第12話「私も書く!」
自分が言った言葉で、夫が落ち込んでいるのを見て、柚葉は自分が言葉足らずだったととにようやく気づいた。
「あぁ、ごめんごめん。そういう意味じゃなくって」
「……どういう意味だよ?」
「だから、応援だけをするのは止めたってこと」
「意味がわからないよ」
「だから! 私も書くってこと!」
「書く? 何を?」
「小説に決まってるでしょ」
柚葉がそう言うと、浩介は動かなくなってしまった。静まり返ったリビングに、柚葉がセットしたテレビのレコーダーが動き出した音だけがウィーンと響く。柚葉は、自分が言ったことが浩介にとって、どう思われるのかよく分かっていなかった。と言うか、正確には考えていなかった。
実際言ってみて初めて「これでよかったのかな?」と疑問が湧いてきた。先程からピクリとも動かなくなってしまった夫を見て、ますます不安になってくる。思わず「……浩介?」と声をかけた。
浩介は目をパチクリとさせ、まるでどこか違う世界に行っていたかのような表情を見せた。すぐにいつもの顔に戻ったが、それでも何も言おうとしなかった。柚葉は手に持っていた本を両手で抱えて、ギュッと抱きしめた。
要らないお節介だったろうか? 気に障ったのだろうか? 自分の夢を馬鹿にされたように思ってしまっただろうか? 本気だと信じてもらえなかっただろうか?
色々な思いが頭を駆け巡る。もちろん、浩介が嫌だと言うのならば、柚葉は無理に貫き通すつもりはなかった。ただ、もしかしたら初めて夫婦共通の趣味が持てるのかもしれないと、少し浮かれていたのは事実だった。できれば、そうしたいと思っていた。
浩介は何度か瞬きを繰り返した後、ゆっくりと立ち上がった。柚葉の方へと、一歩二歩と近づいてきた。柚葉は反射的に、思わず目をギュッとつむった。出会ってから今まで、浩介が声を上げて怒ったことはなかった。
でも、先日の浩介の様子を見る限り、夫にとってとても大切な部分へ踏み込んでいることだけは確かだ。行動に移す前によく考えればよかったかもしれない。柚葉の両肩に、浩介の手が置かれたのを感じた。そっと目を開けてみた。
目の前に、今にも泣きそうな浩介の顔があった。声を出さないように必死に耐えているようだった。「柚葉ぁ……」と鼻声で嗚咽を上げる。そしてそのまま「ありがとう……」と言いながら、柚葉をギュッと抱きしめた。
「ちょっと……どうしたの?」意味が分からず動転する柚葉。
「嬉しんだよ。こんなに嬉しいことってそうはないよ」
「何も泣かなくても」
「泣くさ……。だって柚葉がこんなに俺のことを考えてくれていたなんて」
「ってか、ちょっと鼻水が出てるじゃない!」
「もう」と文句を言いながら、ティッシュを数枚掴むと浩介の鼻に押し付けた。少し照れながら「ごめんごめん」と謝る浩介。
「でも、良かったよ。浩介、怒ってるかと思ったから」
「なんで、俺が怒るんだよ」
「だって……」
「それに、さっきまで怒ってたのは柚葉だったろ?」
「それは……浩介が私に内緒にしていることがあったからでしょ」
「悪かったよ。もうこういうことはしないから」
浩介の言葉に、柚葉は満面の笑みで答えた。
* * *
「それにしても暑いな」
浩介に「自分も小説を書く」と宣言してから、約1ヶ月後の日曜日。柚葉は駅前の広場に来ていた。丸型のベンチがいくつか置いてあり、中央には大きな樹木が植えられていた。その木陰に入って座っていると多少はマシだと思ったが、それでも暑いものは暑い。柚葉はハンカチを取り出して、額の汗をそっと拭った。
あの日の翌日から、柚葉は早速、遼太郎から奪ってきた本を読み始めた。「誰でも書ける! 小説執筆入門」や「たった10日間でみるみる上達する文章作成術」という本は「意味が分からない」と数ページで投げ出した。「マンガで理解する! 誰でもできる小説の書き方」という本は比較的読みやすく、一応最後まで目を通したが、結局何が言いたかったのか理解できなかった。
浩介に相談すると「そういう本もいいけど、一番は小説をたくさん読むことだよ」と言われた。浩介の書棚から何冊か本を抜き出して読んでみたが、どれも読んでいる途中で睡魔に負けて、5ページ読むと3ページ戻るというような展開になり、一向に進まなかった。
そこで遼太郎に電話をかけた。
「この前、もらった本なんだけど、全然分からない」
「分からないってお前……って言うか、やったわけじゃないぞ。貸しただけだぞ」
「もうちょっと分かりやすいのないの?」
「あれで分からないんなら、もうどうしようもないだろ。それと本はちゃんと返せよ」
「どうやったら小説を書けるようになるのよ!? 浩介に聞いても『小説を読むしかないんじゃないか』って言うだけだし」
「そりゃ浩介君の言うとおりだろ」
「もっと、こうズバッと簡単に書けるようになる方法はないの?」
「そんなのあったら、俺が聞きたいくらいだよ」
「兄ちゃん、教えてよ」
「俺は忙しいのだ。そんなことをしている暇などない」
「あ、そういうこと言うんだ。誰が部屋の掃除までしたげたのか覚えてる?」
「ぐっ……」
「たまには兄らしいこともした方がいいんじゃないかなぁ?」
「ぐぬぬ……。分かった、分かったからちょっと待て」
そう言うと遼太郎は電話を切った。数分後「次の日曜日。午後3時にここへ行け。代わりの者がいく」とメールが届いた。添付されたアドレスを開くと、柚葉の家の最寄り駅前が表示された。
ハンカチで顔をあおぎながら、念のためもう一度スマホを確認してみた。2時55分。そろそろかな。辺りをキョロキョロしてみた。日曜日ということもあって、周囲は人通りも多い。「誰が来るの?」と事前に聞いてみたが、遼太郎はそれ以降メールすら送って来ない。たくさんの人が歩いているのを見ながら「こっちが探している感じにしていれば、相手から気づいてくれるかな?」と淡い期待をした。
しかしよく見ると、同じように待ち人を探している人はあちらこちらにいた。これでは、お互い分からないじゃないか。柚葉は遼太郎に電話しようとした。その時、突然スマホの着信音が鳴って、思わず「うわわ」とスマホが手の中で踊る。なんとか落とすことだけは回避して、画面を見てみた。知らない番号が表示されていた。
「もしもし?」と電話に出てみた。
「あ、滝本柚葉さんですか? 遼太……ええっと、あれ? 上の名前なんだっけ? 遼太郎さん……の妹さんでしょうか?」
電話の相手が慌てている様子がおかしくて、思わず噴き出してしまいそうになる。それを必死で堪えて「はい、そうです。滝本柚葉です」となんとか答えた。
「あー、よかった。今、どこにいます?」
「駅前の広場のベンチに座ってます。ええと、駅を正面に見ると、一番右端の木のところですね」
「あっ! いた! オレンジのパーカーの方ですか!?」
柚葉が周囲を見回すと、少し向こうから手を振りながら走って来る女の子が見えた。ポニーテールにしている髪の毛が左右に揺れている。
「はじめまして。私、上坂夏帆って言います。遼太郎……さんに頼まれて」
夏帆がそう自己紹介するのを聞いて、柚葉は驚いた。
「はじめまして。私は滝本柚葉……って、それはさっき言いましたよね。その西浦遼太郎の妹です」
「あ、そうだ。西浦だった。最近、遼太郎、遼太郎って呼んでたから、ど忘れしちゃいました」
「あはは。あれ? っていうことは、あなたが……?」
「はい。遼太郎……さんから頼まれまして。『妹に小説の書き方を教えてやってくれ』って」
「ごめんなさいね。兄が変なこと頼んじゃって。でも、上坂さんって失礼だけど、高校生……くらい?」
「あ、はい。高2です」
「兄とは、どういう……もしかして……」
「えっ……いえいえ、いえいえいえっ! 違いますよ!? 遼太郎……さんとは、そういうのじゃなくって、ええっと……小説仲間? みたいな」
「あら。それなら、本当にごめんなさいね。それと私のことは柚葉って呼んでね。バカ兄貴は『さん』付けなんてしなくていいからね」
「あはは。じゃ、柚葉さん。私も夏帆って呼んでくださいね」
夏帆が言うには、先日いきなり遼太郎から電話があり「妹が小説を書きたがっている。お前が教えてやってくれ」と言っていたそうだった。一応「なんで私が?」と聞いたものの「女同士の方がいいだろう。それに、俺は色々忙しい」と言って電話を切ってしまったそうだ。
「私だって暇じゃないだってば」と怒っている夏帆に「本当にごめんね」と柚葉が謝る。
「いえいえ。まぁ、こういう体験っていうのも、なかなかないですし。私なんかでよければ、できる限りのことはしますから」
柚葉は申し訳ないな、と思って「授業料を払う」と提案したが、夏帆は「とんでもない」と断った。「それならせめて奢らせてね」とふたりは近くのファミリーレストランへ入った。
夏帆の教え方はとても分かりやすく、ノートに図を書いたりしてくれたおかげもあって、どの解説書よりも参考になった。3時間ほど話を聞いたり、質問したりしている内に、書き方の基礎の部分は理解できるようになってきていた。
「それにしても夏帆ちゃんは凄いよね。高校生で、こんなに凄い小説を書けるんだもん」
夏帆がノベステ大賞佳作を取った小説を読みながら、柚葉は心から感心した。夏帆は少し照れながら「でも、柚葉さんも、きっとすぐに書けるようになりますって」と笑った。
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