(三)


 誰かに肩を叩かれたような気がして、冷伯は目を開く。が、辺りは深淵の闇。何も見えない。ただ、何かの気配だけを感じる。


「――誰だ……」


 声を発した途端、ふっと炎が灯る。夜闇に浮かぶ星々の如く、無数の炎が次々と灯り、いつしか真昼のように明るく辺りを照らした。


「ああ、来たね」


静かな声。その響きはなぜか、懐かしい様な気持ちを冷伯に抱かせた。振り返れば、長身の男が立っていた。

 燃え上がる炎の様な真紅の髪をゆったりと垂らし、腰の辺りで金具で留めている。全てを包み込むが如く、温かな光を宿す瞳も、髪と同様の真紅。身に纏う衣も装飾品にも、どこか古代的な雰囲気が漂う。


「なかなか君が眠ってくれないから、少し、強硬手段を使わせてもらったよ。気を悪くしないでおくれね。何せ私は、夢の中でしか、君らに会うことができないのでね」


 言って、にこりと微笑む。思わず力が抜けてしまいそうな笑みだ。


「君の探している人は、嬰河の神に気に入られたらしい。返すつもりはないみたいだよ」

「なんだと……」


 忽ち目を怒らせた冷伯に、まあまあ落ち着いて、と言うように手を上げ笑みを深める。


「助けたいかい?」

「当然だ」


 即答した冷伯に、男は小さく声を上げて笑った。


「……君なら、そう言ってくれると思っていたよ。」


 言って、男はすっと表情を改めた。穏やかな雰囲気から、一転、静かで厳かな雰囲気へと変わる。


「――嬰河の神の宮殿への入り口は、一つしか無い」


 袖を一つ払うと、闇の中にふと九水の光景が浮かび上がる。


「ここに、瀑布がある。――この下だ」

「……つまり、ここに飛び込め、と?」

「そういうことだね」


 さらりと言い放つ男は、できるか、と試すような目で冷伯を見た。


「……上等じゃねえか」


 間髪入れずに返した。が、強気な言葉とは裏腹に、僅かに声がかすれた。それを知ってか知らずか、男はまた表情を緩めた。


「……これを持って行くといい」


 男は、冷伯に古びた鏡を差し出した。裏面は、龍を象ったとおぼしき凝った装飾が施されている。


「嬰神の宮殿は、行く事ができたとしても、帰ることがまた難しい。……これが、導いてくれる。良いかい。決して、無くしてはいけないよ」


 冷伯は受け取ると、確りと頷いた。そして、思い出したように拱手して礼を述べた。


「礼には及ばないよ。私が、勝手に君を呼んだのだから。――さ、もうお行き」


言うと、炎瀞帝君えんせいていくん――炎帝はまた、ゆったりと微笑んだ。

 



「――……」


 目覚めた冷伯は、今し方、夢で見たことを、頭の中で反芻する。

 炎帝が、夢に現れた。炎帝は、導きの神としても知られる。

 彼の神の廟には、常に様々な悩みに思い惑う人々が列を成す。

 そして、人々の問いかけに対し、夢に現れて導きを示すとされる。

 夢にしては、酷く現実味のある夢だった。


「本当に、夢か、……?」


 手に堅い物が当たる。見れば、夢の中で炎帝に賜った鏡だった。

 冷伯は立ち上がった。鏡を懐にしまって上着を羽織り、剣を持った。

 必ず、芝蘭を取り戻す。――冷伯は、炎帝が示したとおり、瀑布の近くまで来た。

 「飛流直下ひりゅうちょっか三千尺」とまでは行くまいが、そこそこ高さはある。下から見上げれば、まさしく詩にあるように、銀河が空から落ちてきたかの様にも見えるだろう。

 見下ろした冷伯は小さく息を飲む。激しく吹き付ける風に、冷伯の銀髪は激しく巻き上げられた。


「……」


 高いところが恐ろしいのではない。そこに住まうとされる伝説の大蛇でもない。そんなものを、冷伯は懼れたりしない。

 問題は、水、なのだ。

 本能的な水への恐怖が、多かれ少なかれ、飄族の人間にはある。

 入浴する程度ならそこまで問題はない。だが、……畏れを知らぬ冷伯の足が、僅かに竦む。

 この滝壺の底の知れ無さ。

 それは冷伯に、飄族の墓場である龍浄湖りゅうじょうこを思い出させた。


 飄族の民は、自分の死に様を他者に見せない。

 それを他者の目に晒すのは、不名誉なこと、という考えがある。

 故に飄族の者は、自分の死期を悟れば、自らそこに赴き、底なしの湖に身を沈める。

 一度触れれば、忽ち魂までもが凍り付く、死の水に――。


 無論、故あって、達成できない者も多いのだが。その際には、非常に危険な儀だが、遺族らが代わりに沈めてやる。

 冷伯達の母も、そうだった。

 母は、弟の冷光の出産後の肥立ちが悪く、そのまま死した。

 生気を失った母の遺体が、その水に触れた途端、何か、目には見えぬ無数の手に引かれるようにして沈んでいったのを、冷伯ははっきりと覚えている。

 それを、恐ろしい、と。――思ったのは、嘘ではない。

 

 また、風が吹いた。

 激しい水滴と轟音をまき散らしながら落ちる水流――それは、咆哮する龍の様にも思えた。

 またごくり、冷伯は喉を鳴らす。――早く行かねば。

 そう思うのに、動こうとしない足に、冷伯は舌打ちをする。情けなさに、自分で自分に腹が立った。沸々とわき上がる怒りは、やがて、芝蘭を連れ去った嬰河の神に向いた。


「――嬰河の神だと? 神になど渡してなるものか。あいつは、この国の皇になる男なんだからな!!」


 冷伯は、身を躍らせた。


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