はない。
一方、ブレインズの口調は落ち着いたままだ。
「またその話か。よっぽど恐しい稟議を私に上げさせる気のようだな、君は」
その話とは、以前の『記録に残せない』通話で交わした『跳躍弾頭』のことである。
すると、トオイがお茶を持って現れる。
老人は早速お茶に手を付け、香りを確かめ始めた。
「それでは遅くなりましたが、こちらが最終の……」
ブレインズはブリーフケースから一枚の封筒、その中身の紙の書類を取り出す。
予算申請の稟議書である。
彼はイ重力研究科学局の人間だが、ハスラーの名で代筆をしているのだ。
「これだけは変えれんな。唯一これだけだ。本物は唯一でなくては」
老人は紙の書類を手に取ると、その感触を指で確かめている。
座った重心を前のめりに変えた所為で、黒革のソファは小さな摩擦音を鳴らす。
「一時はペーパーレスから回帰する風潮もございましたが、今はやはり希少かと」
「ま、私が退けば、後の者が変えるだろう……」
「あと件のシュペール・ラグナ、今週中にはお引き渡しできるかと。あれを通すには骨が折れました。何しろ掟破りの完全自律運用の艦、ですから」
ブレインズはさぞ厄介事のように語る。表情は依然として変わらない。
「実際はまだ不完全ですが。法改正を見据えてのテストベッド、ということで」
「ほほお、そうか、そうか……」
目を細めた老人は紙の書類をまだ触っている。
「ご自身はv10をお貸しくださらないのに、私共には違法紛いのことをやれと仰る。無茶を言います」
彼は皮肉を付け足すが、ハスラーは全く意に介さず。
トオイはそのやりとりを聞いて、笑っているように見える。
ブレインズは初めてお茶に手を付ける。
この会談がひと段落ついた、ように見えた。
「ところで、話は変わるが……」
ハスラーは別の話題を切り出した。
「八年前に消息を絶ったアストレア、直前まで一体何をしていたか。君は知っているかね」
「超常知性構造体と交戦、のはずですが。与太話で良ければ……」
僅かに口角を上がるが、特に表情は崩さない。
「私も噂程度のものだがね。まだアストレアの捜索は続けとるんだろう、君のところは」
「はい。裏付けがない話ですので、私共としては、それは与太話と」
「アストレアは奴らと『対話』を交わした。私が耳にしたのはな」
ハスラーは一旦大きく息を吸って続けた。
僅かだが声の調子が上がっている。黒革のソファが再び小さく鳴く。
「本当にアストレアが奴らと対話できたなら、一体誰が、どうやって、何を用いて」
「…… 演算思考体の話でしたら、私共よりは御社の方が、お詳しいかと」
ブレインズは一語一語、言葉を確かめるように口にする。
超常の存在を相手に対話する手段など、生身の人間には到底無理な相談だからだ。
何かを推し量ったかのように老人は言葉を返す。
「そうだったな。君は本当に食えぬよ。ま、噂話だ」
ハスラーが手招きをすると、トオイが印が入ったケースを持って差し出した。
「本物は唯一でなくてはならん。一つでいい。そうだな? トオイ」
ハスラーは書類に日本式の印を加えながら、彼女に同意を求める。
トオイはにっこりと微笑んだ。
***
イオは買い物リクエストの品を皆に配り終えて一息つくと、再びヘパイストス2Fのメディカルルームに向かう。治療を終えたヒトがそこで寝かされているからだ。
リウ医療管理官の診断によると、ヒトはいくつかの骨にヒビが入っているものの、骨折ほどの大事には至っていないとのこと。
ナーヴス特有の治癒能力とニューメディカの相乗効果で、常人の半分程度の期間で回復が見込めるが、それでも最低一週間は安静と命じられている。
――― ベッドに縛りつけないと、おとなしくできないだろうな。
そう思いながら階段を昇っていると、エリックとすれ違う。
「イオちゃん、ヒトなら意識が戻って話せるよ。大変だったね」
既に見舞いを済ませた彼は、そう告げると階下に降りて行った。
メディカルルームに足を踏み入れると、今日はドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が静かに部屋の空気を満たしている。リウの趣味であるピアノ曲だ。
イオはカーテンで仕切られたヒトのベッドを覗く。
ベッドを挟んで左のパイプ椅子に座るリコ、同じく椅子に座る対面側のセリ、セリの隣りで腕組みをしたニュクスが立っている。
リコはヒトの右手を握り、ベッドに半身を預けて眠っている。緊張が解けて安心した所為だ。
長いまつ毛にふわふわの柔らかい髪。亜麻色、と呼ぶには少しだけ深い。
――― う、うーむ、包んで持って帰ってしまいたいほど……かわいい。
とは、発想が犯罪すれすれのイオの感想。
対するもう一方の亜麻色、セリは細くて長い腕と長い脚も組んで「つーんっ」としている。怒っているように見えなくもない。
肝心のヒトはと言えば、普段から包帯巻きの右腕の他、あちこち包帯と絆創膏だらけにされている。まるで漫画のミイラである。
ヒトはカーテンから覗くイオに視線をチラと向けた。
「さすがに四人で取り囲んじゃうと、ヒトに尋問してるみたいだから引き上げるわ」
と、ニュクスは大きな溜息を吐く。
「あ、そうそう、彼はどうせ動けないんだから、言いたいこと言っちゃいなさいよ」
ニュクスはウインクしながらメディカルルームを後にした。
やれやれ、とイオは若干の疲れと安堵を覚える。
軽く咳払いをして、口を開く。
「余計なこと、とは言わせないよ。私、パートナーなんだから困るに決まってるでしょ。それに…… 現に実害も、無くはなかったし」
チーズ鱈のことも何気に根に持っている。
ヒトはイオに一瞥した後、天井に視線を向け、ぽつりと一言だけ呟いた。
「面倒、かけた……」
ヒトにしては弱々しいトーンだ。
イオはその昔、まだ小さかった弟達が外で喧嘩をして、傷だらけで帰ってきた時のことを思い出す。もっぱら謝りに奔走するのはイオの役目だった。
――― 面倒な弟が増えたみたいだ……
今はそんな気分である。
「我が弟がここまで愚かとは思わなかった。こんなになるまで抵抗しないなんて」
と、それまで黙っていたセリが立ち上がる。
ヒトに覆い被さるようにベッドに両手を突き、その美しい顔をヒトの顔に寄せる。
「まあ、いいわ。いつものように逃げられるものなら、逃げてごらんなさい」
セリはそう言うと顔を横に向け、ヒトの身体の上に「どすんっ」と上半身を載せる。
小さく呻き声を上げるヒト。
「あらヒト、痛いのは大好きでしょう? このくらい我慢しなさい。『ちびヒト』が目を覚ましちゃうじゃないの」
セリは不敵な物言いをする。ヒトの胸に横顔を預け、いたく満足げだ。
「もうっ、ヒト。くすりくさーい。なんとかなさい」
どう見てもこの状況を楽しんでいる。セリは嬉しそうに無茶を言う。
「セ……」
「なあに? ヒト」
「セリ、重『どすんっ』
ヒト、再び呻き声。
弟がドMなら姉はドSである。
――― 『面倒な弟』は撤回しよう。この姉弟達とは混じれない、まじ無理。
結局、カイのことは誰も触れなかった。
***
「どうだね、直に会った感想は?」
ブレインズを帰した後、ハスラーは傍らに立つトオイを見上げる。
トオイはにっこりと微笑んだが、窓に視線を移すと笑みは消えた。
「イ重力研究科学局、開発統括責任者アダム・ブレインズ。そして超演算思考体反抗ネットワーク、『名も無き賢者』の首魁」
トオイはハスラーの肩に手を乗せ、淡々と呟いた。
視線は美しい夜景が広がる窓の外ではない。
窓を見つめたまま微動だにせず、瞬きひとつしない。
そこには二人の姿が映し出されている。
「収集した情報と寸分違わない。改めて語るほどの感想はない」
「そうか、彼にはもう興味はないか」
トオイは念を押す。その口調には何の感慨も含まれない。
「『もう一人の我』が動き出した今、彼はこれ以上、何も『我々』にもたらさない」
「それもそうだな、〔一番目のイレヴン〕」
トオイは納得したようにその言葉を口にした。
ハスラーだったものは、糸が切れた人形のように項垂れている。
「それは私の意思であり、あなたの意思でもある」
トオイはそれに視線を落として、ゆっくりと呟いた。
そして、一人芝居は幕を降ろした。
***
宙に現れたそれは相変わらずゆらゆらと揺れているが、以前より鮮明さを増している。
内側からぼんやりと発光し、黄金色に輝く長い髪が何も纏わない身体を優しく包み込んでいる。まるで水の中にふわふわと浮かんでいるようだ。
それは髪の隙間から覗く白い指先で、宙に何かを書こうとしている。
エリックは自室に現れたそれの行動を、ただ座って見守るしかない。
『 G E T O F F 』
それは時間をかけ、ゆっくりと丁寧に指先で書いた。
エリックは困惑の表情を浮かべ、静かに問いかける。
「降りろ? 何から? もしかしてヘパイストスを降りろってのかい?」
それはこくりと頷く。いつもと同じように、ふふっと笑う。
「どうして? 何が起こる?」
エリックは首を傾げる。
初めて具体的なメッセージを伝えようとしている。
だが、意図がまるで掴めない。
「ヘパイストスが危険なの?」
それは一呼吸置いて首を縦に振った。
明らかに何かを迷って上で意思表示をしている。
「僕だけ降りる訳にはいかないよ、イオちゃんも居るから」
エリックは首を竦める。
今の彼は不本意ながらも自らの責任のみでヘパイストスに乗艦している訳ではない。少なくとも本人の中ではそうだ。
それは困惑したように首を傾げる。
次に、何か言葉にしようと唇が動いたその時、再び境界が曖昧になり、やがて消えた。
エリックは立ち上がり、追うように手を差し出す。
だが、虚しくその手は宙に残った。
「もう、訳が分からないよ。アルヴィー、一体何が始まるの?」
最後の唇の動きは『イ』と発音したかのように見えた。
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