(五)
芝蘭は目を開いた。見慣れた邸の天井が飛び込んできて、芝蘭はふっと息を吐いた。外はまだ暗い。しとしとと雨が落ちる音が響く。眠りに落ちて、まだ然程時間は経っていなかったのだろう。雨に紛れて気配を感じ、芝蘭は口を開いた。
「――幽蘭?」
ぴたり、気配が動きを止めたのが分かった。
「幽蘭だろう。――入っておいで」
言うと、おずおずと幽蘭が顔を覗かせた。手招きをして、自身の牀榻の端に座らせた。
「如何かしたのか? こんな夜中に」
問うが、幽蘭は俯いたまま、口を開かなかった。
「眠れないのか?」
暫くして、再び問を発する。が、矢張り応えない。
もじもじと手を弄り、目を頻りに左右に揺らし、漸く意を決したように口を開いた。
「――私は、本当に貴方の兄弟なのですか」
「無論だ。脩軌や君の師匠だって、それは認めていただろう」
「でも、貴方は、幽蘭は、……妹、だと。確かに私はこの容姿ですし、相手の油断を誘うために、そういう格好もしますが……」
「うん?」
芝蘭は首を傾げた。
「――ああ、そうか」
芝蘭の戸惑いの理由に漸く思い当たって、芝蘭はにっこりと笑った。
「君が妹ではなく、弟だというのは知っているよ。父上や母上のお考えで、表向きには妹、ということにしていたけれど。……君は間違いなく、俺の兄弟、琅幽蘭。その額の徴が、その証」
――琅幽蘭。
幽蘭は、己の名を、噛みしめるように、口の中で繰り返した。
“琅”それは、この珱国にあっては、皇家の姓である。
「――“徴”――」
幽蘭は己の額に手を当てた。気付いたときには既にあった徴。紅色に浮き上がるそれは、どこか艶やかで、女がする梅花粧じみていて、よくからかわれた。それで額に布を巻き、隠していたのだ。が、水に引き込まれた際、水の勢いで外れてしまった。
「それは、琅家の者の身体に、稀に現れる。特に炎帝がお慈しみになった証。だからこそ父上と母上は、お前が男であることを隠した。そして、俺に、兄として、お前を守れとお命じになった。……わかっただろう? さあ、そろそろ兄と呼んでくれないか?」
にっこりと笑うと、幽蘭は面食らったように瞬いた。が、何を言われたか理解すると、表情を硬くしてまた俯く。夜目にも頬が赤くなっているのが分かる。
芝蘭が幽蘭の頭に手を伸ばす。師に散々折檻を受けて育った幽蘭は、条件反射でびくついた。芝蘭はそれに苦笑を返し、髪がぐちゃぐちゃになるのも構わず思いっきり撫でた。
「へ……?」と情けない声を上げた幽蘭に、芝蘭は声を上げて、晴れやかに笑った。
「急に兄と呼べと言われても、実感わかないか。よし、呼びたくなったら呼べばいい。――さあ、もう寝ろ」
言うと芝蘭は幽蘭の肩を押し、牀榻に横にならせる。戸惑う幽蘭をよそに、その
横に芝蘭も身を横たえた。
「明日も早いぞ、もう寝なさい」
はい、目を閉じる、と。自身の手で幽蘭の目元を覆った。
予期せぬ事態に驚く幽蘭をよそに、芝蘭はすぐさま眠りに着いた。目元を覆っていた芝蘭の手がずり落ち、規則正しい寝息が聞こえ始めて、幽蘭はほうっと息をついた。
屋根を打つ雨音は、なおも続いている。
ごく近くに、兄の気配を感じる。他人の気配があると、気になって落ち着かない自分が。こうも落ち着いて――安心している――のは、血が繋がっているからこそであろうか。
“安心”。
これまでの幽蘭の人生には、無縁の言葉だ。
安心感、というのは、こういうものをいうのだろうか。
兄上、口の中だけでその言葉を繰り返した。
自分に、そう呼ぶ事の許される人がいたなど。
呼んでくれ、と言われたのに。緊張で口が動かなかった。
もしも、自分がそう呼んだら。
また、笑ってくれるだろうか。
喜んでくれるだろうか。
さっきのように。
明日は、兄上、と呼んでみよう。また緊張して、うまく言えないかもしれないけれど。
思いながら、幽蘭は目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます