(四)
「冷兄上!! 芝蘭様!! お帰りなさい!!」
飄州の邸に帰ると、使いの者から聴いて待ち構えていたのだろう。婀禮が、飛び出さんばかりの勢いで芝蘭達を出迎えた。
「兄上、芝蘭様、こっちです、こっち!! ――ん? こちらは?」
「芝蘭の妹だ」
「妹!! ――なんと可愛らしい!! ああ、泥だらけだな!! 淑女たるもの、常に身ぎれいにしておかねば。さあ、ついて来られよ!! さあさあ!!」
「……あ、えっ? わ、私は」
幽蘭が何か言いかけるものの、婀禮には聞こえていないのか聞いていないのか、ぐいぐい幽蘭を引っ張ってどこかへ行ってしまった。
程なくして、再び婀禮に引っ張られて戻ってきたときには、幽蘭は婀禮が昔着ていた衣を着せられていた。
「芝蘭様、如何? 可愛らしゅうございましょう?」
にこにこと満足げにいう婀禮の横で、幽蘭は所在なさげに小さくなっている。
元々が華やかで整った顔立ちの幽蘭には、色鮮やかなその衣がよく似合っていた。髪が短いのが気になったのか、紗を被せられている。
「さあさ、お茶を用意させました故、飲んで疲れをお癒しなさいますよう。甘味もありますよ」
人懐っこい婀禮は、年の近い幽蘭が居るのが嬉しいのだろう。次々と甘味を幽蘭の前に置いた。
幽蘭は、色とりどりの甘味や馥郁とした香りを漂わせるお茶を前に、どうしたらよいか分からない様子で目を彷徨わせた。
「ただのお茶だ、普通に飲めば良いだけだよ」
芝蘭が言うと、幽蘭はおそるおそる茶器をとり、口に運んだ。
ごくり、飲み込む。甘い、花の香りが満ちる。熱すぎず温すぎない温かさに、ほうと息を吐く。
瞬間、涙が頬を伝った。
「――!」
自分で自分の涙に驚いたのか、幽蘭が目を見開く。
婀禮が自分の懐から錦の手巾を取り出し、涙を拭った。
「口に合わなかっただろうか? それとも何か悲しいことがおありか?」
不安な表情で顔をのぞき込んできた婀禮に、幽蘭は首を横に振ってうつむいた。その背を、芝蘭が撫でる。
「ありがとう、婀妹。温かいものを飲んで、緊張の糸が切れただけだよ」
「そうですか……」
ほっとしたのが半分、しかし矢張り心配半分といった様子で、婀禮は芝蘭と幽蘭を交互に見た。
芝蘭が幽蘭を連れて戻った事を知った寒山は、駆けつけるや「よくご無事で」「力及ばず、申し訳ございません」と、繰り返し、泣きに泣いた。それは実の子である冷伯も驚く程だ。普段厳めしい寒山の感涙は、その場に集まった者達の涙も誘ったようで、皆が涙を流し、場にはしんみりした空気が流れた。そんな中、感情的に置き去りにされた感のある冷伯はばつの悪そうな表情で立っていたし、芝蘭も、寒山の泣きっぷりに苦笑するばかりだった。が、その全身からは、隠しきれない程の喜びが溢れていた。
その夜、芝蘭と幽蘭の再会を祝して、宴が催された。
主役の芝蘭や幽蘭は勿論、寒山や冷伯など、一族の主だった者や婀禮、普段は宴には参加しない冷伯の弟、冷光も、この日は席を並べていた。
幽蘭より一つ年下の冷光は、口数少なに琴を奏し、その楽に合わせ、婀禮が楽しげに剣を手に舞を舞い、人々から歓声が上がっていた。
芝蘭や寒山、冷伯や碧山といった大人達に囲まれ、幽蘭は終始困ったような様子だ。芝蘭がその隣に陣取り、笑顔であれを食べろ、これもうまいぞ、と細々と世話を焼いていた。その世話の焼きようは、傍の冷伯も呆れるほどだった。
酒の入った寒山はますます男泣きに泣き、傍に座った弟の碧山に「おいおい、兄貴、しっかり」と散々からかわれていた。
「寒山殿」
思わず苦笑した芝蘭は、不意にきりりと表情を引き締めた。
「――ですが、これでもう、心配は無くなりました」
芝蘭の言葉に、冷伯や碧山、酔っていたはずの寒山までがはっと表情を改めた。
「――此度、冷伯と都の様子を見てきました。人心はすっかり皇から遠のき、民は息すらも詰めて朝廷の横暴に堪え忍んでいるばかり。明日は我が身、と戦々恐々として心の安まる時はありません。――冷伯、」
芝蘭に呼ばれ、冷伯が応える。
「各地の仲間に遣いを」
「いよいよか」
拳を打ち合わせ、冷伯は鋭く笑った。
「寒山殿、碧山殿にも是非ご協力を願いたい。――脩軌を、討つ」
「どうぞご命令を。それぞ我らが積年の願い」
間髪入れず、寒山が応じる。碧山も、任せろ、という風に頷いた。
「直ちに準備を。整い次第、討って出る」
言い放つ芝蘭のきりりとした横顔を、幽蘭は静かに、だがどこか、食い入るように見つめていた。
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