第24話「でも、ありがとう」
嗣人からのデートのお誘いに、佳奈は自分が思っている以上に舞い上がっていることに気づいたのは、前日の晩になってからだった。その日、佳奈は一日中、両親の仕事の手伝いに明け暮れて、どっぷり疲れ果てて家に帰って来たときには、既に夜になっていた。
ご飯を食べて、お風呂に入る。自分の部屋に行き、髪を乾かしながら「明日はどんな服を着ていこうかなぁ」などとぼんやり考えていたのだが、突然ドライヤーを机の上に放り投げると、慌ててクローゼットを開き「どうしよう……」と頭を抱えた。
後から考えると、そこまで気合を入れなくても良かったと気づいたのだが、そのときはすっかり舞い上がってしまい「この服は……ちょっと古いよね。こっちは……夏まっさかりじゃない! ええっと、でもこれは冬服だし……」と、ベッドの上に服の山を作る羽目になってしまった。
スタンドミラーの前で、次々と服を取っ替え引っ替えすること数十分。ようやく気持ちが落ち着いてきて「なにやってんのよ私……」と、ため息をつく。お気に入りの一着を「これでいいよね」とハンガーごと壁にかけた。
その後もできるだけ冷静に冷静に、落ち着こうとするが、波のように押し寄せてくる感情に、なんどもベッドの上をのたうち回りながら悶絶していた。
そんなわけなので、当日嗣人の口から発せられた言葉を聞いたときは、思わず耳を疑ってしまった。待ち合わせ場所に既に着ていた嗣人は、開口一番「ごめん」と謝ってきた。いったい何のこと? 佳奈が不思議そうな顔をしていると、嗣人は「デートの前に話があるんだ」と言った。
ふたりはそのまま歩いて、近くにあったファストフード店へと入っていった。日曜日ということもあって、店内はすでに賑わっている。注文を済ませ窓際の席に座ると、嗣人は「どうしても聞いて欲しいことがあるんだ」と口を開いた。
佳奈は「もしかして、いきなり別れ話では」とドキドキしていたが、嗣人の話はそれよりもずっと驚きに満ちたものだった。
嗣人は、まず昨日遼太郎に会ったことを話した。遼太郎との間に交わされた話を、できるだけ詳細に語った。その時点では佳奈は「どういう話なのだろう?」という疑問しか感じられなかった。嗣人が夏帆のことを気にかけていたことは、当然佳奈も気づいていた。だからこそ、勇気を振り絞って嗣人に告白したのである。
だから、嗣人が「遼太郎さんは夏帆を好きなんですか?」と聞いたという話を聞いたときは、少しだけドキッとした。夏合宿を通じて、確かに夏帆と遼太郎の仲の良さは感じていた。ただ、それが恋愛感情なのか、仲間としての仲の良さなのかは分からなかった。
と、言うことは……。佳奈は頭の中を整理してみた。嗣人は夏帆に対して、なんらかの好意の感情を持っており、それは遼太郎も同様であるということ。夏帆の気持ちがどうなのかは分からないが、図式的にはふたりの男がひとりの女の子を奪っているということになる。
自分のことで精一杯だった佳奈には、他人のことまで気が回っていなかったので、改めてそう考えると「凄いことになっていたんだな」という感想になる。でも、気になることはただひとつだった。
「嗣人が夏帆のことを、本当はどう思っているのか?」
それを聞きたいと思っていた。それを察したのか、嗣人は少しだけ困った顔をすると「これを聞くと、もしかしたら僕のことを軽蔑するかもしれないけど」と自信のなさそうな声で言った。それを聞いて佳奈は少しだけ怖くなったが、自分が好きになった人のことは、なんでも知りたいという気持ちもあり、今回はそれが勝った。
「そんなことないです!」佳奈は力強くそう言い切った。それを聞いた嗣人は小さくうなずいてから、落ち着いた口調で話し始めた。
「僕が夏帆に対する感情っていうのは、ずっと恋愛感情なのかな、って思っていたんだ。初めてそれに気がついたのは、多分小学校の高学年のとき。中学校に上がっても、ずっとそうだと思っていたし、きっとその時はそうだったんだ」
話を聞きながら少しだけショックを受けつつも、佳奈は部室でのやり取りを思い出していた。そう言えば、中学生のときに、初めて夏帆先輩が小説を書いたって言ってたっけ?
「でも、中学生のころ、夏帆の書いた小説を初めて読んだときに、その感情が違うものへと変わっていっていたんだ」
「……違うもの……?」
「始めは純粋に『凄いな』という思いだけだった。でも、考えてみると初めて書いた小説で、もう何年も書いている僕よりも面白い小説を書いてしまう夏帆に……」
そこで嗣人は言葉を切った。佳奈はなんとなく、嗣人が言おうとしていることが分かるような気がした。それは佳奈も、夏帆の小説を初めて読んだときに感じたことだったからだ。ただ、佳奈と嗣人の立場は違うものだし、自分の好きな人がそんなことを感じているというのを信じたくはなかった。でも――。
「僕は夏帆に嫉妬していたんだ」
嗣人はうつむき、絞り出すようにそう言うと黙り込んでしまった。
やっぱりそうなんだ。佳奈は心が暗くなっていくのを感じた。佳奈も夏帆の小説を読んだとき「凄い」という思いの裏に同じような感情を持った覚えがある。ただ、それは「先輩」というフレーズによって、覆い隠されていた。
自分よりも早くからやっているからしょうがない。自分よりも年上なんだからしょうがない。そう思って処理してきた。しかし、嗣人の場合は違う。嗣人の方が何年も前から小説を書き始めていて、夏帆に小説の書き方を教えたこともあったと言っていた。そのとき感じたショックは察するしかないけれど、相当大きかったのだろうと佳奈は思った。
ただ佳奈は、そういうことを素直に言える嗣人の性格を尊敬できるとも思った。自分でちゃんと自分のことを理解して、それを人に伝えられるというのは凄いことだとも思った。さっき、嗣人は「軽蔑するかもしれないけど」と言っていた。きっとその答えを待っているのであろう嗣人は、黙ったままうつむいている。伝えなければ……。
「嗣人先輩は……凄いです」思わず両手をぎゅーっと握りしめる。それを聞いた嗣人は、ハッと顔を上げて「……凄い?」と聞き返してきた。
「はいっ! だって、自分のことをそうやってちゃんと見ることできて、そういうことを人に言えるっていうのは、凄いと思います!」自分が思っている以上に力説していることに気づきながらも、佳奈は続けた。
「私も……私も一緒なんです。部室で夏帆先輩に『どうしたらそんなに面白い小説が書けるんですか?』って聞いたときに『あんまり考えたことがない』って言われて、私も本当は悔しかったんです」
佳奈はそこで言葉を切った。プラスチックのカップを手に取りアイスティを一口ふくむ。夏の前、部室での会話が、頭の中で再生されていた。自分は中学の頃から、もう10作近くも書いているのに、夏帆は初めて完成させた小説で、あっさり賞を獲ってしまった。
もちろん、夏帆も努力をしていたことは聞いていたし、才能だけでないことも分かっている。それでも、あのとき感じた感情は、嗣人が言っていたのと同じ「嫉妬」であったことには間違いない。
部の空気を悪くしたくない、という思いから、なんとかそれを押し留め「1年先輩だし」という言い訳で蓋をしてしまった。そして、もうそのことは考えないようにしようと思っていた。嫉妬したところで、自分の小説が面白くなるわけでも、賞を穫れるわけでもない。自分は自分にできることをするしかないんだ、そう言い聞かせた。
まさか嗣人が同じ思いを抱いていたことは知らなかったが、言いたいことはすぐに理解することができた。それに気づいたとき、心が暗くなっていく気がしたが、自分が好きになった人が、そんなことで悩んでいて欲しくないという思いもあった。
だから、そのことを必至で訴えた。
嗣人がそう思うのは良くないことかもしれないけれど、仕方のないことでもあるはずです。大切なのは、そういう感情をしっかりと自分で分かっていて、それを認められる度量じゃないですか? 私は見て見ぬ振りをしてましたけど、ちゃんと分かってて、それを他人に言えることは凄いことですよ。
途中で自分が何を言っているのか分からなくなったりもしたが、それでも佳奈は一生懸命に伝えた。嗣人が自分の思いを話してくれたことに、きちんと答えないと、と思っていた。
ただ、あまりにも必至になっていたので、思わず「だから、そんな嗣人先輩のことがやっぱり大好きですっ!」と口走ってしまい、そこで固まってしまった。ゆっくりと周りを見回すと、固まっているのは佳奈だけではなく、周囲にいた客も佳奈たちの方に顔を向けたまま止まっていた。
気まずさから軽い愛想笑いをしつつ、正面を向くと嗣人もポカーンとした顔で固まっている。ようやく自分の言ったことが理解できるようになり、佳奈は顔を真赤にしてうつむいてしまった。「あの……私」と、何か言い訳をしようと試みるが、それに続く言葉が見つからない。
スカートの上でギュッと握りしめている両手を見ながら、佳奈は困り果てていた。こんな公衆の面前で、こんな大胆な発言を自分がするとは。驚きつつも、興味本位で佳奈たちを見ていた他の客も、ようやく元通りに戻った辺りで「プッ」と吹き出す声が聞こえた。
顔を上げてみると、テーブルを挟んで座っている嗣人が、口元に手を当てて声を殺すように笑っていた。一瞬「何も笑わないでも」と抗議しようと思ったが、笑いながらも頬を伝っている涙に気づいて、佳奈も何かが吹っ切れた感じがした。
「ちょっと……嗣人先輩、笑いすぎ」
「ごめんごめん。だって、佳奈ちゃんが、こんなところでそんなことを力説するなんて、想像もできなかったから」
「もぉ」少し頬を膨らませながら、わざとふてくされたような表情になる佳奈。
「でも、ありがとう」
ポーチからハンカチを取り出して手渡した佳奈に、嗣人はそう言った。その表情は、佳奈と同じく、何か吹っ切れたような清々しいものになっていた。
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