第10話「何やってるんだろう、私」

「あのっ……。名護先輩!」


 佳奈が嗣人をそう呼び止めたのは、部活を終えて廊下に出てきた時のことだった。佳奈が嗣人に小説を読んでもらってから数日が過ぎていた。「うん? なに?」と部室のドアを閉めながら聞く嗣人に、佳奈は少し戸惑いながらも「あの……週末って空いてますか?」とおずおずと尋ねた。


 嗣人は一瞬、不思議そうな顔をして、ドアノブに手をかけたまま止まってしまった。しかし、すぐに佳奈の言葉を理解したようで「あぁ、日曜日?」と聞き返した。


「はい、そうです。午前でも午後でも……丸1日でも良いんですけど……」

「あぁ……ごめん。この日曜日はちょっと用事があって……」


 ある程度断られることも想定していたが、実際に言われてみると、思っていた以上にショックなものだと佳奈は思った。しかし、それを表情に出すわけにもいかず、少しだけ苦笑いを浮かべると「あは。そうですよね。ごめんなさい」とペコリと頭を下げた。


 嗣人は「こちらこそ、ごめんね」と謝ったが、この件で嗣人が悪いことなどないと思った佳奈は、余計に恐縮する。「何かあったの? その次の日曜日なら大丈夫なんだけど」という嗣人に、慌てて頭の中のカレンダーをめくる。そして、その日は両親から「実家に行くから空けといて」と言われた日だったことを思い出す。


「ごめんなさい。その日は私が用事があって……」

「あぁ、なかなか上手くいかないものだね」


 そう言って笑う嗣人を見て、佳奈は全くその通りだと思った。廊下を歩きながら、小説の話をする。


「この前読んでもらった小説、少しだけ直してみたんですよ」

「へぇ、そうなんだ。特に直すところないと思ってたけど、どの辺り?」

「ええと、冒頭とラスト前のシーンですね」

「あぁ、佳奈ちゃんが気になるって言ってたとこ?」

「そうですそうです。特にラスト前のテンポが悪いなぁって。改めて読み返してみたら、気になったので」

「そっかぁ。じゃ、また今度見せてね」

「あ、はい。あ、でも、実は新しい小説をもう書いてまして」

「お、そうなの? 早いね」

「あはは。なんか最近、書きたい話が一杯あるんですよ」

「すごいなぁ」

「先輩は、最近どうなんですか?」

「どうって?」

「先輩の小説って、文芸部のパソコンに入っている分しか見たことないので……。先輩、書き上げてからじゃないと、パソコンに移さないじゃないですか」

「あー、夏帆なんかは、途中でもちょいちょい移してるしね」

「そうなんです。だから、先輩の小説の進み具合って、私全然知らないんですよ?」

「うーん、実は最近あまり書けてないんだよね。忙しくってさ」


 佳奈は、嗣人がそう言いながらも、先程から自分の方を見ていないことに気づいた。いや、実は少し前から気づいていたのだが、嗣人が何を見ているのか確認したくないと思っていた。しかし、見ないようにすればするほど、視線はそれを追ってしまう。


 視界の先に、夏帆が見えた。廊下の窓を開けサッシに肘をついて、外を眺めていた。校庭では陸上部が練習をしていて、時折スタートの合図の空砲の乾いた音が響いていた。夏帆の表情はいつもと違い、どこか冷めたようにも見える。そして、それを黙って見ている嗣人の顔は、少し困ったようなものになっていた。


 佳奈は夏帆に声をかけるべきなのか迷った。しかし、すぐに夏帆の方がふたりに気づき「おーい」と手を振った。表情は既にいつもの夏帆のものになっており「私も、やっと部長会議終わってさ。一緒に帰ろうよ」と言ってきた。


「昨日はバイト、今日は部長会議。なんかすっかり足が遠のいた感じがするよね」

「たった2日じゃないか」

「たった2日、されど2日なの」

「いっそ、1週間くらい休んじゃったらどうですか? 夏帆先輩」

「あ、いいかもね。たまにはゆっくりと」佳奈の冗談に夏帆も悪乗りする。

「どうせすぐに飽きて『やることないから、来ちゃった』とか言うに決まってる」と嗣人が冷めた口調で言うと「バレたか」と夏帆は小さく舌を出し、それを見た佳奈も笑った。


 正確には笑ったつもりだった。ただ、自信はなかった。ちゃんと自然に笑えていただろうか? ぎこちなくなかっただろうか? 特に夏帆には気づかれたくないと思った。そっと夏帆を見る。


 夏帆と嗣人は、そのまま冗談を飛ばし合っている。まるで漫才だな、と思って少し悲しくなった。どうしようもない気持ちになって、ふたりの半歩後ろを歩きながら自然とうつむいてしまう。


 階段に差し掛かったところで、佳奈は立ち止まった。ふたりが振り返る。「どうしたの?」と夏帆が首を傾げる。思わずギュッと口を結んだ。「ちょっと部室に忘れ物しちゃって」とっさに言ってしまう。


「んじゃ、待ってるから取っておいで」夏帆が予想通りのことを言う。

「いえ。ちょっと部のパソコンに小説のデータを入れっぱなしにしてきたので……。時間もかかりますから、先に帰ってて下さい」そう言って、今度は精一杯の笑顔をつくった。

「それなら、私たちも部室に一緒に行くよ」夏帆はそう言って食い下がり、嗣人は少し驚いた顔で佳奈を見ている。


 ふたりに見つめられて佳奈は焦った。「本当に大丈夫ですから。お疲れ様でした」と頭を下げると、踵を返す。小走りで廊下を走りながら、なんでこんな態度を取るんだろうと自分を責めた。部室のドアを開けて中に入る。少し躊躇したが、ノブ下に付いている回転式の鍵をガチャりと回した。


 部室の一番奥に置いてあるPCデスクに向かい、電源の切られている画面を見た。うっすらと自分の顔が映っている。これまでの人生で、何度も「佳奈ちゃんは可愛らしいね」と言われたことはあったが、それを素直に信じたことはなかった。佳奈は自分の容姿を好きになったことは一度もなかった。そう言ってくれるのは社交辞令だと思っている。


 そういうのを差し引いても、今の自分の顔は酷いものだと思った。電源ボタンを押すと、数秒で起動画面が表示され、画面から佳奈の顔は消えた。カバンからUSBメモリを取り出して、パソコンに差す。一応、夏帆と嗣人に言ったことは嘘ではなかった。


 部室に来た時、部のパソコンに移したデータを修正して、そのままにしていたのは確かだ。ただ、それがたった数文字のことであり、わざわざ移し替える必要があったのか、と言われれると微妙なだけだ。それでも、一応パソコンからデータをUSBメモリに移す。


「何やってるんだろう、私」


 USBメモリを抜いて、佳奈はため息をついた。今まで自分がこんな気持ちになったことはなかった。4月早々に文芸部に入部し、夏帆と嗣人と知り合って1ヶ月が経った頃、佳奈は初めてその感情に気づいた。


 それがどういう感情なのかは、すぐに気づいた。それ自体は小説で、ドラマで、映画で見たことはあったが、実際に体験するまでは「どうして、そんなことを思うのだろう?」と疑問に思っていた。しかし、今その立場になってみて、ようやく「そういうことか」と理解できるようになっていた。


 受け入れることに抵抗はなかったが、かと言って、このままでい良いとも思っていない。焦る必要はないのかもしれない。でも、いつまでもこんな思いでいるのも嫌だ。パソコンの画面から終了を選ぶ。メロディが流れるのを聞きながら、USBメモリをギュッと握りしめた。


「決着をつけよう」佳奈は決意した。


 画面が暗くなり、再び佳奈の顔が画面に映し出された。


「あれ?」佳奈はそれを見て、少し驚いた。気のせいかもしれないが、さっきよりは随分いい顔になっているような気がした。可愛らしい、というのではない。文字通りいい顔だと思った。


「よしっ!」


 勢いよく立ち上がってみた。慣れないことをしたせいか、反動で椅子が後ろへ倒れそうになって、慌てて背もたれを掴む。それを所定の場所へキチンと直して、もう一度「よし」

とつぶやく。


 いつもよりも少し大股で歩き、部室を出た。西日が直撃し、思わず目を細める。夏帆と嗣人が素直に帰ってくれていたことに感謝しつつ、カツカツと廊下を歩く。しばらくすると、いつもと違う歩き方をしたせいか、足が痛くなってきた。それでも構わないと、佳奈は思った。

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