(二)

 幽蘭が飄家に身を寄せて、瞬く間に半月が過ぎた。

 少しずつ、幽蘭もここでの生活に慣れてきたようだった。表情も、この短期間で、見違えるほど豊かになったと思う。それを芝蘭は、心中、嬉しく思っていた。 

 このまま、ここで平穏に暮らせれば……そう思わないでもなかったが、そうはいかない。

 戦いの跫音は、すぐ傍に迫っていた。

 脩軌が再び、攻めてきたのだ。

 寒山達も、それを迎え討つ用意は、できていた。 


 その前夜、冷伯や芝蘭は、兄弟達と共に湖へ舟を漕ぎ出していた。それは珍しくも冷光が提案したのだった。冷伯は少し渋ったが、結局は聞き入れた。

 舟は、水上を滑るように進む。

 霧深い夜だった。

 清風が緩やかに吹く。月は天高く浮かび、流れは月明を受けて照り輝き、その煌めきは、落ちかかる光と接して、天にも昇るかのように思われた。冷光は、言葉少なく、琴を弾じていた。

 冷伯と芝蘭は、瓠を投げあっては、中の酒を交互に呷っていた。やがて、冷伯は、舟の奥で横たわるようにして月を見上げた。


「兄上。久しぶりに、兄上の琴をお聴きしとうございます」


 冷光が、手を止めて言った。


「そうだなあ。お前がその琴を冷光にやってから、俺も暫く聴いてないな」


 芝蘭が言うと、冷伯は、仕方ねえなあ、と言って手にした瓠を投げ、冷光から琴を受け取って弾じ始めた。

 ややあって、芝蘭も、冷伯から受け取った酒を呷ぎ、よく通る声で、詩を詠じた。

 冷伯の琴の音が、夜陰に響く。それに和する芝蘭の声は、示し合わせたかのように、ぴたりと一致していた。


 ――“知音”。


 それを見ていた幽蘭の脳裏に、その言葉が過る。

 昔、ある男が、琴をよくした。その男には無二の友がいた。その友は、男の琴の音を聴いて、男の心境をよく理解した。その友が死するや、男は、もはや我が琴の音を知る者はないと、弦を切り、去ったという。

 その故事から、心の底まで知り合った友のことを、知音、というのだ。

 芝蘭は、冷伯をよく理解し、冷伯もまた芝蘭をよく理解した。まさに二人は知音だった。

 それを、幽蘭は、感じた。

 そして、それを、少し、うらやましいと思った。

 遠くに、無数の炎が揺らめいている。夜警の松明だ。

 いつしか、冷伯の琴の音も、芝蘭の声も止んでいた。


「――幽蘭、隆州にいたお前は分かっているだろう。脩軌のやりようが、どれほど無軌道なものか。……皇は皇后と共に財利を貪って政治を顧みず、官吏は腐敗し、法は正しく行われず、官軍は官軍と呼ばれはしても賊と異ならず……明日をも知れぬ恐怖に、人心は乱れている」

「……」


 無数に浮かび上がる炎を見つめながら、幽蘭は、頷く。


「いつまでも、あの男をこのままにはしていられない」

「――兄上、私も戦います。兄上の力に、なりたいのです」


 落ち着いた声で、幽蘭は言った。芝蘭は驚いた表情で、幽蘭を見返した。


「参ったな……お前がそう言うとは。言うなら絶対、婀妹だと思っていたのに」

「当然、申し上げるつもりでしたとも!!」


 婀禮も声を上げる。

 冷光もまた、何か物言いたげに、それでも言い出せない目で見ている。それを横目で見ながら冷伯は、「駄目だ」と、斬り捨てるように言い放った。


「お前らは全員、留守番だ」

「なぜ!?」

「お前らには、飄州府が落とされねえように守るって言う役目がある。万が一の備えだな」

「でも、」

「――もう決まったことだ。逆らえば罰せられる。諦めろ」


 素っ気なく言い捨てた冷伯の横顔に、芝蘭は他の兄弟に気付かれないよう、苦笑を浮かべた。そして、九冥に浮かぶ無数の星々を、見上げた。


 またこうして、皆で月を見上げる時があるだろうか……。



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