第7話「夢じゃ食べていけないよ」
「ねー、浩介。妹さんの就職祝い、どうするの?」
滝本浩介は、キッチンで夕食の後片付けをしているときに、妻の柚葉からそう尋ねられた。軽く洗った皿を食洗機に並べながら、浩介は「もう5月だし、今更いいんじゃないか?」と何の気なしに答えた。
「そういうわけにもいかないでしょ? 本当だったら、就職前に渡しておくべきなのに」
「まぁ、色々忙しかったしな。しょうがないよ」
浩介の言葉に、テレビを見ていた柚葉は思わず自分のお腹に手を当てた。
「それは……そうだけど。こういうのはちゃんとしないと」
「まぁ、一応電話で『おめでとう』とだけは言っておいたし、今度帰省する時にでも、渡せばいいさ」
柚葉は「そうかなぁ、早い方がいいと思うんだけどなぁ」と言いながらお茶を一口飲む。浩介は食洗機の蓋を閉めながら「大丈夫だって」と答えた。
柚葉との出会いは浩介が大学生の頃。同じアルバイト先にいた3歳年下の柚葉に一目惚れした浩介は、何度かデートに誘ったあと、人生で初めての告白をした。意外なことに柚葉はあっさりOKしてくれた。
後にそのことを柚葉に尋ねると「私も付き合ったことなかったから。まずは付き合ってみないと、分からないでしょ?」と言い、それを聞いた浩介は「早く告白してよかった」と心から思った。
浩介の就職と同時に、ふたりは結婚式をあげた。これもある日「ねぇ、私たちってこのまま結婚するのかな?」という柚葉の問いかけに、浩介が「うん」と答えたからだった。「じゃ、早くしよう」と言い出す柚葉に、反対することもできず、また反対する意思もなく、ふたりは早々に式をあげた。
ほどなくして柚葉の妊娠が分かり、浩介は「こんなに幸せなことが連続して起こってもいいのだろうか」と心配になるほど喜んだ。とは言え、入社間もない浩介の収入だけでは心もとなく、柚葉もギリギリまで仕事に明け暮れた。
しかし、妊娠中期に職場で倒れ、病院に担ぎ込まれるということがあってからは、浩介は柚葉に家にいるように頼み込んだ。柚葉の両親も「その方がいい」と説得してくれ、浩介は会社に申請し副業を行うことにした。
副業と言っても、特に手に職があるわけでもなく、結局は学生時代のバイト先にお願いして復帰することになった。会社が副業に寛容だったのは、浩介にとっても柚葉にとっても幸いだったが、浩介自身の疲労は溜まっていく一方だった。
見るにみかねた柚葉が「実家から仕送りしてもらうから」と提案したが、浩介は「いや、それは駄目だ」と珍しく反対した。そこは男としてのプライドが許さなかった。
無事に第一子が生まれ、しばらくすると柚葉も仕事に出られるようになって、浩介の副業はそこで終わった。しばらく平穏な日常が過ぎていた。娘はすくすくと育っていき、浩介にとっては、それが唯一と言っていい程の生きがいとなっていた。
それから約5年後。ようやく生活も安定してきていたが、娘の志穂も小学生になった。「もうひとり子供が欲しいね」という話も、柚葉との会話の中に出てくるようになった。再びアルバイトをするかな、と思っていたが、柚葉は「もうあんな無理はしないで」と言っていた。
そうは言っても、二人目の子供が生まれて、柚葉が再び職場に復帰できる可能性は確実ではないし、柚葉自身もどちらかと言うと子育てに専念したいと言っている。それならばやはり自分がなんとかしないといけない、と浩介は思っていた。
後片付けを終えて、リビングへと戻る。柚葉が「ご苦労様」と言って「ん」と置いてあったせんべいを手渡してきた。さっきご飯を食べたばかりなんだけどな、と思いながらもそれを受け取る。テレビでは、お笑い芸人がドッキリに引っかかって粉まみれになっていた。
「それにしても、同じ兄妹でも恵ちゃんは立派だよね」柚葉はテレビを眺めながら、つまらなそうな表情で言った。恵は浩介の妹の名だ。
「うちの兄貴なんて、いまだにフリーターとかしてブラブラしているし」
「あれ? 柚葉のお兄さんって就職するって言ってなかったっけ?」
「全然。あれ適当に言ってるだけだから。この前会った時も『俺は夢を追ってるんだ』とかエラソーな口調で言ってたし」
「まぁ、いいじゃないか。夢も大切だよ」
「夢じゃ食べていけないよ」
「それはそうだけど、俺は憧れるけどな」
「ふーん……ねぇ、浩介の夢ってなんだったの?」
「それは……柚葉と一緒になること……とか」
自分で言って、流石に恥ずかしくなる。せんべいを口に放り込み、ボリボリと噛み誤魔化そうとするが、柚葉はジーっと浩介の顔を黙って見ている。
「分かったよ。ええと、小学生の頃はプロ野球選手で、高校生の時は確か弁護士だったかな」
「全然一貫性がないじゃない」
「まぁ夢ってそんなもんだろ」
「ねぇ、中学生のが抜けてるんだけど?」
ギクッと浩介の表情が変わる。
「ええっと……なんだったっけなぁ……」
「……」
「う……分かった分かった。笑うなよ? 絶対笑うなよ!?」
「なにそれ、前フリ? 笑えってこと?」
「違う! 本当に笑わないでくれって言ってるんだって」
「はいはい、笑わない笑わない」
「……本当に?」
「本当だって。『滝本柚葉は、滝本浩介の夢を絶対に笑わないことを、ここに誓います!』はい、これでいい?」
柚葉の多少台詞掛かった口調に、不信感を強めた浩介だったが、一方で柚葉が言い出したら聞かない性格なのも分かっていた。テレビでは別の芸人が「押すなよ」と連呼している。それを見て、若干未来を予測できたような気がしたが、かと言って止めるという選択肢はない。お茶をずずっとすすった。
「……家」
「え? 何?」
「…説家」
「ちょっとテレビの音で聞こえないってば。もっとはっきり、大きな声で!」
「小説家!」
柚葉は目を見開いて、手に持っていたせんべいを口元に当てたまま止まっている。浩介は恥ずかしくなり、うつ向いてしまった。笑われるのか、と覚悟を決めた。テレビから「押すなって言っただろう」と怒っている芸人の声と、笑い声が聞こえてきた。プロ野球選手も弁護士も笑われてもいい……。でも、この夢だけは笑われなくない。
しかし、柚葉の反応は浩介の思っていたのは違っていた。
「凄いじゃない! 小説家、いいよね! 浩介、小説読むの好きだし、ぴったりなんじゃないの?」柚葉はせんべいを突き出しながら、そう言う。
「まぁ小説は確かに好きだけどな……。今はしがないサラリーマンだよ」浩介がそう言うと、柚葉は少し不満そうな顔をした。
さっきまで「夢じゃ食べていけない」とか言ってたのは誰だよ、と浩介は思いながらも、少しだけ嬉しかった。顔がニヤケそうになっているのをなんとか堪えて「もう夢の話はおしまい。さっ、お風呂行って行って」と柚葉に言う。
「えー、つまんないよ。もっと聞きたいなー」
「また、今度な」
「はぁい」
柚葉は残りのせんべいを口の中に放り込むと、しぶしぶといった感じで立ち上がる。2,3歩歩いて振り返って「一緒に入る?」とおどけた口調で言った。
「うちの風呂狭いんだから、無理だってば」
「えー。なんか今日の浩介、ノリが悪いなぁ」
「いつも言ってることじゃないか」
「もっとお金持ちになって、自分たちの家を建てる時は、お風呂だけはおっきなのにしようね」
そう言って笑うと、柚葉は廊下へと出て行った。脱衣所のドアが閉まる音を聞いて、浩介はテーブルの上に置いてあったタブレットを手に取った。起動させ、アプリのボタンをタップする。そこには「Novel Station」という文字が書かれていた。
アプリを起動すると、トップページにデカデカと「ノベステ大賞開催決定」のバナーが載っていた。タップすると、概要の書かれたページが表示される。「懐かしいな」と思わずひとりでつぶやいた。
浩介の言う「懐かしい」はノベステのことではなかった。当時、ノベステができるずっと前。浩介が中学生だった頃、ノベステのような投稿サイトはなかった。しかし、インターネット上に小説を公開することはできたので、浩介たちは無料のブログなどを通じて自分の小説を発表し、お互いに交流を深めたりしていた。それは高校時代も続いたのだが、大学に入るころになると学校にアルバイトに忙しくなり、何より柚葉と付き合いだしてからは活動自体を行うことはなかった。
そんな浩介がノベステの存在を知ったのは、約5年ほど前のことだった。
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