(四)
“――さっさと芝蘭を、返してもらおうか”
突然現れて傲然と言い放った冷伯に、並み居る水神たちは怒りの声を発した。このまま大人しく返すつもりはないようである。八つ裂きにしてやるだとか、魚の餌にしてやるだとか、聞き捨てならない言葉が、水神たちの口から放たれる。
「そんなこと、このわたくしが許さないわ」
中でも最も上等な衣に身を包んだ女人が怒ったように言った。――あれが嬰神か、と冷伯は当たりを付ける。
どうやら、内輪で揉めているらしい。
大方、嬰神は芝蘭の事を気に入ったが、それを面白く思わない他の水神が芝蘭を狙ったのだろう。
だが、そんなことはどうでも良い。芝蘭を地上に返すのを良しとしない者。妨げる者。全てが、冷伯の敵だ。神であろうと、容赦はしない。
炎帝とて、こうなることを予測して冷伯の夢に出てきた筈だ。その責任は、炎帝に取ってもらおう。――自身最大の弱点である水をくぐり抜けたことと、怒り。そして、戦いの高揚感に冷伯は、最早、おそれるものは何も無い。
「覚悟しやがれ、水神ども」
冷伯の表情が、すっと抜け落ちる。
剣を手に、動き出した冷伯はまさに、嵐だ。――否、
一振りすれば、玉の廊に流血が海を無し、また一振りすれば花弁の如く血が飛ぶ。
その容赦のなさ。
玲瓏たる美貌を誇るだけに、却って恐ろしい。
その厳しくも麗たる絶佳の横顔は、魔族を
すっかり怯えきった水神達に、冷伯は血に染まる剣を手になおも迫る。
「冷伯!」
芝蘭の声に、冷伯の動きがぴたり、と止まる。
「もう良い。十分暴れただろう?」
「……その女が諦めれば、な」
冷伯は、冷ややかな目で、嬰神を見た。九華に掴まって、最早涙目である。
「い、いやよ!!」
冷伯の睨みを受け止めた嬰神は泣きそうになりながらも首を横に振った。そうして、芝蘭に目をやる。
「ねえ、お願い。……承諾して? 貴方の望みは、わたくしが何でも叶えるから」
「芝蘭」
「……申し訳ない。それだけは、できません。私の何が、そんなにお気に召したかは分かりませんが……」
一言一言、言い聞かせるような口調で言う。
優しすぎる。呆れて冷伯は、さっさと行こう、と言いかけた。が、芝蘭の横顔に、常にはないその目の強さに、思わず言葉を飲み込んだ。
「――私には、やり遂げなければいけないことがあるのです」
静かながら断固とした声が響く。
片や嬰神は、子どものように目に涙をいっぱいに溜めて、面を伏せた。
流石に女人を泣かせたとあって、芝蘭は少し困った顔をした。片や冷伯はめんどくさそうに顔をしかめた。
「――そうよ。ここはわたくしの宮殿。最初から、こうすれば良かったのよ」
硬質な声音。
何を、と言いかけて、冷伯は身を固くした。足もとに、水が急速にせり上がってくる。
有無を言わさず、自分たちを溺れさせるつもりだ。
「芝蘭、その女はもう、放っておけ。――逃げるぞ」
「冷伯? だが、道は分かるのか?」
「ったりめーだ。行くぞ」
「ちょっと待ってくれ――ほら、行くよ。幽蘭」
芝蘭は振り返り、幽蘭を呼んだ。が、幽蘭は怪訝な表情のまま、動かない。
「――幽蘭? この餓鬼が? 冗談だろ」
「間違いない」
芝蘭は幽蘭を抱え上げ、冷伯の後に続く。もう、膝の辺りまで水が迫っている。
「――逃がさない。九華!! 追うのよ」
背後に大蛇が迫る。
冷伯が、裂帛の気合いと共に、鋭い一太刀を入れた。
「九華殿、」
「止まるな莫迦芝蘭!! 死にてえのか!?」
立ち止まりかけた芝蘭に冷伯が怒鳴る。ぐっとこらえて芝蘭はまた走り出す。
最早、そのまま走るのは不可能。そう判断し、軽功を駆使し、身を低く保ち、水面を飛ぶように、滑るように進んだ。
「あそこだ!! 突っ込むぞ、芝蘭!!」
その背後に、またしても追ってきた大蛇が迫る。
血を流しながら、鎌首をもたげて芝蘭を狙う。再び剣を振るおうとしたその時、幽蘭が
その尾が、冷伯達を激しく打ち据える。
「!!」
「ぐあっ」
大量の水に飲み込まれる。
かっと目を焼く光。うっすら目を開ければ、炎瀞帝君に賜った鏡が発光して居るのだった。
空気を求めて、光の先を目指す。
苦しい。体が思うように動かない。
やっとの事で浮上すると、天高く、月が見えた。
――脱出に成功したのだ。
息をつこうとするも、足がつかない。その上、全身、黒々とした水に浸っているという事実。芝蘭を助けねば、という思いから忘れかけていた恐怖が心を襲い、生きた心地がしなくなった。
「大丈夫か、冷伯」
先に上がっていたらしい芝蘭が声をかける。ばたばたと手を動かしている冷伯を見て、不思議そうに声をかける。
「何遊んでんだ? さっさと上がってこい」
「見て、な、……せ!!」
「ん? 何だって」
「……せ!!」
「あ? 水音で聞こえん」
「――さっさと手ぇ貸せ!! 莫迦芝蘭!!」
半分泣きそうな、半分怒った声で、冷伯は叫んだ。
冷伯が本気で溺れかかっているのだというのに漸く気付いた芝蘭は、慌てて冷伯の手を引いた。
「そーいえばお前、泳げないんだったな……えーと、……すまん」
芝蘭の手を借り、何とか陸に這い上がった冷伯は、ぶるぶる震えながら放心していた。が、芝蘭の言葉に、頭にカッと血が上るのを感じた。
「うるせえ!! これは、これはあれだ、ただ、寒いだけだ!!」
言うと、盛大にくしゃみをする。
「――だなあ。流石に夜は冷える。さっさと皆と合流しねーとな」
冷伯を弄るのは大いに愉しいのだが、本気で怒らせると後がめんどうなので、芝蘭はさっさと話題を変えた。
「……幽蘭は
冷伯は、幽蘭の姿がないことに気がついた。
「戻った。止めたが、行ってしまった」
「……そうかよ」
「ああ、だがまずは、生きてくれていたのが分かったから、いい。いずれ、また会えるだろう。連中は俺の事を狙っているようだし」
「連中、ね……」
「冷伯、お前、幽蘭が所属している組織に心当たり、あるか?」
「……一つ、あることにはあるが」
「それは?」
「――『
そういえば、幽蘭は飛鏢を使っていた。
「……飛龍党、か……」
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