第5話「ちょっと顔赤くなってない?」

 名護嗣人が、上坂夏帆と初めて出会ったのは、ふたりがまだ幼稚園にも通っていない時のことだったのだが、その辺りの記憶は曖昧で「いつの間にか、側にいた」と言うのがふたりの認識だった。


 名護家の近所に上坂家が家を建て、お互い子供が同い年だったことからまず両親が意気投合し、次第に互いの家を行き来するようになっていった。夏帆の性格は今とあまり変わらず明るく社交的であったが、嗣人は対象的に大人しく人見知りする子供だった。


 それでも毎週のように顔を合わせていたので、小学校に上がる頃にはふたりはすっかり仲良くなり、ほぼ毎日一緒に遊ぶようになっていた。


 小学校も半ばになると、嗣人はクラスメイトから夏帆と一緒にいることを茶化されるようになってきた。「おまえ、おんなの子とばっかあそんで、おんなの子になりたいのかよ」と言われて、幼心にショックを受けたこともあった。


 嗣人はそんな言葉に耐えきれなくなり、徐々に夏帆との距離をおこうとしていた。しかし、夏帆の方は一向に構わない様子で、学校が終わると「つぐとー! あそぼー!!」と勝手に嗣人の家に上がり込んで来ていた。


 始めはそんな夏帆の行動が嫌で嫌で仕方がなかった。しかし、状況が一変する出来事が起こる。ある日の下校中。クラスメイトに囲まれて、執拗に絡まれたことがあった。嗣人はしゃがみ込んで「はやくおわって」と願うことしかできなかった。そこへ駆け込んできたのが夏帆であった。


「ちょっと! あんたたちなにしてんのよ!」


 夏帆は嗣人を囲んでいた少年を2,3人引き剥がすと、嗣人を自分の背後にかくまった。「なんだよ。なつほはかんけーないだろ!」とひとりの少年が夏帆の肩を掴んだ瞬間、彼の頬に夏帆の鉄拳がめり込んだ。


 もみ合いになりかけた時、近所の大人が気づいて仲裁に入り、少年たちは恨み節を残して逃げていった。嗣人が仁王立ちしている夏帆を見上げると、夏帆は振り返って「だいじょうぶ?」とニコッと笑った。


 その夜、嗣人は母親に今日のことを伝えて、それを聞いた母親は慌てて夏帆の家へと向かった。嗣人の両親は平謝りしていたが、夏帆の母親は「いえいえ、うちの子が勝手にやったことですから」と苦笑いした。


 一緒について行っていた嗣人が、夏帆にお礼を言おうと彼女の部屋へと行った。ノックしてみたが返事はなかった。そっとドアを開けると、部屋は真っ暗で、ベッドサイドのスタンドライトの明かりの中に夏帆は膝を抱えて座っていた。


「なつほ……」嗣人が戸惑いながらも声をかけると、夏帆はビクッとしながらも顔を上げた。目が真っ赤に充血して、頬には涙の流れた跡がライトの明かりを反射してキラキラと光っていた。


「えへへ、ごめんごめん」と夏帆はシャツの袖でそれを拭って、嗣人を助けてくれた時と同じように笑った。嗣人は夏帆の隣に座ると「ぼくのほうこそ、ごめんね」と小さい消えるような声で言った。「わるいのはあいつらだし。つぐとはわるくない!」と夏帆は嗣人の頭を撫でた。


「でも……」夏帆の笑顔が微妙に変化した。「ちょっとだけ……こわかったかな」と膝の間に顔を埋めてしまった。嗣人はどうしていいのか分からず、しばらく固まっていた。いつも強気で強引で怖いもの知らずの夏帆の口から「こわい」という言葉が出てきたことにショックを受けていた。


 自分だけが怖いわけじゃなかったんだ、ということに気づいて少しホッとした部分と、夏帆をこんなに怖いめに合わせてしまったことへの後悔の念が入り混じっていた。嗣人は何かしゃべらなきゃと思った。しかし、言葉は出てこない。口をキュッと結ぶ。


 どうすれば……こういう時はどういう声を掛ければいいんだろう?


 無意識の内に、夏帆の頭にそっと手を当てていた。先程、夏帆が嗣人にしてくれたように、優しく夏帆の頭を撫でた。夏帆はゆっくりと顔を上げる。まだ少し潤んでいる瞳を、嗣人はじっと見つめた。少し恥ずかしかったが、吸い込まれるかのように動くことができなかった。


「ごめんね」と言おうとして止める。息を吸って「ありがとう」と言い直した。その言葉を聞いて、夏帆がニコっと笑った。気がついたら、嗣人も同じように笑っていた。



     * * *



「……あれ?」


 自分の部屋のベッドで嗣人は目を覚ました。枕元を探ってスマホを取り出すと、時間を確認した。時間はお昼少し前だった。


 起き上がりベッドに座る。机の上を見ると、ノートと参考書がそのまま置いてあった。徐々に記憶が戻ってきた。


 そうか、昨日は遅くまで勉強してたんだ。疲れたからちょっと横になって、そのまま寝ちゃったんだな。


「それにしても、変な夢見たなぁ」うーんと背伸びをして、首をグルグルと回した。頭に血が巡っていく感覚があり、段々と現実へと戻っていく。1階から玄関のドアが開く音が聞こえてきた。続けて「おっ邪魔しまーす!」という大きな声。


 そこで嗣人は「あっ!」と全てを思い出した。そうだ、今日、日曜日は夏帆がうちに来るって言ってたんだ。「宿題見せて」とか言ってたな。嗣人はベッドから飛び降りると、慌てて部屋の中央に置いてあるテーブルの上を片付ける。雑誌、漫画、小説などをガバッと掴むと、そのまま本棚の空いているスペースへねじ込んだ。


 「あら、いらっしゃい」という母親の声。夏帆がそれに答える声も聞こえた。続いてトントンと階段を上がってくる音が聞こえてきた。嗣人は部屋を見回した。もう何度もこの部屋を訪れている夏帆相手に、そこまで気を使う必要はないようにも思えたが、そうは言っても、嗣人も年頃の男の子だ。多少は気にはなる。


 ベッドの布団を直している時「おーい、来たよー」とドアがガシャリと開いた。「あ、あぁ、いらっしゃい」布団をポンポンと叩いて平らにする。夏帆は部屋に入ると、テーブルの脇に座り肩からかけていたトートバッグを床に下ろした。


 そしておもむろに「ふーん……」と意味ありげにつぶやくと「えいっ!」とベッドの下を覗き込む。「うわっ、何してるの?」と慌てる嗣人。「いやぁ、ベッドの辺りを触っているから、なにかいかがわしいものを隠しているのな、って」と夏帆は笑った。


「そんなの……ないよ」

「あれれ、ちょっと顔赤くなってない?」

「ないってば! ほら、勉強するんでしょ?」

「もー、来たばっかりだっていうのに、忙しないなぁ……。今日も暑いし、喉かわいたなー」

「はいはい、お茶でいい?」

「うん、ありがと」


 嗣人が部屋を出ようとし、ピタリと止まる。


「あんまり、あっちこっち探らないでよ」

「大丈夫だって」

「本当かなぁ」

「だって、私どこになにがあるか、知ってるもん」

「……」

「しょっちゅう来ているんだから、当たり前でしょ?」

「……お茶淹れてくるから……」

「あっ、甘いものも欲しいかなぁ。頭使いそうだし」


 嗣人がキッチンへと向かいお茶を用意している間、母親が茶菓子をいくつか用意してくれた。「母さん、適当でいいから早く早く」と急かす嗣人に、母親は首を傾げた。


 部屋に戻ってみると、意外にも夏帆は大人しく座っていた。気づかれないようにホッとする嗣人に「何にもしてないよ?」と意地悪そうに夏帆が言う。


「別に疑ってないし」

「あはは。信用してくれてありがと」

「それよりも宿題でしょ」お茶とお菓子の乗った盆をテーブルの脇に置く。

「うん。あっ、そうだ」と夏帆はバッグからノートパソコンを取り出した。

「昨日、佳奈ちゃんには見てもらったんだけど、小説の続き。嗣人、結局見てくれてないでしょ?」

「あぁ、うん」

「私が宿題済ませている間に、ちょっと見て欲しいなぁって」

「了解。いつものフォルダに入ってるの?」

「うん」


 夏帆は早速、ノートを広げてペンを走らせた。隣にはいつの間にか嗣人のノートが広げられている。


「あんまり、そのまんま写さないでよ。この前だってバレたんだから」

「分かってるって。今日はちゃんとアレンジ入れるから」

「夏帆。勉強はちゃんとやらないと駄目だよ」

「分かってるって! テスト前にはちゃんとやるし」


 嗣人は軽くため息をついたが、夏帆の言っていることは確かに間違っていなかったので「はいはい」と軽く答えるだけで、ノートパソコンへと目を落とした。ファイルをダブルクリックすると、エディタが立ち上がり小説が表示される。


 極力慎重に、文章を追っていく。夏帆がノートを写すカリカリという音が徐々に消えていった。前回、夏帆の小説を読んでから1週間以上。2万字近い文章は、段落もぎっちり詰まっていて、ノートパソコンの横書き表示では読みづらい。


 それでも、気がつくと嗣人はあっという間に読み終わっていた。立てた膝の上に置いていたノートパソコンをテーブルの上へと移す。トラックパッドで行頭へと戻しながら、嗣人は初めて夏帆の小説を読んだ時のことを思い出していた。

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