(三)
夜、邸に戻ってきた芝蘭は、夢を見た。
すすり泣くような声は、くぐもっているが、聞き覚えがあった。
なんとなく、そんな気がしていた。なぜかは分からないが。
「――神君?」
声をかけると、真っ赤な目で嬰神が芝蘭を見上げた。
「……貴方の傍に居るあの男――なんておそろしいの。今思い出しても震えるわ」
その言葉が真実である、という風に嬰神は細い肩を震わせた。
冷伯の事だろう。
確かに、嬰神の宮殿で水神達を相手に闘っていた冷伯は、雷帝もかくや、というほど激しい、そして恐ろしい闘いっぷりだった。飄族の始祖である雷鳴帝君は、その厳正さから、人々は勿論、魔族や神々すらもおそれさせる神。だが、同時に、その戦う姿は息をのむほどの美しさとも謳われる。しかし、決して無用の争いはしない。彼女が矛を手にするのは、あくまで正義の為にやむなし、という時のみだという。
それに対し、冷伯は根っからの戦い好きだ。口では芝蘭の暴走に仕方なく付き合っている、という風だが、実際の所、戦いや混乱に巻き込まれるのを楽しんでいることは知っているのだ。だから芝蘭も、安心して好きに振る舞うのである。
「あれは基本、誰にでも攻撃的ですので」
「貴方を水に引き込もうとしたからでしょう。分かっているわ。あの男が怖いから、もう無理に引き込もうとはしないわ」
完全にすねた口調で言ってぷいとそっぽを向く。見た目こそ、いくつか年下くらいにしか見えないが、神というからには実際は芝蘭の何倍も生きているに違いない。が、口調もしぐさも、見た目に反し、些か子どもっぽい。
「貴方には、やりたいことがあるんでしょう? 良いわ、待っててあげる。貴方が望みを達成する日まで。……だから……途中で死んじゃ駄目よ。仮にもし死ぬのなら、河の近くで死になさい。絶対よ! わたくしが、きっと迎えに行ってあげる」
今しも泣きそうな真っ赤な目できっ、と芝蘭を見上げて嬰神は言い放った。芝蘭は少し驚いた表情を浮かべたが、ややあって、また微笑んだ。
「……承知いたしました」
神に対する礼で、芝蘭は嬰神の前に膝を着いた。
「私が年を取って、白髪頭のよぼよぼになったら、きっともう、そんな思いも消えて仕舞うことでしょう」
「ふん、そんなのわたくしの力でどうとでもなるわよ!! ――絶対よ? 絶対だからね!!」
その言葉を最後に、声は遠のいた。
「――」
目を開いた芝蘭は、辺りを見回した。たった今まで、すぐ傍に誰かが居たような、そんな気配が残っているような気が、した。
が、室内は暗く、静まりかえっている。明日も早い、少しでも休まねば、と横になろうとした芝蘭は、ふっと動きを止めた。
「……幽蘭、居るんだろう。何だ、眠れないのか?」
ぎく、っとした気配が伝わってきて、芝蘭は苦笑した。
「入っておいで。」
が、その意を決したような表情に、芝蘭は幽蘭が何かを言うよりも前に、駄目だ、と言った。
「……まだ、何も申しておりませんが」
「お前は賢いからな。わざわざ来た、と言うことは、何か考えがあってのことだろう。聴いてしまったら、お前を連れて行かなければならない事になりそうだから、聴かない。冷伯の言うとおり、お前らを連れて行く事はできないし、その気も無い」
芝蘭が言うと、幽蘭は読まれていたか、と目を泳がせた。
「良いか、お前は数少ない、琅家の生き残りだ。だからこそ、お前は、残って、ここを守らなければならない」
万が一、自分に何か起こった時。
芝蘭の強い視線に、幽蘭はびくり、と肩をふるわせながらも見返した。
「兄、上……」
「俺の言いたいことが、お前、もう分かっているだろう。だからもう、何も言うな。――寝ろ」
言ってまた、芝蘭は幽蘭を押して、牀榻に横にならせた。
それは初めて、この邸にやってきた日の夜の様に。
「……戦いが終わったらお前、孟景元殿の所にいって玉爕派の技を学ぶと良い。代々琅家の人間は、玉爕派の武芸を身に付けることになっているから」
「はい」
答えた幽蘭に、芝蘭は「よし」と笑った。そのまま眠りに就きそうな芝蘭に、幽蘭は小さな包みを差し出した。
「これは?」
「肌身離さず持っていてください。中に、飛龍党の大体の毒に対抗できる特効薬が入っています。ただ……二粒しかありません。それに、師父……劉莫我が扱う薬は特殊で、ものによっては効果のない場合もあります。くれぐれもお気を付けて」
「……お前の分は、持っているのか?」
「勿論です」
すぐに返した幽蘭に、芝蘭は小さく笑った。
「お前は嘘が下手だな」
芝蘭は包みから丸薬の包みを一つ取り出し、幽蘭の手の上に載せた。
「兄上。持って行ってください」
「俺たちがいなくなった隙を突いて、こちらが狙われる可能性は十分にあり得る」
「私には耐性があります」
「お前が受けるとは限らないだろう。……例えば、お前を庇って婀妹が毒を受ける可能性もある」
小さく息を吞む音が響く。婀禮の、あの猪突猛進な性格を考えれば、十分にあり得る話である。飄家で幽蘭を迎えて以来、細々と気遣う婀禮に幽蘭が懐いているのは、一目瞭然だった。
「兎に角、一つはお前が持っておけ」
連日の戦準備に、疲れているのだろう。程なくして、芝蘭の寝息が聞こえ始める。だが、幽蘭は、なかなか寝付くことができなかった。
戦場では、何が起こるか分からない。それを幽蘭は、熟知していた。
もしかしたら――、最悪の未来が浮かんで、縁起でも無い、と首を振って打ち消した。
「……」
時は刻々と流れていく。
空が白み始める。
朝が、明ける。
起き出して見上げた暁の空は、何なにか。悲しいほどに、燃え立つように、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます