(二)
一瞬の浮遊感。
激しく地面に叩きつけられた芝蘭は、子どもを抱えたまま、咳き込む。
「あら、いけない」
明るい声がして、芝蘭は僅かに眼を開ける。
薄紅色の大きな瞳が、芝蘭をのぞき込んでいた。驚いた芝蘭は少し後退して、また咳き込む。
年の頃は、二十歳を超えたばかりかと見える臈長けた女人だった。珍しい濃い赤紫の髪は緩く波打っている。
「ちょーっと手荒くしすぎちゃったかしら?」
言って、背後を見上げた。やたら暗いと思えば、“それ”の影が落ちていたからだという事に今更ながら気付く。
ズルッ、ズルッ、と、重たい物を引き摺る音がする。
見上げれば、鋭い金の瞳と眼が合う。
“それ”は、巨大な――蛇だった。
警戒すらも忘れて、ただ芝蘭はその蛇を驚きの眼でもって見上げた。
「怪我は無いわね。良かったわ。綺麗な顔に傷がつかなくて」
正直な話、怪我がないわけではなかった。が、確かに顔には殆ど無い。彼女にとっては、顔以外の傷は問題にならないらしい。
「貴女は……」
問う芝蘭に、ふふふ、と満足げに微笑みながら女人は名乗った。
「わたくしは、
それは、
歌舞に秀でた神としても知られ、年頃の娘達からの信仰を集める女神の名だ。明らかに徒人ならざる風貌に、芝蘭はすぐに彼女こそがその嬰河の神だと悟る。
「ここはわたくしの宮殿。流されていく貴方を見つけて、この子に引き上げさせたの」
言って、巨大な蛇を示す。
「それは……御礼申し上げます」
芝蘭は、丁寧に礼をした。
「いいのよ。これでお互い様よね。わたくしにはわたくしの目的もあったし」
言って、鈴を転がすような声で笑う。
「お互い様? 目的?」
「あら、まだ分からないの?」
芝蘭の言葉に、ほんの少し気分を害した様に柳眉を寄せる。
「まあ、仕方ないかしら、姿を変えていたもの。一月前、追われている所を助けてくれたじゃないの」
「――まさか、あのときの?」
一月前、
「申し訳ない、雰囲気が……随分違ったので」
「まあいいわ。こうなるんじゃないかと、
「つけて?」
芝蘭にすっと近づいた嬰神は、両手を伸ばしていきなり芝蘭の頬を包んだ。予想外の出来事と、手の冷たさに芝蘭は驚いて瞬く。
「先代河伯が身罷られて以来、次代の河伯を巡って争いが起こっているの。先代の娘であるわたくしを得れば、河伯になれると思っているのよ。わたくしは、さっさとこのくだらない争いを終わらせたいの。ただ、河伯候補者には、ピンと来る方がいなかったというか」
「姫様の好みの殿方がいらっしゃらなかった、とはっきり仰っては」
蛇が言った。
「おだまり、
やんわりとはしていながらも有無を言わせぬ口調で言う。どうやら、あのとき後から現れた侍女・九華の本性は、この巨大な蛇なようだ。名からして、九水の神かもしれない。
「それで、私がどう関わってくると……?」
「矢張り河伯は、見目の優れた方でなくては。見栄えがしないわ!! その点、貴方はぴったりね。髪が短いのは気になるけど」
「まさか、私に河伯に名乗り出ろと仰るか」
彼女は微笑のまま、芝蘭を見上げた。言葉はなかったが、それは肯定と同義であった。
「
「あら、そんなこと。大抵の河川の神は、元人間だもの」
「……兎も角、恐れながら、河伯にはなれません。私には、やることがある」
「姫様……矢張り、このお方は……炎気が、炎帝の加護が強すぎるのでは。忽ち
「九華! 何事も、やってみなくてはわからないでしょう?」
「だからといって、うまくいかなかったらどうされるおつもりです。眷属を害したと、炎帝のお怒りを買ったら、」
「帝が何とかしてくださるわ。何度も言ってるじゃないの。帝と
「恐ろしいのは炎帝だけではございません。かの炎瀞帝君の眷属を害しますれば、……なによりも、
私には、雷鳴帝君の怒りが恐ろしゅうございます、と九華は身を震わせた。
法を掌る正義の女神、雷鳴帝君。
人からも妖魔からも恐れられる彼の女神は、神々からもおそれられているというのは本当らしい。
言い合う様子の二人に悟られないよう、芝蘭は気絶したままの子どもを抱え、そっと後退した。
静かにその室から出、
一体、
額に張り付く髪をどけてやった芝蘭は、小さく息をのむ。
子どもの額には、紅色の線で、模様のような物がある。
やはり、と感極まったように零す。あとの言葉が出てこない。
「――
漸くそれだけを呟く。
間違いなく、行方不明だった妹の幽蘭だった。まさかとは思ったが、生まれたときから額にあった徴が、子どもが幽蘭本人であるというなによりの証拠であった。
芝蘭の言葉に応ずるように、幽蘭がわずかに動く。
相も変わらず、死んだような眼で芝蘭を見上げると、警戒するように後退した。
「幽蘭」
「幽蘭? 私は
「――殄? それは……お前の名じゃない」
忘れてしまったとしても、仕方の無いことだった。何しろ、幽蘭は十年前、たったの二歳だ。だが、仮に間諜や刺客として育てようとしたのだとしても、その名が「殄」――滅ぼす――とは。
「知らない。それ以外の呼ばれ方なんて……」
「覚えていなかったとしても。俺は、この十年、ずっとお前を探していたんだ。ただ一人残された妹を」
「私に兄は居ない。両親も。――それに……」
「そう思っていただけ、否、思わされていただけだ。一体誰だ? お前に、殄、などどふざけた名前を付けた者は」
眼をつり上げて言う芝蘭を、幽蘭は些か不思議そうに見上げる。
「……なぜ、そんな顔をする。貴方を殺そうとした者に」
淡々と問う幽蘭に、芝蘭は何も言えなくなってしまった。
そして、燃え上がるような怒りを覚えた。
ずっと、探していた。生きていると。信じていた。いつの日か、必ず再会出来ると。
だが、これはあんまりだ。
本来ならば、皇宮で何不自由無く育てられた筈。両親とも、愛情深い人達だった。幽蘭が生まれたときには、二人とも、それは喜んでいた。
あの日の光景を、芝蘭は昨日の事のように思い出せる。
恐る恐る伸ばした、小さな幽蘭の手に触れた時の喜びを。兄として、守ってあげるのだよ、と父に言われた時の誇らしさを。
それなのに――。
誰が。
何が一体、幽蘭をこんな暗い世界に引き摺り込んだのか。たかだか十をいくつか過ぎたばかりの、年端もいかぬ子どもに、こんな眼をさせるような……。
「あらあら、ここにいたのね」
は、と芝蘭は息を飲んだ。嬰神の声だ。怒りの為、気付くのが遅れた。
「逃げたって隠れたって無駄よ。ここはわたくしの宮殿。わたくしの手の内ですもの」
言って笑う嬰神の言葉を最後まで聞かず、芝蘭は再び幽蘭を抱えて走った。
「悪いが少し、大人しくしていてくれ」
もがく幽蘭に、芝蘭は宥めるように言う。
「何が不満?
声だけが耳元を追いかけて来る。
「――“それ”は、人として為せばこそ、意味があること」
誘惑する声を振り払い、己に言い聞かせる様に、言った。
辺りには、満々と香の煙がたゆたう。そのえも言われぬ甘い香りに、眩暈を覚える。が、ここで足をとめたら終わりだ。二度と地上には戻れない。その確信があった。
――河川の神々というのは、その殆どは、その水で溺れ死んだ人間の魂がなるのだという。
つまり、河伯になれ、ということは、芝蘭に一度溺れ死ね、といっているのだ。
神と人とでは、感覚が異なるという事は、何となく、分かる。
神の力が手に入る。
それは確かに魅力的な提案だ。だが、だからと言って、易々とそれを承服できようはずがない。
何とかして、この宮殿から出なくては。一刻も早く。
「居たぞ、あの男だ!! 殺せ!!」
芝蘭を指さし、一気に突っ込んでくる者達が居た。幽蘭を片腕に抱き直し、もう片方に刀を抜いて、迎え撃つ。
一人対多人数戦は、破山派の特技だ。相手の武器を刀でたたき折り、点穴でその動きを封じる。
「さっさとやれ!! 嬰姫様に悟られる前に!!」
幽蘭が弱点と気付いた一人が、幽蘭を狙ったが、芝蘭は素早く刀で斬り捨てた。そして、更に迫る敵を、眼で威圧する。
「幽蘭を、傷つける者は許さぬ……」
その炎の如き眼光が発する圧に、睨まれた者達は戦いて動きを止める。だが敵は次々増えて全く切りが無い。
仕方なく後退し、別の道を選ぶものの、その道からも敵が押し寄せた。
「追いついたわよ……って、あんたたち、何のつもり!?」
そこへ、嬰神と九華もやってくる。
「嬰姫様。こ、これはっ……」
万事休す。
これまでか。せめて、幽蘭だけでもなんとかする事はできないか――歯噛みした 芝蘭の眼の端を、敵が吹っ飛んだ。
「な、何――?」
「――漸く見つけたぞ、芝蘭……この、暴走莫迦皇子が」
地を這うような低音。
怒りに充ち満ちたその声に、芝蘭は信じられない様な思いで声の主を見遣った。
水を吸って張り付いた髪が、幾筋も顔にかかる。
その前髪の間からのぞく蒼の瞳は、危険を感じるほど、怒りに燃え上がっていた。
慣れたはずの芝蘭ですら、若干引く程の怒気。芝蘭を除くその他は言わずもがな、である。
「れ、冷伯……」
眼を細めて芝蘭を見遣り、その周りの神々へと眼を転じ、小さく舌打ちをする。
「端迷惑な水神共が。――さっさと芝蘭を、返してもらおうか」
剣を構え、冷伯は言い放った。
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