(五)

 嬰神の宮殿から帰還し、鏢局ひょうきょくの仲間と合流した芝蘭達は、再び孟府もうふを訪れた。

 景元けいげんは、九水に落ちた芝蘭を探すための人手を貸してくれた。芝蘭が見つかったという報告と、人手を貸してくれたことへの礼を述べる為だった。

 出迎えた景元は、芝蘭を前に、膝を着き、頭を下げた。


「ご無事で何よりでございました。あの九水に落ちた者で、助かった人間は少のうございますから。恐らく、炎帝がお守りくださったのでございましょう」


 実際の所は、嬰神が自身の宮殿に芝蘭を引き込んだ為に九水で溺れることはなかったのだが、河の神にしようとする嬰神から芝蘭が逃れられたのは矢張り、炎帝の導きがあったからこそだ。当たらずとも遠からず、ということで二人は曖昧に笑うに留めた。


「……この十年、私は悔いておりました。殿下のお父君をお助け申し上げられなかったことを。脩軌の野望を、見抜けなかったことを」

「景元殿」

「殿下もお気づきでしょう。――十年。脩軌の治世下で民の間に溜まりに溜まった鬱屈は、いまや破裂寸前です。一石投じれば、忽ち、波紋は広がり、大波となって奴自身をも飲み込みましょう。――わたくしどもにできることがございましたら、何なりとお申し付けください。玉爕派は、殿下の力となりましょう」


 * * *


「――師父、ただいま戻りました」

てんか」


 男は振り返った。癖の強い黒髪を下ろし頭には白い布を巻いている。鋭い猛禽を思わす薄灰色の目が、殄を貫く。


「例の者はどうした。殺ったか」

「申し訳ございません、師父。未だ――」


 言いかけた所に、腹部に衝撃が走る。軽々吹き飛ばされ、壁に激突して落ちた。蹴り飛ばされたのだ。激しく咳き込み、口の中は血の味がした。殄は、身を震わせながら、膝を折り、頭を下げた。


「――それで、おめおめと帰ってきた、だと?」


 言葉が、容赦の無い呵責が、雷のごとく身を打ち据える。いくら殴られようとも、蹴られようとも、ただ天災のごとく、堪え忍ぶしかない。

 子にとって、親は天だ。親のない殄にとって、師は天にも等しい存在だった。


「申し、訳、ございません。次こそは――」


 途切れ途切れに言えば、漸く師は手を止めた。投げ出された殄は、荒く息をついた。が、その髪をつかまれ、仰のかされる。


「当然だ。――十年前、餓鬼だったお前を拾って育て、強くしてやったのは誰だ? この俺だろう。その恩に報いることだ。分かったら、さっさとあの男を殺してこい」


 言うと、乱暴に手を離される。よろめきながら殄はまた、膝を着いた。


「……師父」

「何だ?」

「師父が殺せとお命じになったあの男は、……一体何者ですか」

「――お前が知る必要など無い」

「ですが、あの男は、私を、『幽蘭ゆうらん』と呼んだ。吾が兄だと」


 男は、苛立ったように伏せた殄の頭を踏みつけた。殄は一瞬くぐもった声を上げたが、ぐっとこらえる。


「いい加減にしろ。知る必要など無いと言っているだろう」

「……はい、師父……」


“覚えていなかったとしても。俺は、この十年、ずっとお前を探していたんだ。”

 

 言って、まっすぐに殄を見た青年の顔が、脳裏を過ぎる。

 

 ああ、愚かだ。

 

 己と同じ、真紅の瞳。

 その瞳を見たときの、なんとも言えない懐かしさに似た気持ちに、らしくもなく、淡い期待を覚えてしまっただけだ。其れは所詮、単なる幻想に過ぎない。


――自分は、一人ではないのだ、などとは。


 矢張り、あの青年は勘違いしているのだ。何より……。


 自分は、“殄”。


 家族を、友を、仲間を、絆を、命を、――滅ぼし、絶つ者。

 だから、……温かさなど、望みなど、持ってはならないのだ。


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