第21話「先輩! 私っ……」

 9月に入り新学期が始まると、佳奈は毎日のように部室へと顔を出した。元々文芸部は、部長である夏帆自身がアルバイトのため出られない日もあることから「出られる時だけ出れば良い」という方針になっていた。


 佳奈自身も家の用事があったり、課題が多いときなどは休むことも多く、1学期は週に3回ほど出れば良い方だった。しかし、嗣人だけは律儀に毎日放課後に部室に行き、自分の小説を書いたり、持ってきた小説を読んだりして過ごしていたことを佳奈は知っていた。


 夏休みが始まる前、佳奈は「嗣人との関係をはっきりさせたい」と思っていた。しかし心の中ではなんとかしようともがいていたものの、それを行動に移すことがどうしてもできないでいた。夏合宿の時も、何度かアプローチするチャンスはあったが、いざとなると身体が言うことを聞かず、結局全て棒に振ってしまった。


 そのせいで、佳奈は夏休みをずっとモヤモヤした気持ちで過ごす羽目になる。


 しかし全く成果がなかったわけではなかった。合宿で気づいたことは「名護先輩は、やっぱり夏帆先輩のことを気にしている」ということと、同時に「でも、それが恋なのか言うと、どうも違う気もする」ということだった。


 言葉で具体的に説明はできないが、嗣人の夏帆への思いは、恋だけではない。かと言って幼馴染だから、というものだけでもない、それらが混じり合ったものだ。そういう結論に達していた。


 もし、嗣人が夏帆に惚れていて、それが行動に現れていたのならば、もしかしたら佳奈は諦めていたかもしれない。しかし、もし一縷の望みがあるのならば、それに懸けてみたい、それもできるだけ早い内に。夏休みの終盤、ベッドでゴロゴロしながら、佳奈はそういう結論に至った。


 そして、9月に入り2週目の木曜日。


 佳奈は新学期に入り、3度目の決意を固めていた。机を挟み目の前では、嗣人が椅子に腰掛けて文庫本のページをめくっている。遠くの方で、部活の掛け声が響いていた。


 あれはサッカー部かな? いや、今日は水曜日だから野球部がグラウンドを使う日だっけ。ここからグラウンドまで遠いのに、よく聞こえてくるよね。近くで聞いてたら、もっと凄いのかな。でも、本を読んだり小説を書くのには、このくらいの音量の方が……って、そういうことじゃなくって!


 ノートパソコンを広げて、小説の推敲をしているふりをしながら、佳奈は小さく頭を振った。サッカー部とか野球部とか、今はそんなことはどうでもいい。いつの間にかノートパソコンはスリープ状態になっていた。真っ暗になった画面にぼんやりと映った自分の顔を見て、佳奈は「しっかりしろ」と自分に言い聞かせる。


 よし。二回深呼吸したら、そこで言おう。言い訳はなし。ちょっと待ったもなし。何度かの失敗で、佳奈が学んだことは「ごちゃごちゃ考えないこと」だった。そうすると決めて、ただそれを実行する。そうでもしないと、永遠に動き出せない気がする。


 大きく息を吸って吐いて……吸って吐いて……。


「あのっ! 名護先輩っ!!」


 自分でも驚くくらいの大きな声に、嗣人はビクッと身体を震わせて、それに合わせてパイプ椅子の軋む音がした。滅多に見ないほどの驚いた顔で、嗣人が「なに? どうしたの?」と手に持っていた本を机に伏せるのを見て、佳奈は一瞬「しまった」と目を閉じてしまう。


 いくらなんでも気合が入りすぎた。でも、もう引くことはできない。嗣人はじっと佳奈を見つめている。文芸部に入って嗣人と出会って半年。早かったかな? もうちょっと段階を踏んだ方が良かったかな? いや、でも、夏合宿もあったし、それ以外にも部室でたくさんお話もできたし……。


 いやいや、なんでまた考えモードに入ってるのよ。言うんでしょ。言っちゃえ。


「名護先輩……。私……私……」


 息が苦しい。ただ椅子に腰掛けているだけなのに、呼吸が乱れる。心臓の音が聞こえてくるし、全身の血管が脈を打っている音さえ聞こえてきそうだ。それに負けないように、両手を胸の前でギュッと握りしめた。


 その代わりに固く閉じていた瞳をゆっくりと開く。ぼんやりとしながらも、嗣人のシルエットが視界に入ってきた。嗣人は相変わらず佳奈の方を黙ったまま見つめていた。少しすると、嗣人の顔がはっきりと見えた。


 ちょっと困ったような表情ながら、どこか微笑みかけているようにも見えた。状況が分からず戸惑いながらも、佳奈の言葉の続きを辛抱強く待っているようだと佳奈は思った。それに気づくと少し心が軽くなって、少しだけ落ち着いた気分になった。


「名護先輩っ! 私、名護先輩のことが好きです!!」


 今度は声を意識しながらも、できるだけ力強く。語尾もはっきりと言い切れた。言葉にした途端、スッと心が軽くなるのを感じた。まだドキドキしていることには変わりないが、ずっと落ち着いているようにすら感じられたのが不思議だと思った。


 もう一度嗣人に視線を合わせると、笑みは完全に消え、どこか驚いているような顔になっていた。両目はまっすぐ佳奈を見つめていたが、口元はギュッと閉じている。何か言って下さい……。そう思った佳奈だったが、そこで肝心なことを言ってなかったことに気づいた。


「っつっ……付き合って下さっ……ぃ」


 緊張がやや解けかけたからか、自分でも「なんで?」と思うくらい、舌が回っていないことに気づく。でも、時既に遅し。大丈夫、ちょっと噛んだだけだから。そう心の中で念じながら、嗣人の返事を待った。


 嗣人は佳奈の言葉に少しだけ表情が和らぎ、口元も笑っているように見えた。そして机の上に置いてあった本の表紙をそっと撫でながら、しばらく考え込むようにそれを眺めていた。


 部室に再び静寂が訪れる。いつのまにか部活の声は聞こえなくなっていた。今こそ大きな声を張り上げていて欲しい、と佳奈は思ったが、先方には先方の都合というものもあるのだろう。そうそう自分の都合の良いことばかり起こらないものだ。特に、今はそんなことを願っている場合ではないのだし。


 壁に掛けられた古い時計の秒針がカチコチと音を出しているのが聞こえる。一体どれくらい過ぎたんだろう? 佳奈にとっては、もう何時間もこの状態が続いているようにも感じられた。


 徐々に「もう、どっちでもいいから結論を」と焦る気持ちが生まれてきていた。かと言って、それを口にする訳にもいかず、佳奈はじっと椅子に腰掛けたまま嗣人の返事を待った。しばらくすると、嗣人が深く息を吐き出す音が聞こえてきた。


 ため息ではない。何かを決心する時みたいな。つい先程、同じような気持ちになっていた佳奈には、それがそういう類のものだとなんとなく理解できた。嗣人は本の表紙に手をかざして、それをポンと軽く叩くと、椅子を直して仰々しく佳奈の方へと向き直った。


「うん。付き合おうか」


 その言葉が耳から入ってきて、脳で処理されるのに、少しだけ時間がかかった。つまり一瞬佳奈はポカンとしてしまっていた。


 正直な所、この告白の成否を、佳奈自身が疑っていた。嗣人が夏帆をどう思っているのかはっきりしないこととは別に、佳奈が嗣人にどう思われているのかも確信がない。ただ、モヤモヤした気持ちでいるのが嫌だったということ、自分の気持をはっきりとさせたかったということ。その方が強かった。


 だからこそ「どっちでもいいから」という気持ちが生まれてきていたのだが、嗣人の言葉を聞いて、ようやく自分が本当にそれを望んでいたのだと気づいた。結果が知りたかっただけじゃない。やはり嗣人のことが好きで、その思いが報われることを強く望んでいたのだと理解した。


 だからこそ、こんなにもあっけなく、それが叶えられたことに、佳奈は驚きを通り越して、呆気にとられたという気持ちになっていた。しかし、やっと嗣人の言葉と、それの結果を完全に理解して、静まりかかっていた鼓動が再びトクントクンと激しくなっていくのを感じた。


 それにともなって、顔が真っ赤になっていく。暑い……。9月の残暑で、元々暑かった部室の空気が、一気に上昇したように感じられた。汗がじわっと滲んできている。ヤバイ、ハンカチ……。スカートのポケットを探ろうとするが、手が上手く動かない。どこにポケットが付いていたのかすら、分からなくなった気がする。


「大丈夫?」


 そのの言葉にハッと顔を上げると、嗣人が心配そうに見つめているのが見えた。佳奈が必至でポケットを探っているのを見て「あぁ」と、自分のポケットからハンカチを取り出して「どうぞ」と差し出してきた。


 相変わらず人の気持が分かる人なんだな、と佳奈は思った。いつだってそうだった。佳奈が落ち込んでいる時だって、困っている時だって、悩んでいる時だって、いつも真っ先に声を掛けてくれたのは嗣人だった。


 それは佳奈に対してだけではなく、いつも嗣人は周りの人のことを気にかけていた。そのことは佳奈が嗣人に惹かれたことのひとつだったのだが、一方で嗣人のそういう面を好きではないと思っていたこともあった。ただ、今は純粋にそれがとても嬉しいと思う。差し出されたハンカチを受け取ろうとした時、佳奈の頬に雫が流れた。


 滲んでいた汗が流れたかと思ったが、触ってみて、それが涙だと気づいた。受け取ったハンカチで丁寧にそれを拭う。何度かハンカチを押し当てながら、この涙の意味はなんだろうと考えた。もちろん、これまでも泣いたことは何度だってあった。


 小学生の時、同級生の男子に意地悪された時。中学生の時、仲良くしていた友達が引っ越してしまった時。最近だって、合宿で夏帆の怪談話を聞かされて泣いたばかりだ。でも、なんだかそれらとは違うような……。


 自分の中の感情の現れだろうか? だとすれば、これはきっと嬉し涙、ということなのかな? きっとそうだ。だって嬉し涙なんて、今まで流したことなんてなかったし。涙は意図して流せるものではないけれど、こんな風に気づかない内に流れるのは、きっとそういう涙なんだろう。


 嗣人が先程よりも優しい口調で「大丈夫?」と、もう一度聞いてきた。


 佳奈はそれに、ゆっくりとうなずいて答えた。「ハンカチ、洗って返しますね」と言うと、嗣人は「別にいいのに」と笑って答えた。それを聞いて佳奈も少しだけ笑う。


「名護先輩、よろしくお願いします」とペコリと頭を下げると、慌てて嗣人も「こちらこそ、よろしく」と言った。なんだか、ぎこちなくって、それがおかしい。佳奈はもう一度笑う。今度はクスクスと声を出して笑った。

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