月下舟行第五

(一)

 朝、幽蘭は婀禮の声で眼が覚めた。


「幽蘭様!! おはようございます。朝ですよ!! さあさあ、顔を洗って、これをお召しくだされ」


 言って婀禮が置いた衣服は矢張り、煌びやかな女物の衣だ。


「……」


 芝蘭は既に幽蘭が男であることを知っているが、婀禮はそれを知らない。言うべきかどうか悩んだが、婀禮の笑顔に、抗しがたい何かを感じて結局、幽蘭はそれを着た。婀禮は、ニコニコ笑いながら幽蘭の髪をあれこれと弄り、この短すぎる髪を、どうしたら衣に合うように、見栄えのするようにできるか試行錯誤している。

 その目の真剣さに、幽蘭は身動きもせず、されるが儘である。

 暫くして、あまりに来るのが遅い婀禮と幽蘭を呼びに、冷伯がやってきた。


「――遅ぇ。もう親父も揃ってんだから早くしろ、婀禮」

「はい、はい! 兄上。ただいま参ります故。これで良いですよ」

 お可愛らしい、と一つ頷き、自分の仕事に満足して婀禮は笑った。

「さぁ、参りましょう。幽蘭様」


 案内された一室へ入ると、昨日の夜見かけた人々が、揃って食事を始める所だった。


「おはようございます、幽蘭様。昨夜はよく眠れましたか?」


 にこやかに声をかけてきたのは、この邸の主、寒山である。

 頷き返すと、それはよかった、と安心したように笑みを深くした。その笑みに、落ち着かない気持ちになって、幽蘭は視線を彷徨わせた。


「幽蘭、おいで」


 先に席に着いていた芝蘭が、幽蘭を手招きした。


「おはよう。」

「おは、よう……ございます。……兄上」


 幽蘭がつっかえつっかえ言うと、芝蘭は少し驚いた表情をし、次いで破顔した。昨夜のようにまた、髪がぐちゃぐちゃになる勢いで撫で掻き回された。婀禮が、「折角可愛く調えたのに!!」と抗議の声を上げ、芝蘭は笑いながら「すまない、すまない、婀妹」と言って宥めた。


「さ、幽蘭。ここが、お前の席だよ」


 芝蘭の隣の席に幽蘭が座ると、朝餐が始まった。

 次々と料理が運ばれてくる。昨夜の宴の続きかと思う程、人々はよくしゃべり、よく笑い、そして、よく、食べた。


「光、ほら、もっと食え」

「はい、兄上」


 冷伯に言われ、末席に座していた冷光は懸命に口に押し込む。


「おいおい、落ち着け、落ち着け。喉、詰まるぞ」


 仕方ねぇなあ、と冷伯が笑う。


「は、はい、兄上」

「よーし、光! 婀禮と勝負だ!! どっちがより沢山食べられるか!!」

「こら、婀児。女子がそんな勝負をするんじゃない」

「父上、女にも引けない戦いがあります故」

「それが今、だと? 相手は弟だろうに」

「その通りですとも」


 婀禮が鹿爪らしい表情で言うと、皆噴き出した。


「なぜお笑いになられるのです!? わたくしは真面目に申しましたのに……!!」


 笑いが一頻り収まると、芝蘭が思い出した様に口を開いた。


「――そうだ。お前の剣。預かったままだったんだが、この間、追っ手を撒くとき落としてしまったんだ。代わりと言っては何だが、これを。」


 言って芝蘭は、一振りの剣を差し出した。


「昔、俺が父上にいただいた剣だ。が、俺にはこいつがあるからな。お前は剣を使うだろう。持っていろ。碧山殿に『六義剣法』を教わると良い」

「幽蘭様は、剣をお使いになられるのか!?」

 

 婀禮が目を輝かせた。


「ああ。なかなかの腕前だと思うよ。兄の欲目抜きに見ても」


 芝蘭が答えた。婀禮は居ても立ってもいられない様子で、立ち上がる。一体何処に仕込んでいたのか、剣を抜いてだ。


「――いざ、勝負!!」


 言って、婀禮が動こうとしたときである。


「――こら、婀禮。食事中に剣を振り回すでない」

「ええ!? 父上。じゃあ、食べ終わったら……」

「駄目だ」


 寒山は、にべもない。


「父上のケチっ!!」

「ケチとかそういう問題ではないのだ」


 にらみ合う父娘を、芝蘭が取りなす。


「まあまあ、真剣でなく、木剣なら良いでしょう。お互い、年の近い相手と手を合わせてみることも学びの一つ、修行の一つでしょう。幽蘭も、構わないだろう?」


 幽蘭は、少し考えた後、こくり、頷く。婀禮は歓声を上げると、残る料理を詰め込み始めた。少しでも早く手合わせをしたいのだろう。

 面白がった碧山と、芝蘭、冷伯、そして冷光が立ち会う中、婀禮と幽蘭の手合わせは行われた。

 双方、木剣を手に、まずは婀禮が仕掛けた。

 振り下ろされる剣は、迅く、また重い。それでいて、舞いを舞うようにしなやか、且つ優雅だ。対する幽蘭は、落ち着き払った様子でそれを受け止めている。婀禮の出方を探り、どう動けば、どの技を使えば勝てるのか、めまぐるしく考えているのだろう。

 冷伯は、婀禮の剣捌きを冷静に見遣る。婀禮の腕は、今後更に伸びていくだろう。そう、確信する。

 婀禮と冷伯は似ているのだ。その闘争心の強さ、という点において。

 飄家特有の蒼い瞳が、闘争心にますます蒼く、炯々と燃え上がる。振り下ろして狙いを逸れた剣の切っ先が、地面を抉り、砕く。

 幽蘭が、動いた。

 素早く懐に入り込み、鋭い一太刀を入れた。

 カンっ、と。高い音を立てて、婀禮の剣が飛んだ。

 衝撃にしびれる手を押さえ、婀禮はだが、楽しげに笑った。


「幽蘭様はお強いのですね!! 次は負けませぬ」


 にっこり笑いながら言い放った婀禮に面食らった様子で、だが、幽蘭はおずおず頷いた。


「はっはっは。幽蘭様、これはお見事、良い腕をお持ちだ」


 豪快に笑いながら、碧山が言った。


「――さあ、んじゃあ稽古を始めるぞ。皆、並べ並べ」


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