(六)

  冷伯は兵を連れ、芝蘭に言われた通り、山道を直走った。

 ふと冷伯は、前方に人影を見つけた。


(――敵兵か)


 当然、潜んでいるだろうと考えていた。ここまで全く出くわさなかったのが不思議なくらいだった。だが、近づきその顔が見える程になって、彼は顔色を変えた。

 見間違えではない。その姿。昔、何度か会ってその顔を、冷伯はよく見知っていた。


「飄、明珠――」


 なぜこんな所に。後宮深くで守られている筈の皇后が。脩軌について、ここまでやってきていたのか。だが、供も付けずに、たった一人、こんな所をふらついているなど、正気の沙汰ではない。

 抜き身の剣を携えた冷伯を見ても、明珠には、驚いたり、戦いたりするような様子はうかがえなかった。ただ悠然とそこに佇んで、静かな目で冷伯を見上げた。僅かな恐懼も、その目には浮かんでいない。その手には、彼同様、抜き身の剣が一振り。

何故。皇と共に民を虐げ、財利を貪る毒婦。そう思って居た。比武大宴での襲撃も、それ以外も、冷伯は、全てこの女が背後に居ると思っていた。実際、多くはそうだった。

 それが、何故、これほど迄に透明な目をしている。まるで浮き世の汚濁など、まるで寄せ付けぬ、澄んだ蒼の瞳。


「冷伯。待っていましたよ」


 黒い衣が、風に翻る。その髪には、飄家の女子なら誰もが身に付ける白蓮の簪が揺れていた。泥中より生じ、汚濁に染まず美しい花を咲かせる。その花の白が、何故か目に付いた。彼女のこれまでの行いを鑑みれば、皮肉以外の何物でも無い。だが、今、明珠の瞳を見ていると、しっくりと馴染んでいるような気がしてきた。

 明珠が、不意に動いた。咄嗟に冷伯は動いた。僅かな風の動き。肌を軽く風が撫ぜたようなすがしさを感じたかと思うと、次いでツキリと痛みが走った。

 余りに自然に、冷伯は斬られていた。浅いが、腕を切ったのは確かだった。恐らく咄嗟に動かなければ、腕一本はやられていたに違いない。軽傷で済んだのは流石というべきだが、彼女自身が剣を振るったのを初めて目の当たりにした冷伯は、驚愕していた。その武功に。


「驚いた様ですね。冷伯。然れど、他を圧倒し恐懼戦慄せしめる程の力があってこそでしょう。独裁者、というものは」


 薄い微笑みすら浮かべて、「独裁者」と吐き捨てた明珠の頭にあったのは、果たして、自分の事だけだったろうか。だが、冷伯には、それを慮る心の余裕などない。


「そなたには、わたくしの行いなど、何一つ理解出来ないのでしょう。否、……したくない、でしょう。だから、そなたにもわかりやすい言葉で言いましょう」


 明珠が言った瞬間、冷伯の背後で兵達の叫びが上がった。


馨晏しらん皇子には、可哀想ですが、ここで死んで貰います。その為に、そなたは邪魔でしかない」


 振り返れば、冷伯が連れてきた兵たちが馬ごとひっくり返っていた。足下に罠が仕掛けられていたのだろう。冷伯まで巻き込まれなかったのは、幸いだったのか、或いはそれも明珠の意図の内だったのか……。カッと、冷伯の胸の内でなにかが破裂した。剣を引っ提げた手に、力がこもる。間髪入れず、倒れた味方に、敵の火矢が雨のように降り注ぐ。素早く立ち上がった術師の一人が、水を呼び寄せて盾を作ることで、漸くその攻撃を凌いだ。それで何とか体勢を整えた自軍は攻勢に転じる。

 だが、すでに負傷した者は多く、苦痛のうめきを上げながら転がって居るものも少なくない。木々の間に隠れた敵の数は判然とせず、倒したと思えばまた新たな敵が現れて果てがない。

 芝蘭を確実に殺す、その為に、冷伯は此処におびき出された。冷伯は、なんとしても芝蘭から離れるべきではなかった。速やかに戻るべきだ。――明珠の最大の武器は知謀にあると、その武功を侮っていた。要は、冷伯の驕りだ。驕りは、人を殺す。今地に伏す味方は、冷伯の驕りの為に死んだのだ。奥歯を噛んで、冷伯は明珠を殺すための剣を揮おうとした。


「――!?――」


 違和を感じて冷伯は己の腕を見る。ごく小さな針が刺さっているのを認めた。暗器だった。初撃の狙いは、本当はこちらだったのだ。毒を仕込んでいたのに違いない。

 だが、そんなことに構ってなど居られない。一刻も早く、明珠を倒し、ここを越えて進まなければならない。


「憎いでしょう、冷伯。わたくしのことが。然れど、そなたがいくらわたくしを憎もうと、わたくしのもとには一向に罰が下る様子はないわ。……だって、わたくしは、神の意に沿わぬことなどしていないのだから」

「……何を……っ」

「わたくしを罰する者が現れるならば、それは神ではないわ」

「飄明珠。――ならば、俺が、お前を殺す!」


 冷伯の怒声が、空気を震わせた。怒り狂う双眸を、ひたと見返す静謐。その奥に、何を隠し、何を思っているのか。明珠と切り結ぶ冷伯は、一瞬、それが何か、見えたような気がした。だが、斬り捨てた。それ以上を探ってはいけない。そう直感した。それを知ったら、今の冷伯を支えている“何か”が崩れてしまいそうな気がした。否、事実、今、崩れかけている。何の毒だったのかは分からない。ドクドクと、血の脈打つ音が、常ならぬを告げてくる。手足が震えて剣を取り落としそうな程。視界に火花が散り、酷い吐き気が押し寄せる。 


「その毒は、飛龍党のもの。その威力は知っているでしょう」

「……そうかよ」


 言われて冷伯はやっと、出てくる直前に芝蘭に渡された薬の存在を思い出した。飛龍党の大抵の毒に効く、と言っていた。明珠の畳みかけるような攻撃をいなして距離を取る。懐の包みから丸薬を取り出し、呑み込んだ。時間を掛けていられない。


「!」


 動きを変えた冷伯を前に、初めて、明珠の目に僅かな動揺が浮かんだ。だが、突き出される鋒に迷いは無い。何れも譲らぬ神速の応酬。次第に冷伯は、感覚が戻ってくるような気がした薬が効いてきたのか、或いは戦いの昂揚のためか。それは分からない。だが、この時、冷伯を突き動かしていたのは、ただ一つ。

明珠を倒す、それだけだ。

 どれだけ味方が倒れ、敵が押し寄せているか、それすら意識の外だった。将としては失格だ。だが、この珱の暗黒時代の元兇を倒す千載一遇の機会を前にして、ここでみすみす逃がすわけにはいかない。

 裂帛の気合いと共に振り下ろされた剣が、明珠の肩から脇腹に掛けて、大きく切り裂いた。それでは止まらず、冷伯はもう一太刀を入れた。


「……ふっ……」


 地面に倒れた明珠を、冷伯はまともに振り返らなかった。急所を貫いた。遠からず死ぬ。だが、積年の怨敵を切った喜びなど微塵も浮かばない。明珠が、何か言った気がしたが、聴く気は無かった。その言葉は、冷伯を惑わすだけだ。

明珠を斬る瞬間まで、冷伯の頭の中からは、それ以外の全ては消えていた。だが、それも終わって、浮かんだのは、芝蘭のことだった。

 芝蘭のもとに戻るのだ。一刻も早く。

 或いは、先程まで冷伯の心を占めていた、明珠を斬る、という思いも、なによりも芝蘭の元へ戻ろうとする思いから湧いたものだったのかもしれない。

 剣の血を払い、そのまま、冷伯は、未だ敵味方入り乱れる戦闘の中に突っ込んでいった。


「飄冷伯を逃がすな!」

「捕らえろ!」


 あちこちで冷伯を捕らえ、或いは殺そうとする敵が押し寄せて、冷伯は口の端を釣り上げて笑った。

 ここまで嶷城の奥深くまで進んだのならば、戻るより進んだ方が早い。そう判断して、冷伯はただ前へ進んだ。

 彼の通った後には、尽く敵の屍が転がった。血は海を成し、あちこちで火が上がり、地獄もかくやという光景だった。その中、剣一つで冷伯は、数多の敵を切り殺した。一撃必殺の冴えた鋭い剣技と、彼自身の冷たい美貌も相まって、その姿は、凄絶な鬼神の如く、人々の目に映った。彼が、進む道に倒れた敵の数は、数百とも、千とも云われた。


 ――人々は、畏れと驚きを以て、或いは武を究めた者への敬意を以て、この時の冷伯の姿を語り伝えた。それは後に、史書にも記され、詩にも詠まれ、戯曲として演じられた。その中で冷伯は、剣聖と謡われ、後代までその名を知られることとなる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る