第11話「もう応援しない」
「ちょっと、お前。何冊持っていくつもりだよ」
そう咎められて、滝本柚葉は本棚を探っていた手を止めた。
「別にいいでしょ? 使ってないんだし」と振り返らず言うと、兄の遼太郎は「そんなことないぞ。ちゃんと今でも使っている」と反論した。それを聞いた柚葉は、持っていた本を遼太郎の前に掲げると、背表紙をつつーっと指で撫でた。遼太郎の目の前に突き出した指先には、うっすらと埃が付いていた。
「うっ……」それを見た遼太郎は、思わず言葉に詰まる。
「ちょっとは掃除もしないと。って言うか、いつから掃除してないのよ?」
「してるって……」再び抗議する遼太郎に、今度は別の本を手にとって、目の前で「ふぅー」と息を吐いた。埃がブワッと舞い上がり、遼太郎は思わず咳き込む。
「お前、そういうの止めろよな」
「はいはい。文句言う前に、ちょっとハタキとかないの?」
「そんなもの今時使っている家などないだろう」
「今は、使い捨ての静電気モップっていうのがあるの。知らないの?」
「……そう言えば、母さんが使ってたような……」
「じゃ、それ持ってきて」
ブツブツ言いながらも、部屋を出ていこうとする遼太郎に「ついでに、掃除機も持ってきて」と言うと、本棚から更に2冊本を引き出した。「まだ持っていく気かよ」と捨て台詞を吐いて、遼太郎が部屋を後にする。
「ま、とりあえずこんなもんかな?」
テーブルに積み上げられた10冊ほどの本を見て、柚葉は満足そうに言った。本の背表紙には「10日で書ける! 小説入門」とか「感動するストーリーの作り方30選」などと書かれている。
柚葉は、先日浩介から夢の話を聞いて以来、考えていたことがあった。
ふたりの結婚生活は、周囲の人間も首を捻るほど仲睦まじいものだった。と言うのも、新婚当初から「なんであの二人が結婚したんだろう?」というのが、ふたりの友人の共通した疑問だったからだ。
浩介は読書好きでどちらかと言えばインドア派。対して柚葉は家に篭っているよりは、外に出て遊びに行くほうが好きなアウトドア派だった。ふたりが交際している時から、バイト先では「いつ別れるか?」という話題が上っていたほどである。
しかし、そういう下馬評を裏切って、ふたりは付き合いだして数年で結婚し、そのまま5年ほど経った今でも、平穏に暮らしていた。柚葉の記憶には、ふたりが喧嘩したというものはなかった。ただそれは、ふたりが性格から趣味まで一致していたから、というわけではない。
柚葉自身のおおっぴらな性格もあって、それほど浩介を責めたりしたこともなかったし、多少言い争いになりそうな時には、浩介の方が素早く折れてくれたので、揉め事になることがなかったのである。
そういうわけで、基本的に柚葉は浩介に感謝していた。自分の結婚相手としては、これ以上ない最適な人だと思っていた。その愛する夫が「小説家になるのが夢だった」と告白した。浩介は「笑うなよ」と何度も念を押していたが、柚葉はそれを聞いて、むしろ感動した。
家族のために一生懸命になって働いてくれているのには感謝していたが、一方で浩介自身の生きがいというのはあるのだろうかという心配は常にあった。なかなか機会がなく、そういう話をしてこなかったのだが、ようやくそれが分かったわけで、柚葉としては笑うどころか、協力してあげたいという気持ちになっていた。
そうは言っても、何をどうしていいのかさっぱり分からない。柚葉自身も遼太郎の影響で、小学校の頃は比較的本を読む子供だったのだが、それも中学校に入る頃までのことだった。次第に他のものへ興味が移りゆく中で、本を読む習慣というのは柚葉の中からなくなっていっていた。
浩介の話を聞いた翌日、柚葉は兄に「小説を書くにはどうしたらいいの?」と尋ねた。遼太郎は「ついに妹が開眼したのか」と喜んだが、話を聞いていくうちに、それが妹自身のことではなく旦那のことだと知り、少しだけ肩を落とした。
しかし、多少は兄として妹の役に立ちたいという思いがあったからなのか、数日後には柚葉の家を訪れて、数冊の本を手渡した。柚葉は素直に礼を言ったが、しばらく本を眺めてから既に帰宅していた遼太郎に電話をかけた。
「ちょっと、今日持ってきてくれたのって、普通の小説じゃない」
「そうだよ? だって、小説の本が読みたいって言ってたじゃないか」
「違うって! 小説を書くための本! 小説じゃないの」
「書くための本?」
「あー、もういい。明日、そっちに行くから」
「ちょっと待て、一体どうい――」
そこで一方的に電話は切られ、柚葉は今、遼太郎の部屋に来ているわけだった。
「それにしても、なんでまた小説の書き方の本を?」遼太郎は静電気モップで本棚をはたきながら聞いた。柚葉は換気のために窓を開けていた。もう一本のモップを手に取り、遼太郎の隣でそれをパタパタとしながら、これまでの経緯を話した。遼太郎は黙って聞いていたが、話が一段落すると首を傾げた。
「でも、お前の旦那さん。もうとっくに小説書いているじゃないか」
* * *
「どういうこと?」
仕事から帰宅した浩介に柚葉は詰め寄った。リビングのテーブルの脇で、浩介はスーツのまま正座している。
「どういうことって言われても……」浩介は苦笑いしながら答えたが、真剣な柚葉の表情を見てうつむいて黙ってしまった。
「別にダメだって言ってるわけじゃないんだよ? なんで怒ってるのか分かってる?」そう言いながらも、柚葉は我ながら嫌な聞き方をしていると自覚した。しかし、訂正はしなかった。
「どうして言ってくれなかったの?」
「別に隠していたわけじゃ……」
「だったら、この前、夢の話をした時に言ってくれれば良かったじゃない」
「そりゃまぁ……そうなんだけど」
「どうして?」
「なんでかな……。恥ずかしかったから……かも」
「夫婦で恥ずかしいも何もないでしょうに!」
柚葉は、何故自分がこんなにも怒っているのか、ようやく理解しつつあった。遼太郎に「この前、お前の家を訪ねた時、浩介さんの書いた小説を読ませてもらったぞ」と聞かされた。一方、柚葉は「小説家になるのが夢だった」ことしか教えてもらってなかった。
なぜ義兄に言えて、妻に内緒にしていたのか? そこが柚葉にとって納得がいかないところだった。しかし、目の前で「悪かったよ」と言っている浩介を見て「しょうがないなぁ」とも思った。机の上に置いてあった本を手に取る。浩介がそれを見て「お前、それ……」と驚いていた。
「これね、今日兄貴のところから借りてきたの。私ね、浩介の話を聞いて、何か手助けができないかな? って思ってたんだ。でも、普段ほとんど小説読まないし、もちろん書いたこともないし。だから、ちょっと勉強しようかなって思って」
「柚葉……ごめんな。さっきも言ったけど、別に隠しているわけじゃなかったんだよ。でも、俺にとって小説を書くっていうのは、結構大切なことで、それを否定されたくなかったって言うか――」
「だから! 否定も拒否もしないってば! この前言ったでしょ? 素敵なことだって。凄いって。だから、私も応援したいんだって!」
「柚葉……」浩介は思わず涙ぐんだ。
高校の頃、一生懸命書いた小説を友人に見せたら、サラッと目を通した後で「お前、こんなの趣味なの?」と言われたことがあった。ネットで小説を投稿し始めてから、両親にそのことを言うと「そんな馬鹿馬鹿しいことなど止めて、勉強をしろ」と頭ごなしに怒られた。
それ以来、浩介にとって小説を書くということは、リアル世界では秘密にしておくべきこととなった。遼太郎にだけは素直に言えたのは、彼が「こちら側の人間」だと分かったからだった。
浩介たちの結婚式の時に、遼太郎は『旅立ちの日』という短編小説を持ち込んで、スピーチで延々とそれを読み始めた。遼太郎の両親は必死で止めさせようとしていたが、彼は構わずそれを最後まで読み上げた。その時、浩介だけは「すごい人だな」と感心していたのだった。
結婚後、あまり個人的な交流がなかったので、そういう話にならなかったのだが、先日の出来事でようやくそれが叶い、浩介は「リアルでの話し相手」を見つけられて喜んだ。ただ、柚葉は本を読んでいるところを見たことがなかったし、そういうのは好きじゃないんだろうと思っていた。
先日のことも、きっと「無理に話を合わせてくれているのだろう」程度に思っていた。
だから、柚葉がここまで考えてくれていたと知って、浩介は驚きつつも感謝した。悪いことをしたなと思い、柚葉の応援を素直に受け入れようと思っていた。しかし、柚葉の口から続いて出てきた言葉は、浩介の想像していたものとは違っていた。
「でも」と柚葉は続けた。
「もう応援はしない」
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