(四)
――あの女のせいだ。
己が彼らの力を見誤ったのだ、と、認めたくない宗純は内心毒づいた。
出陣の直前に、宗純の前に現れた明珠の、あの、ぞっとするほど凄艶な微笑みが脳裏を過ぎる。その朱唇の紅に。
まるで、巨大な蜘蛛の巣に絡め取られたような――
神の託宣を下す巫師の如き清麗な眼差しで、あの女は毒を吐く。
“――宗純……”
あの女の目的は、何だ。
皇の寵愛を一身に受けるあの女の、狙いは。
まさか――唐突に襲う悪寒に、宗純は僅かに身震えた。
毒を注ぎ込まれたのは、他でもない、宗純自身だったか。
悪い考えを振り払うように首を振り、宗純は前方を見据える。
数を揃え、よく訓練された兵達を連れてきた。それでもここまで追い込まれたのは、孟景元の存在があったからだ。
先皇の下では、あまり大規模な戦はなかった。その上、彼はもう、十年以上も前に引退している。故に元将軍としての景元の力は然程目立つものではなかった。だが――景元自身の武芸も然る事乍ら、忽ち兵の統率を崩した、あの見事な采配。
にらみ合う間も、次々兵は地に伏して行く。もう、己とその周りに残った者達しか居ない。
不意にその時、景元がぐらりと倒れた。
「掌門!?」
要の景元が倒れたことで、動揺した玉爕派は、陣を崩してしまった。
「まずい」
「今だ!! 討て!!」
すかさず宗純が命を下す。今しかない、と兵達も凄まじい気を発して、一気に突撃した。
「冷伯!!」
芝蘭に続いて、冷伯も敵に向かって動いた。
宗純を討てば、脩軌にとって多大な痛手となる。逃がす訳にはいかない。
未だ疲れの気配もなく突き進む二人は、激しい勢いで斬り込んでくる官兵達を造作なく斬り捨て、走る。急接近してくる二人の若者に気付いた宗純は、守りを厚くしようと兵を呼ぶ。
が、それよりも疾く、勢いそのままに突っ込んだ二人は、忽ち囲みを突破して宗純に迫った。
「馮宗純!! 覚悟!!」
芝蘭が裂帛の気合いを発して宗純に斬りかかる。一方、冷伯は、芝蘭の横に回り、剣を振るった。
きぃん、音が響いて地面に銀の針が叩きつけられる。
暗器だった。
おそらく、景元も、これにやられたのだろう。
殺気立った眼で、暗器の飛んできた方へと視線をやると、子どもが一人、立っていた。
「お前――」
その眼の色に気付いて、冷伯は柳眉を寄せた。子どもの目は、闇でも炯とした光を放つ、真紅。――芝蘭と同じ、皇族であることを示す瞳。
だが、その光の強さとは裏腹に、ぞっとする程の無機質さを感じさせる目は、実際の色彩よりもその目を暗く見せていた。
「餓鬼が持つにしちゃあ、物騒な
鋭い冷伯の眼力も意に介さず、その子どもはまた、暗器を放つ。
狙いも正確に、芝蘭に向かう。冷伯は軽功を駆使して一気に距離を詰めると、目を怒らせて、剣を振り上げた。
「おいたが過ぎんぜ!!」
そのまま、冷伯の剣がその子どもの頭から両断してしまうかに思われた。それだけの迫力と殺気が溢れていた。
子ども相手にまさか、と周囲が当惑の声を漏らす。
が、刃は、その子どもに触れるぎりぎりで止まった。
「――……お前」
子どもは、目をそらすでも懼れるでもなく、ただ淡々と冷伯を見上げていた。
ぽっかりと、穴の開いたような――。冷伯の目には未だ怒りが浮かんでいた。
だが、その怒りは、先程のそれとは別のものだ。
「餓鬼が……なんて目をしやがる」
柳眉を寄せ、唇を噛みしめた冷伯は、小さく舌打ちをした。
それは、何に対する怒りだったか。
動きを止めた冷伯に、別の位置から暗器が浴びせられた。
突き刺さった針が、腕の動きを奪う。危うく剣を取り落としそうになる。そこへ、四方から槍が突き出された。跳躍してそれを避けた冷伯は、芝蘭の隣に着地する。回った毒に視界がぐらりと歪む。ふらつく脚に力を込め、なんとか踏みとどまる。
「冷伯、」
力を込め、そうと悟られないように剣を構えた。
「――どうってことねえよ」
「……そうかよ」
背中合わせに立った芝蘭が苦笑しながら言う。冷伯の強がりを見越した口調に、つい憮然とした表情になってしまう。……芝蘭のくせに。
双方の統率が崩れた場は、武林の群雄と、官兵とが入り乱れ争う混戦状態になっていた。
芝蘭は再び、暗器を巧みに扱う謎の子どもと相対した。
自分の正体を知ってか知らずか、子どもは執拗に芝蘭を狙ったからだ。が、それは芝蘭も望むところだった。
芝蘭は気になっていた。その子どもの正体が。
そして、薄々と、察してはいた。
だが、まさか、と。
認めたくはない気持ちがあった。それを確認しなければ、気が収まらない。
子どもが扱う武芸は、見たことのないものだ。しかしやはり、その動きは見事だ。軽功の巧みさは、天下無双と自他共に認める破山派のそれにも引けを取るまい。
各地を旅し、様々な流派の武芸を見てきたが、まだこのようなものが埋もれていたのか、と天下の広さを感じる。前回、接近戦で芝蘭に押し負けたことの反省か、相手は近づくことなく、飛鏢で応戦していた。おかげで、芝蘭は芝蘭で近づきかねた。鋭く頬を風が撫ぜる。飛鏢がかすったのだ。
流れる血に、自然、笑みがこぼれる。血が。沸騰する様に熱い。
戦いの中にあって、己の力を揮い合うことを楽しむ気持ちが、少しもないと言えば、嘘だ。それが年端のいかぬ子どもとて、その腕は大人顔負けだ。手を合わせるほどに、どう攻めれば良いか、めまぐるしく考えているのだろう。
段々と、芝蘭もひやりとする攻撃を仕掛けてくるようになってきた。
どう出るか見極めようと眼を懲らすほど、時折くらりとして芝蘭の動きが鈍る。相手の技なのか、或いは何らかの術なのか。
そこへ、すかさず暗器が飛ぶ。刀で打ち落としながら、翻弄されている自分を自覚しない訳にはいかなかった。
「卑怯者!!」
背後から弓で芝蘭を狙った兵士が別の者に斬られた。放たれた矢は狙いを外し、その子どもに突き刺さった。
「!!」
芝蘭は眼を見開いた。
が、子どもは矢張り、表情を変えない。変わらないまま、脚がふらついて均衡を崩す。
背後は――九水だ。
九水の「九」とは、屈曲して尽きるの意。
轟音を立てて蛇行する水流。
子どもが落ちれば、たちまち脚を取られて溺れるか、流されて岩に激しく打ち付けられるか――いずれにせよ、命はない。
芝蘭は咄嗟に飛び出し、その子どもの手を掴んだ。
足場が悪く、そのまま、子どももろとも、落ちる――。
「芝蘭っ!!」
盛大な水飛沫が上がる。
血相を変えて駆け寄った冷伯が水面をのぞき込んだときには既に、水面は何事もなかったかのように流れるばかりだった。
「芝蘭っ!! ――あの莫迦がっ」
冷伯の左拳が、地面を打って、砕いた。
蒼の瞳が、危険な程にぎらつく。
毒の影響で、その顔色は最早蒼白に近い。殺気をまき散らしつつ、ふらり立ち上がった冷伯は、視線を周囲に巡らせる。
その様は、敵味方の別なく、思わず息をのまずには居られない迫力がある。
「その忌々しい、蒼の瞳――飄家の者か……」
宗純が言った。が、冷伯は宗純を一瞥したきり、すぐ眼をそらした。もはや興味は無い。今は、芝蘭を探すのが先決だ。
「――行くぞ」
その一言で、鏢局の者達は冷伯に従う。ふらつきながらも見事な軽功で下流を目指し、走り去った。
残った者達は、戦える者は未だ殺気だった様子で宗純を睨みやる。が、それも限界に近い。頭を巡らせて、自軍の様子をみる。こちらも同じような状況だった。
これ以上戦っても無駄、悟った宗純は、無表情で命じた。
「――退け」
* * *
暗闇の中、炎が揺らめく。
炎に映し出される静謐な横顔は、どこか遠くを見ているようだ。
それはまさに、神に祈りを捧げる巫師の如き、真摯な眼差しだった。
「――明珠様。そろそろ」
旁らに控えた女人に促され、明珠は顔を上げた。
「ええ、そうね……」
すっと立ち上がる。
“……あの女、何が目的だ”
出がけの宗純の言葉を思いだし、明珠は、笑った。
が、開かれた蒼の瞳には、凍えるような冷たさと厳しさが滲む。
「――わたくしの
燭台を持って先導する女官について、跫音もなく、明珠はその場を去った。
後にはただ、闇ばかりが残った。
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