(三)

 また、時が経った。


 冷伯は急に夢から覚めたような気がした。

 頭は冴え、目ははっきりと開け、手足は思うままに動いた。

 

 冷伯は、剣を抜いた。

 そして、何を思ったか、飛び上がった。剣を壁に当て、何かを書き付けるようであった。次々に刻まれていく文字や図は、洞窟の壁の上部にまで及び、瞬く間に天井いっぱいになった。

  

 着地した冷伯は、満足げな様子で、笑った。


 例の口の端を引き上げるだけの笑みを。――久しく忘れていた。

 頭を返して、岩に、冷伯はまた剣で文字を刻みつけ始めた。刻むほどに息は絶え絶えになり、剣をもつ手は震えた。


 さいごの数文字、というところで、冷伯はぴたりと手を止めた。

 剣を地面に突き刺すと、その場に崩れ落ちた。


 それきり冷伯は、もう動かなかった。

 



 



――そして、春秋ときは過ぎる。



  * * * 

 


 飛鳥の羽ばたきが、天空を駆けていく。

 青年は、顔を上げた。

 下ろしたままの髪が、肩にさらりと落ちかかり、銀の光をはじく。と、いささか慌てた風に、筆を筆床において立ち上がり、寝台に横になった。


「生きてるかぁ、冷光」


 声が響いて、戸の開く音がする。彼の予想した通り、もう何千回と聞き飽きた男の声だ。


「冷光?」 


 寝具にくるまった彼は、返事をしなかった。部屋の中を歩き回る気配。そして。


「れ~い~こ~う?」


 何かに気付いたらしい。声音に怒声が混じっている。思わず、びくり、と身じろいだのが、相手にも伝わったらしい。


「ああ、明臣。来てくれたのですね」


 観念して彼は起き上がった。帳を開けると、その人は、腕を組んでじろりと彼を睨んだ。珱国東方に住まう飄族の伝統的な衣裳に身を包む、珱人にしては短くした銀の髪。いくら周囲が長くするよう言っても、なんのこだわりがあってなのか、一向に長くする気配のない頑固者。釣り目がちな翡翠色の目も、気難しげな印象に拍車を掛ける。

 楊明臣。彼の、無二の親友だった。そして、身体の弱い彼の主治医でもあった。


「いい年こいた大人が、なぁに狸寝入り決め込んでんだ!」


 顔を見るや否や、そう罵る明臣の口吻に、意に介する様子もなく、彼は、穏やかに微笑んだ。白と紺碧を基調とした上質な衣に身を包む彼の名は、飄冷光、といった。


「最近ますます……兄上に話し方が似てきましたね、明臣」

「本当か!?」


 一瞬、明臣はうれしげに顔面を輝かせた。が、すぐに、はっとばつが悪そうに眉を寄せ、冷光をにらんだ。


「ごまかさず、正直に言え。――昨晩から今朝にかけて、いつからいつまで寝た?」

「そうですねえ……」


 困ったように微笑む冷光は、続く言葉が出ない。


「……いつでしょう?」

「――てめえ、自分の体わかってんのか!? この貧弱もやし野郎が!!」


 明臣の毒舌にも、冷光は怒らず、少し困ったような笑顔を浮かべるばかりだった。身体が弱いくせに、冷光は一度何かを始めると没頭する人間で、何日も眠らないこともある。有るときは、新しく見つかった書物の整理に。あるときは、詩の字句を練って。またあるときは、心に適う琴の奏法を求めて。またあるときには、弓射に明け暮れて。この、いかにも文弱で繊細そうな身体の何処に、という程の全身全霊でもって、それに打ち込むのである。そして、体力の限界を迎えた瞬間、急にばったり倒れるのであった。はた迷惑な男である。


 困った性格だったが、普段の温良な彼の中に、確かにあるその激しい気性は、間違いなく彼が飄家の人間だということを明臣に感じさせた。それを知って居るからこそ、明臣は、数日とあけず、この瑩山にある冷光の住まい、九霞山荘に通うのだった。加えて、随意に外に出られない冷光の代わりに、薬と一緒に外の情報を集め、また彼の興味を引きそうな書物や書などを持ってくるのが、明臣の長年の習慣だった。

 故に冷光はいつも、明臣の訪れを楽しみにしていた。


 ただし、顔を合わせるや否や、不摂生のお小言を言われる以外は、であるが。


「進んでるのか?」


 明臣の問いに、冷光は首を振った。


「何分、当家に遺された資料だけではなんとも。姉上は兎も角、兄上は特に、殆ど飄州に居りませんでしたからね……」


 言う冷光は、どこか遠くを見つめるような目をしていた。そんな彼の横顔を、明臣は何か言いたげな目で見下ろし。ややあって、口を開いた。


「……そうかよ。――なら、行ってみるか?」

「行ってみる、とは?」

「お前が行きたいところだ。あるんだろう色々。だから、俺がお前の足になってやるってんだよ」

「――え。良いんですか!?」

「最近は、漸く治安も大分落ち着いてきたからな。ただし、俺の言うことを聞いて無理はしないのが条け」「わかりました!!」


 明臣が言い切るよりも勢いよく、食い気味に冷光は頷いた。白い頬が、うっすらと赤みを帯びている。


「――いつ出発します? ああ、何を準備したら良いのか。本宅にも報せなくては!! でも……小璿は許してくれるでしょうか……?」


 今にも踊り出しそうなほどの上機嫌だった冷光だが、ふと本宅を任せている妻に思いを致して、気遣わしげに眉を下げた。


「寧ろ、霄璿殿に頼まれたんだよ――自分達に遠慮ばっかりしてて苛々するからとっとと連れてってくれ、ってな」

「……そうですか……小璿にも、あなたにも、助けられてばかり、ですね……」

「何言ってんだ。お前は、その筆一本で、もっと大勢の人間を助けられるんだ。胸張れよ――筆は剣よりも強し、だ」


 冗談交じりに明臣が言うと、ほんの少し恥ずかしげに冷光はほほえんだ。







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