第30話「私ね」

 静かな室内にキーボードを叩くカタカタという音だけが鳴り響く。


 机に向かって一心不乱に小説を書いている背中を見ながら、夏帆は(やっぱり、来るの早すぎたかな)と思った。「私も手伝うから!」と言ったものの、そもそも小説が書けてない状態では、何もすることがない。


 部屋の中央に置かれたテーブルに自分のノートパソコンを置いて、所在なさげに画面を見つめていた。ひとつのフォルダが開かれていて、そこには数え切れないほどのテキストファイルが表示されていた。夏合宿のときにもらった、今までに遼太郎が作ったプロットの数々。


 それにしても、と夏帆は思う。あのときも驚いたが、改めて見るとすごい数だ。一体、いくつあるんだろう? フォルダウィンドウの下を見ると「84項目」という数字が見える。これがファイルの数なのかな? 多分そうだろう。


 やることもないので、適当に開いてみる。たくさんあるだけあって、似たようなプロットもいくつかあったが、多くは全く別のストーリーで構成されている。テキストファイルには番号が振ってあり、恐らく数字の若い方が始めのころに作ったものだろう。


 初期のころのものは、以前夏帆も指摘したように、かなり古臭い。純文学、と言えば聞こえは良いが、どこかで見たようなストーリーになっていたりして、はっきり言って面白いとは思えなかった。


 しかし、新しいプロットは、それなりに面白くなってきている。秋本圭に譲ったものや、それ以降に作ったプロットは、ファンタジーやSFの要素が入っており、ストーリー構成もかなり複雑になっていて、これを見るだけでも「読んでみたい」と思えてくる。


 その中から、いくつか遼太郎が候補をあげ、夏帆が「これが良い!」と言ったもの。それを遼太郎が、今小説に書いている。序盤は、最近の定番とも言える「異世界転生」ものだが、中盤から終盤にかけて全てがひっくり返される展開は、プロットを見ただけも面白そうに思えるものだった。


 膨大なプロットの山を上下にスクロールさせながら、夏帆は半年前のことを思い出していた。ノベステ授賞式で遼太郎に「俺の小説の方が面白い!」と言われたこと。その後、遼太郎の作品を見て「全然大したことないじゃない」と思ったこと。普段、遼太郎はあまり口にしないが、頑張っていることには違いないんだな、と思う。


 もちろん夏帆にしても、嗣人、佳奈、柚葉、浩介だって頑張っている。でも、軸足はどこか別のところに置いて、安全圏を確保しながらの「頑張っている」というような気がしてきた。遼太郎のように、全身丸ごと突っ込んでの「頑張っている」とは少し違うのかもしれない。


 でも、そんなことは誰にでもできることではない。というより、夏帆はそれはしてはいけないことだと思っていた。人生全てを、成功するかどうかも分からないことに捧げることが、果たして良いことなのだろうか? 人に自慢できることなのだろうか? 後悔はしないだろうか?


 普通の人は、きっとそんなに割り切ることなどできないだろう。当然、夏帆にもできない。だけど、それは人それぞれの生き方の問題なのだろう。遼太郎の方が優れているとか、夏帆の方が正しいという話ではない。接し方の問題なんだ。


 以前、遼太郎は「夢は簡単に諦めるものじゃない」と言っていた。夢への接し方。遼太郎のように全てをそれに捧げる生き方もあるし、柚葉や浩介のように生活を営みながら、追っていくやり方だってあるのだろう。


 B・Bで”筆丸先生”と交わした約束。「将来、絶対小説家になろう」。


 ”筆丸先生”が遼太郎だったら、夏帆はずっと彼に励まされてきたことになる。でも、だったら、どうしてそれを言ってくれないのだろう? 会ったときは気づかなかったかもしれないけど、夏帆がB・Bのことを遼太郎に言ったとき、なんで「それは俺だ」って言ってくれなかったのか?


 「あなたが言ってくれるまで、私は待つ」という選択肢は夏帆にはなかった。このままモヤモヤした状態でいるのは耐えられない。


「遼太郎、ちょっと良い?」気がつくと、そう言っていた。


「なんだ? 1話ならもうちょっとで完成するぞ」

「そんなのどうでも良いのよ」

「そんなのって、お前なぁ……」

「あぁ、ごめんごめん。そういう意味じゃなくって」

「むぅ……。まぁ良い。で、なんだ?」


 座っている椅子ごと遼太郎がクルリと振り返る。改まってしまうと、言葉が出てこなくなった。前のように、顔が熱くなっているのが分かる。駄目だ、考えちゃ駄目。


「”筆丸先生”って遼太郎でしょ?」


 その言葉に遼太郎がビクッと椅子の上で小さく飛び上がる。それでもう答えたようなものだ、と夏帆は思ったが、我慢して答えを待った。しかし遼太郎は、黙ったまま何も言おうとしない。もう一度、同じ質問を繰り返す。それでも遼太郎はうつ向いて口を開かない。


「何で黙ってるのよ?」若干ムッとしながら夏帆が問い詰めると、遼太郎は決まりの悪そうな顔をしながらも、ようやく「知らん」と短く答えた。


「知らないわけないでしょ。B・Bのこと知ってたし」

「それは……当時は、小説のネット投稿サイトと言えばB・Bだったから」

「さっき、お母様にも聞いたんだけど、遼太郎も当時小説を投稿していたんでしょ?」

「くっ……。我が母ながら、口の軽い……」

「どうなの!?」

「それは……別のサイトだ」

「嘘」

「嘘……じゃ……。いや、覚えてない」

「さっきパソコン見たし。”筆丸先生”のアカウント残ってたし」


 再び沈黙が訪れた。勝手に人のパソコンを見たことを告げて、夏帆も気まずくなって何も言えなくなる。遼太郎はしばらくポカーンとしていたが、やがて状況を理解したような表情で「さっきの……。見たってそっちかよ……」とため息をついた。


 夏帆は少しおかしくなり「自爆したのはそっちでしょ」と笑った。遼太郎も顔を手で覆いながら「確かに」と素直に認め、ククッと笑い始めた。お互い、何がおかしいのか分からないけど、釣られるようになり、次第に声を上げて笑いだした。


 数分ほどして、ようやくそれが収まると「ちょっと、涙出てきた」と夏帆がティッシュを取り出して目尻を拭った。遼太郎は、はぁっと息を吐きながら「久々にバカバカしかった」と言う。


 少し息を整えて、夏帆は崩していた足を正座に戻し、遼太郎の方へ向き直った。まだ顔に笑顔は残っていたが、どこか真剣な表情でもあるように見えた。なんとなく、遼太郎も椅子の上で姿勢を正した。


「私ね。遼太郎のことが好き」


 夏帆の言葉に、まるで違う言語を聞いてるかのような表情になる遼太郎。口を少し開きかけるが、すぐに戻す。それを何度か繰り返した後「夏帆、お前『遼太郎の小説が好き』の間違いだろ?」と、やや芝居がかった口調で言い返した。


「いや、遼太郎の小説は、そんなに好きじゃないから」

「ちょっ……。お前な。これから一生懸命書こうって頑張ってる人に、そういうこと言うか?」

「だって、本当のことだし。私の小説の方が面白いし」

「ぐぅぅ……。それ、俺に対するあてつけか?」

「あー、そう言えば、どこかの誰かさんが、ノベステの授賞式で私にそんなことを言ってたような?」

「終わったことをいつまでもグチグチと……。あれは――」

「もう一度言うね。私遼太郎のことが好き」


 いつの間にか体温が下がっていた。告白しているというのに変だな。夏帆はそんなことを考えられる自分が、どういうわけか冷静になっていることに気づいた。そして、どうしてそんなに冷静になれているのか考えると、すぐに理由が分かった。


 何か答えが欲しいとき。今回のように、誰かに告白したとき。小説のコンテストの発表を見るとき。そんなときは夏帆でもドキドキする。答えを知るまで、それがどっちなのかやきもきするのは当然だろう。


 だが、今の夏帆は答えが要らないと思っていた。夏帆が遼太郎に「好き」と言うのか言わないのか、そういうことに心がギュッとしていて、答え自体はそれほど大切じゃない。いや、そうじゃない。


 答えはもう知っている。


 だから、遼太郎の困っている顔を見て「はいっ! この話は一旦おしまい!」と言った。


「返事はコンテストが終わってからで良いから」

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