12.あの男、ここらで有名な経営者

 せっかく愛された身体だから、汗ばんだ素肌にそのままブラウスを着た。

 真夜中の帰り道も、月明かりで溢れていた。英児の銀色のフェアレディZが海辺の道を走る。

 運転席で煙草をくわえて、薄明るい国道を見据えている彼。

 黒くて太いステアリングを握っているその手を見つめては、琴子はその指でどれだけ愛されたかを思い返し、また胸を焦がしている。

 夜遅い田舎の国道は、それほど車も走っていなかった。時折、対向車に出会う。信号も点滅で素通り。すいすいと車が市街へ戻っていく。

「またしばらく残業で遅くなるんだよな」

「うん」

「なるべく迎えに行く。仕事終わったら連絡して」

「嬉しい。でも、英児さんは忙しくないの?」

 くわえ煙草の彼がにこりと微笑み『忙しくないよ』と運転席から琴子の頭を撫でた。

 その手が最後に、名残惜しそうに琴子の手を握ってしばらく離さない……。

 最後まで愛しあった熱い気持ちがいつまでも続いていて、彼はそうしていちいち琴子に触れてばかり……。運転で余所見が出来ない分、彼は琴子の手と手を置いている足を撫でて撫でて離さなかった。

 あの部屋からずっとこんな状態。

 愛し終えてぐったりした琴子の身体を、またひととおり愛してくれたり。一息ついている時も、琴子の髪をかきあげて顔を覗いてばかりいて。着替える時も、いちいち抱きついてきて『そのブラウス、かわいいな』とか『このサンダル、女らしいな』とか。もう嬉しいけど、琴子もこんなに熱烈に愛されるのは初めてで戸惑ってばかり。

 モーテルを出る時も、背中から抱きしめられて、長くキスをされてなかなか外に出られなくて。そのうえ、また肌を撫でまわされて、せっかく着たブラウスの胸元を再び乱されてしまったり。ちょっと抵抗しないと、また彼に裸にされそうになったぐらい。それをなんとか宥めて、やっと車に乗って帰路につくところだった。

 でも――。琴子の身体も熱くてしようがない。そのまま流されていいなら、あの古い部屋でも、彼ととことん睦みあって眠ってしまいたかった。

 きっと、あの部屋で彼と迎える入り江の朝は素敵だっただろうな。そう惜しんでいるほど。

 それにしつこいほど熱烈に抱きしめられても、これほど幸せなことって、そうそうないだろうと思った。

 ――いままでの私、なんだったのかな。

 身体は大人の経験をしてきたはずなのに。この夜の行為は、とてつもなく『女』だったと思う。なにせ、琴子は男と抱きあって初めてとろけてしまう快楽を得てしまったのだ。だけれどこの彼なら……。あそこまでリードされてしまっても当然かと思っている。彼の、女の恥じらいを上手に快楽に導く自然さが。そして女を狂わす巧さを感じずにはいられなかった。女の性を引き出され、そして琴子もその姿に変貌することを厭わなかった。そこまで我を忘れて睦みあった自分を思い返すと……今は恥じらいが生じる。だけれど後悔はない。

 胸を張って言える。私は思いっきり女になって、彼を愛し尽くしたって。今度はベッドで彼に褒めてもらえる。『くたくたになって力尽きた女は、やっぱスゲーそそられる』と――。だからなのか。ぐったりしている琴子の肌を身体を、彼はもう一度隈無く愛してくれた。

 そんな女としての至福。もし、この一夜が一夜限りでも。これから先ずっと、一度きりでも『女』として燃え尽きた夜を糧に生きていける。そう思える一夜に出会えたことは、女として幸せなことだと噛みしめていた。

 

「今度の土日の休み、うちの店に来てくれよ」

 琴子の手を離して、海沿いのカーブに沿ってハンドルを回す英児が急にそう言い出した。

「いいの? 社長さんになにも言われないの?」

「あははは!」

 彼が笑った。

「言わねーよ。そのかわりにさ。俺の上司だから『私、滝田の女です』て、かわいく挨拶してくれる?」

 妙に含んだような言い方に意味深な笑みを向けられる。なんだか試されている気がした。きちんとした彼女としてどのような挨拶をするのか……という探りなのだろうか? 恋人になりたてで浮かれた女の行き過ぎた挨拶なんてしたくない。絶対に。だから琴子は少しばかり冷めた目を彼に見せる。

「普通に挨拶します。それに……英児さんの整備している仕事場みてみたいし」

「一介の整備士ってだけだよ、俺なんか。ほんとに琴子は俺みたいな男でいいわけ?」

「なんで今になってそんなこと言うの。私、言ったよね。どんな貴方でも好きって」

 彼がふっと笑って、今度は黙ってしまった。

「ほんっと。俺、社長さんにも『琴子さんにべた惚れです宣言』しておくわ」

「え、なにそれ。社長さんにそんなこと言うの?」

 恥ずかしいからやめて――と言ったら、また彼が笑い出してしまった。

 それほど車が走っていない海岸沿いの道、その路肩に銀色の車が急に一時駐車する。

 どうしたのかと運転席の彼を見ると、もうそこに身を乗り出した彼の顔があった。大きな手がまた強引に琴子の頭をぐっと引き寄せる。

「琴子はかわいいな。しっかり者のくせに……」

 くせに……。なに? 問い返す唇を塞がれる。

 もう、いいわよ。今夜はもう。

 いつまでも終わらない口づけに、ついに琴子は首を振って抵抗してしまう。もちろん、許されるはずもなく……。

「俺もやっと前に進める。琴子のおかげな」

 ようやっと口元を解放されて、彼に抱きしめられたけれど。とても感慨深げに琴子を抱いた彼の声が、すこし哀しく響いたのは気のせいだったのだろうか。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 ほとんど朝帰りといってもいい。真夜中に帰ったというのに、やっとシャワーを浴びた後も興奮醒めやらぬのか、琴子は目が冴えてしまい眠れなかった。朝方になって少しだけ眠った。

 朝、母に『久しぶりに遅かったね』と聞かれたが、『そうなのよ。いつものこと』と素知らぬ顔でやり過ごし、母だけにぎこちない仕草で見抜かれないよう、さっと出勤。

 その時になって、急に眠気が襲ってきたが、なんとか堪える。これも、最高の愛夜を得たためだからと。

 そして琴子、気にしていた『その時』を迎え一人構えていた。

「琴子、ちょっといいか」

 デザイナーとのミーティングを終え、朝の業務が落ち着いた頃。社長デスクに座ったジュニア社長に手招きをされた。

 ついに報告せねばならぬ時が来てしまう。昨夜、ちゃんと事情を説明もせず、彼のお迎えに飛びつくようにして社長と別れたこと。

 でも。今なら説明できる。ちゃんと『お付き合いしています』と報告しても良いだろうと覚悟を決めていた。

 いつも、琴子を取り巻く不遇な状況を案じてくれたお兄さんのような社長。デスクに座って、あれこれ色校正の用紙を探っているジュニア社長の目の前へと来た琴子は、そんな報告をする気恥ずかしいむず痒さをなんとか抑えていた。

 『いつから彼と?』、そう聞かれたらまず母のことから説明したらよいだろうか? そんなことを頭の中で整理していた。

「なんだって。滝田社長にお母さんを助けてもらったのが縁だって?」

 琴子は耳を疑った――。報告しようとしたことをそのまま、まだ何も教えていないジュニア社長から言い出したから。いや、そうじゃなくて。もっと驚いているのは。

「滝田、社長……ですか?」

 もうすぐ発刊される地元の中古車雑誌の色校正。それを社長が何枚か引き出して眺めながら琴子に言った。

「うん、そう。社名は滝田モータース、店の名は『龍星轟(リュウセイゴウ)』。そこの経営者だろ」

 え! 琴子は目を見開いて言葉を失った。

「あの……。三好社長も、お父様の社長も、奥様の車も、整備をしたことがあると……彼が」

「あるよ。滝田モータースは確かな店だから一括整備してもらおうと、親父にも了解もらって俺が持ち込んだんだから」

 ちょっと待って。状況が見えない。琴子は眠気も手伝って頭をぼうっとさせる靄が思考を鈍らせようとしているのをなんとか振り払おうと、首を振った。

 だけれど。そんな琴子の動揺を、ジュニア社長には見抜かれてしまう。

「ふうん。タキタの社長、琴子には素性を説明していなかったわけか」

「あの、整備士だということだけ聞いているんですけど」

 呆れたため息をこぼしたジュニア社長が煙草をくわえた。

「彼らしいな。生粋の車好きだからな。社長とかいう肩書きはオマケだと思っているんだろう。それに琴子みたいな『女の子』じゃあ、滝田モータースの知名度なんてあっても興味なし無関係だろうしな」

 知名度? なんか急にすごい話になっているようで、琴子の胸がドキドキ緊張してきた。

「そんなにすごいお店なんですか」

 社長が誇らしげにニヤリと琴子を見た。

「女がブランドのバッグを崇拝するようにな、男にもあるんだよ、男のブランドってヤツが。車をカッコよくしたいなら『タキタに持っていけ』が車好きな男達の合い言葉っていえば、無関心な女の子にも分かり易いかねえ」

 そこで、ジュニア社長が先ほどから探っていた色校正の試し刷りの用紙を琴子へと差し出した。

 そこには見覚えある赤と黒を基調にしたロゴマーク。

「琴子も何度か目にしたことあるはずだ。俺の車のトランクに貼っているだろ。滝田君の昨夜のゼットにも貼ってあるはずだ。それに、毎月うちで受注回してもらっている中古車雑誌にもこのトレードマークひとつの広告を毎月だしているだろ。製版後の検版チェックの時、琴子も何度か目にしているはずだ」

 そんな、何百ページもチェックするのに、いちいち広告なんて記憶していない。でも、琴子はそのロゴマークを見てやっと思い出していた。

「これ。あの人がいつも着ている作業着のジャケットの袖に縫いつけてあったワッペンの……」

 雄々しい龍に星、レーサースーツなどに貼り付けてあるようなと思ったあのワッペンのロゴだった。

「このステッカーを貼って走るのが、このあたりの車好きのステイタスなんだよ。タキタでドレスアップした、タキタでチューニングしてもらった、タキタで整備してもらっている。ヤンキーからは絶大な支持を得ている元ヤン兄貴な走り屋で、車好きからは信頼されているカリスマ店長と言えば良いかね。かくいう俺も、それを聞いてタキタのステッカーを貼りたくて、いや……やっぱりあの男は本当に車好きだし、車を乗る男の気持ちを良く理解してくれるんだよ。依頼者の気持ちを汲んだ車に仕上げてくれる。俺もそれで家にある独身時代のセリカT200を俺好みにコーディネートしてもらって、定期整備してもらっている。その縁で我が家の車は全部タキタ任せなんだよ」

 頭真っ白……。しばらく琴子の全ての動きが停止した。

 そしてやっと我に返った時に浮かんだのは『嘘つき!』だった。とっても悔しかった。頭の中に浮かんできた彼の顔は昨夜ニヤリと笑った顔。『俺の上司だから、かわいく挨拶して』というあの顔。

 いやーん、騙された。試された、弄ばれた! 

 上司なんていないし、彼が社長さんじゃない!

 もう眠気が飛んでいったのか、力が抜けてはいらないのか、琴子はわからなくなった。

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