33.会いたかった……、スカイライン
え、琴子の……?
やっと状況を理解した雅彦のつぶやきに、琴子は大きく頷く。でも『いま愛している人』と堂々と言ってしまったので、隣にいる薄汚れた兄貴の方が茫然としていた。
久しぶりに会えたのに。そんな兄貴に、琴子は真顔で返す。
「英児さん。悪いけど、いま私、この彼と話しているところなの。私と彼の問題なの。二人きりにしてくれる」
言われた英児は『納得できねえ』と言わんばかりに、むくれた顔になった。だが本人も思うところ当然あるだろう。なにせ自分も『別れた女との後始末を二人だけでしている』ところなのだから。琴子の場合でも同じ。別れた男との話し合いは、琴子の問題だった。
「わかった」
とりあえず、承知してくれた英児が席を立つ。でも移動した席がすぐ隣の席。椅子を一個分移っただけ。琴子は苦笑いをこぼす。
「英児さん。そこじゃなくて」
『ばれた』みたいな子供っぽい顔をして、渋々といった感じで、なんとかテーブルをひとつ超えた向こうの席に移ってくれた。それでも近い。でももういいかと琴子は諦める。
英児の視線を感じつつも、琴子は改めて雅彦に向き合う。
英児が突き返した指輪のケースを見つめ、琴子は雅彦に告げる。
「分かっていたの。今日、どうして雅彦君が私に連絡をしてきたのか。そろそろ仕事が本当に行き詰まって、私をツテに長くお世話になった三好社長に会わせて欲しいと頼んでくるんじゃないかって。きっとそうだろうと思って、だから会ったんだけど」
「だから、違うって言っているだろ」
語気を強めた雅彦だったが、だからこそ『図星』だったのだと琴子は俯く。付き合っていた彼氏のその心根が残念で仕方がなかった。
「そんな高価な指輪なんて持ってこなくても、正直に『仲介してほしい』と言ってくれたら良かったのに」
そうしたら、琴子がいるせいで契約を辞退してしまったのだから、ジュニア社長に繋ぐぐらい手伝おうと思ったのに。たとえ雅彦の弱い心根が招いた結果だったとしても、元恋人として関わっていた琴子にはそこが多少の心残りだった。だから別れても琴子しかいないと頼ってきてくれたのなら、これが最後、社長に繋いであげようと思って会った――。なのにそこまで頭を下げたくなかった雅彦が思いついたのが、琴子を『結婚』で良い気分にさせて思い通りの方向へ運ぼうとしたくだらない作戦。本当に琴子と結婚する心積もりも本物だろうが、そんなキッカケで復縁されても全然嬉しくない。そんな女心を踏みにじるのも許せなかった。
今度こそ。琴子もきっぱり切り捨てよう。
「決めて、雅彦君。私は貴方とは結婚しない。それでも三好社長に会いたいなら、社長に言っておく。もしまた契約が成立しても私も以前通り三好社長のアシスタントとしてあの事務所にいる。それが我慢できる? それとも我慢できない? 決めて。私は結婚しない。事務所も辞めない。この状態で、紹介する、しない。どっち!」
らしくなく――。琴子はテーブルをバンと叩いた。びくっとのけぞる雅彦。コップの水面も揺れた。
そんな雅彦がふと、向こうのテーブルへ移動した英児を見た。煙草を吸って背を向けているが、きっと聞き耳を立てていることだろう。
「変わったな、お前」
あの男と付き合ったからだろうな――。元ヤンの名残を見せるふてぶてしい座り方、大股で開いてる片足を片膝に乗せて、少し猫背で煙草を吸っている後ろ姿。そんな男の女になった琴子。大人しくて従順で文句も言わず良い子だった琴子じゃないとでも言いたそうだった。
それだけ言うと、雅彦は指輪のケースを閉じ立ち上がる。何も言わずに背を向け去っていこうとしていた。……別れた時と一緒。肝心の最後を締めくくる言葉は言わず、うやむやにして無言で切り捨てる。
「それでいいの。格好いいプライドを持つのは、格好悪いことを経験した後に得られるものだと思うの。私もそうだったから。その気になったらいつでも言って。社長に話すから」
雅彦が立ち止まる。だが一時だった。まだ自分を変えるにはいま暫し時間がいることだろう。カフェの外へと出て行った彼は、どしゃぶりの雨の中、ミニクーパーへと走っていった。
「なんだ。そういうことだったのか」
雅彦を見納める琴子がいるテーブル、そこにもう英児が来て立っていた。
「やっぱ、許さねえ。琴子をいいように利用しようとしていただなんて」
そういってくれる人が、一人でもいれば……充分。琴子はそっと微笑んで彼に言う。
「終わりました。どうぞ、そちらへ」
雅彦が座っていた席、正面へと促した。なのに英児は先ほどと同じ、琴子の隣にどっかりと座り込んだ。
直ぐ隣に、熱い肌の温度。とても久しぶりで琴子は泣きそうになるが堪えた。
「すごく会いたかった。おまえがいなくて寒かったんだからな」
泣きそうな目を琴子は見開いた。またとっても驚く。身体がひとつになった時も『溶けるみたい』と二人一緒に感じたように。琴子も寒かった。離れて直ぐの日、そう思っていたのに、彼もまた同じように『寒かった』と言ってくれているから……。それほど、互いの体温を密着させて感じていた証拠。
そんなことも言えず、ただ涙を堪えていると、やっと英児の長い腕が琴子の肩を抱き寄せた。
「ここ出よう。車の中で話そう」
それが私達らしい、きっと……。だから琴子もすぐに頷き、揃ってカフェを出た。
カフェのドアを出たはいいが、まだ雷鳴が轟くどしゃぶりのままだった。
「待ってな。車、ここまで持ってくるから」
決断素早い英児らしく、琴子が『あ、私も……』と言う前に飛び出していってしまう。
アスファルトを叩きつける大粒の雨の飛沫が煙る中、英児が走っていく。やがて、あのエンジン音。琴子の胸がときめいた……。そっと目をつむる。あの勇ましい……。目を開けるとドルンと唸るエンジン、キュッと雨の中停車した真っ黒な車がそこにいた。
待っていた。この車が自分の前に迎えに来てくれることを。
運転席から英児が出てきて、雨に濡れながら助手席のドアを開けようとしてくれている。だけどドアが開く前、英児がそこに辿り着く前に琴子はどしゃ降りの中、スカイラインに向かって駆けていた。
ずぶ濡れの黒いボディはそれでも夜明かりにキラキラと勇ましく光り輝いていた。その車体に琴子は額をつけてすがった。
「スカイライン、会いたかった。乗りたかった……。貴方が運転するこの車に、とっても乗りたかった」
「琴子……」
彼の相棒、分身にすがる彼女を見たためか。英児が後ろから抱きすくめてくれる。
「悪かった。おまえに……すごく嫌な思いさせた」
そして英児が濡れる琴子の耳元ではっきりと言ってくれる。
「もう離さねえ。どんな状態でも、おまえを龍星轟に連れて帰る」
スカイラインにすがる琴子を、英児が力強く自分へと振り向かせる。雨が伝う頬に彼の薄汚れた指先が触れる。とても熱かった……。
「わかったな。なんも遠慮することなんてなかったんだ。俺がそうさせてやるべきだったんだ」
険しい目が琴子を貫いた。固い決意と強い意志の眼から、動揺や躊躇いが消えてる。でもそんな英児の表情が急に歪む。唇を噛みしめ、今度は彼が泣きそうな顔になる。
「琴子が優しい女だと知っていたはずなのに、必要以上に甘えてしまった。俺も、おまえを、離さなければ良かった……」
だから、戻ってきてくれよ。
正面から英児が抱きついてくる。彼の長い前髪から落ちてくる滴がぽたぽたと琴子の首筋を伝っていく。
どしゃぶりの雨が濡らしていく中、琴子は首を振って英児を抱き返す。彼の背中にしがみつくのではない、彼の大きな背中を足りない腕で思い切り抱きしめる気持ちで。
「私も嘘ついた。一人にしない、何があってもずっと貴方のそばにいるって約束したのに……!」
ごめんなさい。
もう離さない、私も離さない。彼の背中のシャツを鷲づかみにして抱きついた。
「濡れる。とりあえず、乗れよ」
もう濡れてしまって遅いけれど、英児が急いでドアを開けて助手席に琴子を座らせた。
運転席に戻った英児もすっかり濡れていた。ダッシュボードから出してくれたタオルを渡されるが、英児は直ぐにシートベルトを締めスカイラインを発進させた。
ワイパーがせわしく動くどしゃぶりの国道。そこを英児は黙って運転していた。
「濡れたな。自宅に一度寄るか」
琴子は首を振る。こんな姿を見たら、また母が心配するから。
「……俺のところ、……来るか……?」
躊躇った言い方。それが何故か判るから、また琴子は首を振る。
「だよな。あんなことがあった俺の家なんか」
少しばかりがっかりした英児の横顔を見ると、まだその気になれない琴子だって胸が痛む。
「千絵里さん……。まだ来ているんでしょう」
彼女が心の底から出て行かなければ、琴子は戻りたくない。それに二度とあの人に会いたくない。今日、彼女が詫びようとしていたけれど、顔を合わせた途端彼女の気が済むような『ごめんなさい』もいまは聞く気にもならない。
雷が追いかけてくるように響く中、運転する英児がため息をついた。まだ決着はついていないようで……。でも今日、彼女と琴子は密かに鉢合わせをしている。彼女はそれからどうしたのだろうか。そして英児はどうして雅彦と一緒にいるところに突然現れたのだろうか。
「それが千絵里のやつ、ここ四日ほど来ないんだよ」
「え!」
じゃあ、今日見た彼女は……? もう既に英児から離れていた……の? 琴子は絶句する。
「琴子が出て行って最初の三日は、もう互いを傷つけあうことしかできない言い合いばっかで。でも俺もこのままじゃあ、時間をくれた琴子のためにならないと思って千絵里に腹立つこといっぱいあるけどよ。それは、ひとまず横に置いて『だったら、これからどうするんだ』ということを考えてみたんだよ」
矢野さんが言っていた『ちょっと様子が変わってきた』という頃のことだろうか。濡れた前髪をかき上げながら運転をする英児は続ける。
「まず。千絵里に神戸に戻ったらどうかと提案してみたんだ。元のショップには帰れないかもしれないけどよ、キャリアがあるんだから他の会社でもいいじゃねえかって言ってみた。あいつの天職なんだから、こんな地方での仕事は、おまえも満足しないし性分に合わないだろと勧めてみた。それから、お母さんもこの街から連れ出して、向こうの病院や施設を使って看病したらどうかとも提案した。向こうにもいい病院あるし、こっちより有効に活用できる施設もあるからさ」
それから英児は、インターネットや電話問い合わせなどをして、とにかく施設や病院の資料を集め出したとのこと。
「もちろん。いまは余裕がない女だからさ。そんなこと出来るかって突き返されたんだけどな。というのも、親父さんが一人にさせられること、女房を連れ出すことを許さないだろうから。俺も向こうの親父さんの気難しさを知っているから、親父の前では萎縮してしまう千絵里が親父さんに逆らうことが難しいのもわかっているんだけどよ」
「そうだったの。千絵里さん、お父様には逆らえないの……」
「逆らえないとかじゃなくて、あの親父さんが誰の言うこともきかねえの。女房や娘の気持ちなんてこれっぽっちも考えてくれねえ親父なんだよ。親父の指示以外に提案をするなんて皆無に等しいんだよ」
ワンマン経営者だと矢野さんが言っていたことを、琴子は思い出す……。自分の思い通りにならないと気が済まない父親のようだった。
「俺と結婚を決めた時も、まあ、仕方がないって顔だったよ。何故、一人娘の結婚を許してくれたかと言えば、俺が経営者を目指す三男坊だったからみたいだな。後々、婿養子だとかなんとか考えていたんじゃねえかな。まあ、俺も同じだけど、千絵里も解消後はさんざん親父に『恥をかかされた』とかなんとかこっぴどく言われたみたいなんだよな。それで神戸に逃げたというのもあったのかもしれない……」
一時黙った英児が、ため息をつく。
「俺も悪かったと思っている。俺も婚約解消をした時は、親父にさんざん小言を言われて、余裕がなかったのもあるけど。男としてもぜんぜんなってなかった。俺もな、いまでも実家に帰ると年取った親父がつい昨日のことのように何度も何度も当時の文句を言うんだよ。兄ちゃんと義姉ちゃん達が慰めてはくれるんだけどよ。やっぱ耳痛いし古傷えぐられるんで、実家に帰るのはすげえ気構えがいるんだよな」
だから。矢野さんが帰省後の英児の様子見に来る――ということになっていたようだった。
「それで、千絵里さんはどうしてこなくなったの?」
「俺が集めた資料がいつのまにかなくなっていた」
「それって……」
英児が頷く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます