(三)

 埃を含んだ風が吹く。その風は、思わず鼻を覆いたくなる程の異臭が混ざる。それは今や、この国のどこにでも当たり前の様に漂う、――死の臭いだった。

 かしいだ木製の扉がギイ、ギィ、と耳障りな音を立てる。その扉というのも、腐食が進んで殆ど意味を為してはいない。半壊した家屋には米をかしぐ煙も絶えて久しい。

 くすんだ白い布が、風に幾重にも棚引く。啾啾しゅうしゅうと響くのは、亡き人を悼む生者の哭声なきごえか。或いは己が身に降る非業に喘ぐ亡者のそれか。村はずれに簡単に土を盛っただけの墳墓はかの群は今や、村の人々の居住の空間にまで及ぼうか。

 弊衣ぼろを纏う人々はただ、その前に力なく伏しては嗚咽おえつし、九天そらを仰いで哀号なげいては、惨たる世を呪詛した。或いは、すでに、その力もなくしてただ座り込み、息をしているのかどうかすら定かでない者も少なくはない。

 それが、今の珱国えいこくの姿だった。

 皇の支配の及ばぬ飄州では、ここまでの惨状にはまだなってはいない。が、内政の混乱を見て取って、周辺の島々を根城にする海寇かいぞくが頻りに侵略を行い、辺境に位置する明州めいしゅう沈州しんしゅうなどは、侵略を受ける恐怖におののいていた。海境を守るはずの軍も、物資が思うように届かず、時には賊と化して人々を脅し、田畑を荒らし、更なる混乱を引き起こして人心は乱れに乱れた。

 そんな中にあって、州で独立して皇と対抗する飄州は、人々にとって、夢のような場所でもあった。苛政に堪えかねた人々は、時に家を捨て、田畑をて、飄州にはしった。飄州でも彼らを受け入れ、保護した。が、働き手を失い、税収が減っては困る朝廷側では、飄州への出入りを厳しく禁じ、発見した場合には重い刑に処した。無論、飄州の者が州外に立ち入った場合もである。が、飄州の外が地獄だと知りながら、敢えて州外に出ようとする者などいない。

 虚ろな表情のまま座り込む人々の横を通り過ぎる芝蘭や冷伯もまた、本来なら飄州から他州への出入りはできない筈だった。

 飄家では「朱帛しゅはく」と呼ばれる隠密組織をようしている。国中の地形や無数に存在する抜け道の類は彼らの掌中しょうちゅうにある。故に簒奪直後、脩軌の差し向けた軍を、地の利を活かし、尽く打ち負かすことができたのだ。五年前を最後に、脩軌も仕掛けてはこない。

 冷伯は苦い顔で口を開く。


「――昨日、官軍がここを通ったらしいな」

「ああ、それで」


 言葉は最後まで出なかった。荒れた町並みには略奪のあとが残酷なまでに残る。

動いている者の中に、娘や若者の姿はない。老人ばかりだ。路傍に転がる無数の死体には虫がたかり、腐臭が漂い始めているものもある。おそらく、官軍の暴掠ぼうりゃく以前からのものもあるのだろう。尊厳もなく、無残な姿をいたずらにさらし、埋葬されることもなく、或いは百草にしたがい、或いは妖魔や獣の餌食となり、朽ちていく。

 眉を顰めた芝蘭は、ぐっと手綱を握る手をさらにきつく握りしめて、唇を震わせる。


「強奪に人殺しに人攫い……どっちが賊なんだか」

「それを甘んじて受けてる方も受けてる方だがな」

「冷伯。だれもがお前のように強いわけではないだろう」

「分かっちゃ居るがな。だからと、十年以上続く奴隷扱いにも黙って随うなんぞ御免だね。ならば、抵抗して死んだ方がまし」

「死んだらそれっきりだろう。お前はもう少し、命を大事にすべきだと思うがな」

「そっくりそのまま返しておくぞ。お前こそ、こうと決めたら周りも顧みずに走り出す暴走皇子だろうが」

「俺は慎重派だぞ。お前よりは」

「どの口が言う」


 冷伯が間髪入れず返した時、二人の目の前に人が飛び出してきた。慌てて馬を止めるが、危うく踏みつけるところである。

 厚い外套の頭巾を目深に被り、悲鳴を上げてうずくまったのは、恐らく声や体格からして若い女人と察せられた。


「大丈夫ですか?」


 小さく悪態をついた冷伯に構わず、芝蘭は馬から下り、身を低くして尋ねた。


「危ないじゃな――」


 女人は芝蘭を見上げると、苛立ったような口調で言いかけて、言葉を止める。が、すぐに慌てた様に立ち上がる。


「ああもう、――来ないで、って言ってるのに」

「いたぞ!!」 


 わらわらと姿を現したのは、手に手に武器を携えた男達だった。芝蘭は警戒しながら立ち上がる。上背のある芝蘭が立ち上がると、警戒した男達は一気に殺気だった。


「我々と来ていただきましょうか」

「嫌だ、と何度も言ってるでしょう!? ――本当に、主も主なら、従者も、揃いも揃って、野蛮な方々ね」


噛みつかんばかりの勢いで女人は返す。


「我らを野蛮とされるならば、仰せの通り、――力尽くでもお連れしろ」

「無礼者!! 離しなさい!!」


 女人の腕を掴んだ男を、芝蘭が蹴りでした。


「女性相手に、無理強いは感心しない」

「この、人間風情が……!! ――やれっ」


 一人が命ずると、男達は一気に芝蘭に飛びかかる。男達と芝蘭の間に入り、いくつもの刀剣を受け止める。


「――言ってる傍からまた暴走しやがって!! 莫迦芝蘭!! なぁにが慎重派だ!!」

「ははは、お前が居るから大丈夫だと思って」

「当たり、前だっ!!」


 言って冷伯は剣を払う。何人もがその威力に抗えず、子供のように投げ飛ばされた。

 自分に怒りながら剣を振るう冷伯を笑いながら、芝蘭も亦、己の刀を抜いた。反対の方向から男達の仲間とおぼしき者達が迫って来たことに気付いたからだ。


「下がっていてください」


 背後に女人を庇いつつ、芝蘭は刀を揮った。

 何人かと切り結ぶも、いずれも芝蘭の敵ではない。忽ち周りに居た者達は地に伏し、芝蘭は己の刀を肩に当てて息をついた。

 冷伯の方も、既に殆どの敵を倒し、相手方の頭とおぼしき男とにらみ合っていた。


「――様、ここで我らは、長く戦えません」


 部下に言われ、男は忌々しげに舌打ちをすると、退け、と短く命じた。

 追っ手が去り、女人はほっとしたように息をついた。


「怪我はありませんか?」


 芝蘭が尋ねると、女人は眼を伏せて頷いた。


「――姫様!! ご無事でしたか!!」

九華きゅうか!! お前も無事だったのね」

「はい、なんとか……。姫様をお守りできず、面目次第もございません。 ――こちらの方々は?」


 九華と呼ばれた女人は、芝蘭と冷伯に眼を留め、主に尋ねる。


「追われている所を助けてもらったのよ」

「そうでしたか……ありがとうございます。なんとお礼を申せば……些少ですが、お納めくださいまし」


 言って、何かを差し出そうとした九華を、芝蘭はとめた。


「礼には及びません」

「――芝蘭、そろそろ俺らも行かねえと」

「そうだな。――では、我々はこれで」


 冷伯が引いてきた手綱を受け取り、芝蘭は拱手すると、身軽に飛び乗った。


「あっ……」


 呼び止める間もなく、芝蘭と冷伯は去ってしまう。その背が見えなくなるまで、彼女は見ていた。


「……さ、参りましょう。姫様」


気遣うようにそっと言う侍女に、彼女は頷いた。



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