11.オマエの匂い、覚えたから

 遠くから光の道を描いて二人の姿を時々露わにしてしまう灯台。波の音、鮮烈な潮の香。漁村の道筋にある古いモーテル。

 この部屋に来て、英児が窓を開けてその後すぐ。なんの前置きもなく言葉もなく、互いに待ちきれなかったかのように唇を求め合い重ねた。

 

 シャワー浴びたいだろ。

 いらない。

 どうして。俺はいいけど。俺は汗をかいてる。平気なのか。

 それでいいの、それで。

 俺もだ。このままの琴子を抱きたい。

 私も、このまま、あなたを……。

  

 琴子はきつく目をつむり、口をつぐむ。

 ――私も、このままアナタを『貪りたい』。

 そう言いそうになった自分に驚いたから。

 まだほんの少し理性が残っていた。恥じる自分がいた。

 でも私、おかしい――? 琴子は英児と腕を絡めあい唇を奪いあいながらも、困惑している。男の人を『貪りたい』なんてこんなに思ったことなんてない。どちらかというと『優しく抱かれたい』じゃなかったの? なのに、はしたなくも『貪りたい』って、私、どうしちゃったの?

 だけれど。喉の奥がからからに渇いている気がした。何かの渇きを癒したくなるような衝動、やっぱりおかしい。

「どうした、琴子」

 キスに夢中になっていた英児の唇が離れる。

「……なんでもない」

 力無く呟くと、また琴子を胸の中に硬く抱きしめてくれる。

 ふと琴子も彼の目を探して見つめる。彼の瞳の中にまだ不安そうな色合いを見てしまう。なんでもきっぱり決められる人なのに。どうして。琴子にこんなに触れてくれるのに、こんな時だけ迷いを見せるの? 

 だから琴子からスカートを脱いで床に落とした。落ちたスカートの輪の中から歩み出て、英児にぴったりと抱きつく。

 彼の深い吐息が琴子の耳に落ちてくる。ホッとしたような、そして感激したような吐息だと思いたい。でもそれは信じても良いようで、彼がきつく琴子の頭を肩先に抱き寄せ頬ずりをしてくれた。

 灯台の光がふたりを映したり消したり……。そんな暗がりの狭い部屋で互いの肌を探る。

 英児は琴子のブラウスのボタンを外し、琴子は彼のティシャツをめくり上げて熱い肌を露わにし、男の肌に大胆なキスをしていた。

 ――あの夕立を思い出している。雨に透けた彼の肌。そして今日も汗と体臭と、メンズトワレの残り香。そして今日は、体温。彼の温度を『唇』という名の『触覚』が、新たに彼のモノとして琴子の五感に記憶する。

 記憶したいから、優しいキスなんかじゃない。それこそ、もう琴子は思い通りに欲するままに触れていたのだと思う。匂いだけじゃイヤ。体温を知っても物足りない。あなたをもっと知りたい。あなたの肌の味だって――。それでも初めてだから、まだ恥じらいが残っていて微かに舌先が触れただけ。

 それだけのことでも、彼の『嘘だろ』という小さなうめき。琴子がこんなことするはずない……と思ったのか、意外そうな眼差しで琴子を見下ろしている。『こんなこと、したらいけなかった』なんて尋ねようとは思わなかった。その代わり、向こうを本気にさせてしまったみたいで、彼にブラウスを荒っぽく左右に開かれてしまう。レエスのランジェリーが露わにされた姿で窓辺の壁に押さえつけられる。

 壁に長く逞しい腕をついて、暗がりの中、半裸の女を荒々しく囲う男。はだけたブラウスを羽織っているだけの、下着姿。下半身はショーツだけになって、素足丸出し。そんな逃げ場をなくした琴子を責めるように下から睨む男。そう『ガン飛ばす』っていうあの目。この種の男が本気で燃えた時に見せるものなのかと、琴子の胸の鼓動が早くなる。怖くなんかない。そうじゃない。その男の熱い本気がぶつかってくるかと思うと、もう胸が張り裂けそうだった。

「いいとこのお嬢さんがそんなことしたらいけないだろ」

「いいとこのお嬢さんなんかじゃないから」

 口答えをしたら、またそれが意外だったのか。彼があの怒り顔になる。でも……そんな顔、もう平気。

 そんな英児が「それなら構わないな」と言いながら、片手は壁について琴子を逃がさないよう威嚇したまま、もう片手でデニムパンツのボタンを外した。ジッパーも降ろすと、ちらりと黒い下着が見えた。女を睨んだままの男が、いきなり琴子の手を取る。そして――。今度は琴子が驚かされる。英児は琴子の細い手首を強引に引っ張り、開けたジッパーの中へと引き込んでしまったのだ。

 流石に琴子も『あっ』となる。彼のデニム、開けたジッパー、そこから覗いている男っぽい下着のそのもっと向こうに琴子の手を連れて行かれたのだから……。

「ぞくっとする」

 琴子の手を自分の一番燃えているところに連れ去った男が、勝ち誇った顔で壁に押しつけている女の耳に囁いた。

 でも、あんなに燃えさかった目をしていたのに。急に『ごめん』なんて呟いて、彼がまた優しいキスをしてくれる。琴子の手を捕まえたまま、急に泣きそうな顔になって琴子の耳元に囁く。

「琴子の柔らかくてか細い手、細い指。これが俺を触っているとおもっただけで、ゾクッとする」

 本当にそうなのか。彼が狂おしそうに震える息を吐いた。

「俺にとっては。琴子は良いとこのお嬢さんで『高嶺の花』なんだよ。わかんないだろな」

「わからない。私、普通に育ってきた……だけの……」

「その普通ってやつが俺には『いいとこのお嬢さん』なんだよ。こんなこと、男にやらされたことないだろ」

 ないわけじゃないけど。でもこんなあからさまに『触れ』と強要されたのは初めて――。

 でも琴子は答えず、そのまま指先で彼の肌をそっと優しく撫でる。

 彼の眉間が歪む。狂おしそうな吐息。

「琴子、おまえ……」

「あ……っ」

 襲われるような荒っぽい男の手、琴子はつい声を張り上げてしまった。

 俺を『その気にさせた』仕返しとばかりに彼の手も、琴子の女の芯をあっというまに暴いてしまう。

 琴子の身体の芯が既に熱くなってしまっている……、それを知られてしまう。

「……え、英・・」

 息が引いて声がかすれた。彼の名さえ呟けない。

 互いの熱をそうして窓辺で探り合っている。

「やっぱダメだろ……。琴子みたいな女の子が……。いや、やっぱ嬉しいわ、俺」

 それでも勢いだけで押し切らない彼が、そこでふっと眼差しを伏せて呟く。

「ずっと辛かったみたいだから。いきなりは……酷かと、思って……」

「も、もう……、辛くないよ……」

「それなら、もう、おもいっきりやってもいいだろ」

 な、琴子。

 掠れた彼の声、琴子はかすみそうな眼差しをなんとか彼に向ける。

 『いいわよ』って返事が出来ない。だって……琴子はもう、とけている。


 車と一緒。この人はすごく速く琴子を連れ去る。その男の匂いで、体温で、声で、瞬く間に――。

 

 

 ベッドのシーツの上、横にされたと思ったら、熱い彼の身体に上から包み込まれてしまう。

 壁に逃げないように琴子を囲って捕まえた悪ガキみたいに、琴子を逃がさないとばかりにドンと乗っかってきたりして。優しいのか意地悪なのかわからなくなる。覆い被さって熱い皮膚をぴったりと琴子にくっつけて、……ううん『お前とくっつくんだ』とこすりつけているみたいに。でも琴子を包み込む腕と、黒髪を撫でてくれる手はとても優しかった。

「琴子と一緒だ。柔らかい」

 そして『彼の愛し方』。ゆっくりじっくり優しく……。一気に強くするのは痛いだけだと、女の身体をよく知っているからできる加減だと思った。

 そのくせ、少し強くする強引な愛し方も忘れない。甘い痛みは、女を知り尽くした男じゃないと与えられない。

 何人も愛せば上手いという訳じゃないと琴子は感じている。たった一人でも、女の身体にとことん尽くしたことがある男だけが得る愛し方。果敢に、女の肌に挑んできた男の……。

 大人だもの。私よりずっと大人の。全然ない訳じゃない。でも……これって、すごく手慣れている。

 肌の愛し方、しつこいくらいの優しい愛撫。すぐに女の身体を貫かず、胸元の脇も、腕の裏も、身体を返して口づけをつなげてくれる背中への愛撫も彼は忘れない。キスをされたことがない場所までくまなく愛される。皮膚が薄くて感じてしまいそうな柔らかいところを彼はよく知っている。とても気持が良いので、琴子はいちいち震え熱い息を零しては泣きそうになる。

 英児の愛撫は女をそれだけで褒めている。ちゃんと肌を皮膚の柔らかみを『俺もおまえの綺麗な優しい肌を楽しんでいる』と、その唇と舌先と指先で『褒めてくれる』。言葉もなしに、愛撫で彼は琴子の肌に伝えてくる。

 ――誰かを一生懸命に愛していたのね。

 尽くしてくれる愛し方に溺れながらも、琴子はかすかにそう思った。

 でもそんなの当たり前で。そして今はこの人のなにもかもは『琴子のもの』。琴子が愛されて当然の。

 そう思うと、琴子も彼が愛おしい。

「英児……」

 見えないところで琴子を愛している彼を、手を伸ばして探した。

「なに。琴子」

 寝そべってただのばしただけの手、その先に彼が戻ってくる。琴子の手を取って、琴子の顔を見下ろしてくれる。

 されるまま横になっていた琴子は、そっと起きあがる。それを見て、彼も手を引っ張ってくれた。

 そして起きあがった琴子は彼の胸へと抱きついた。

「琴子……?」

「なにがあっても、私、きっとあなたが好き。好きよ」

 過去になにがあっても。誰を愛していても。そんなの今更――。

 でも今度は私を愛して。

 それが言えないなんて。

 でもそれが聞こえたかのように、彼が琴子の顔を柔らかに包み込み、優しくキスをしてくれる。

「来いよ」

 キスは優しいのに、リードは強引。裸の腰を抱き寄せられる。ぴたりと合わさる肌と肌、その間に……彼の、熱い男の熱。

 彼の息が荒くなる。琴子の背中を撫で、黒髪を狂おしそうに混ぜて、耳元に口づけを繰り返す。それを感じている琴子も彼の背中に抱きついた。

 互いの皮膚と皮膚の間に、むっとした熱気がこもるのが判る。その中に、琴子が放つ甘酸っぱい匂いと、そして英児の野性的な男の匂いが立ち上って混ざり合う。

「あ、英児の匂い……」

 彼の肩先に琴子は吸い付いた。願っていた通りに彼に貪りつく――。

「俺、おまえの匂い――覚えたから」

 耳の裏を嗅いでいる英児が、そう囁いた瞬間。また二人がいるシーツの上に、小さくて赤い灯台の灯りが忍び込んでくる。

 肌の熱も、吐息も、体臭もその匂いも。なにもかもが、海の灯りに暴かれる。

 そのなか、抱きあってとけあう。彼とくっついている皮膚がほんとうにとけてひとつになりそうな気持ちが、入り江の空で見下ろしている月に見られている錯覚に陥る。

 でも嘘偽りのない、私たちのほんとうの姿と、気持ちがそこに照らされている。

 そうして、彼とひとつになっていく……。この感覚。

 そっと目を開けて、抱きついている英児を見上げた。彼も琴子にくっついたまま、なにかを感じているようだった。琴子も、じんわりと感じている。きっと彼もそれを堪能しているところ。

「溶けていくみたい」

「琴子も、そう思うんだ」

「思う……」

 感覚が同じで、ちょっと二人で驚いて。息が乱れているのに、そっと微笑み合う。

 本当に熱く溶けあって、一枚の皮膚になってしまうような――。男の熱さは感じても、異物感のような違和感なんてひとつもない。

 不思議だった。こんな溶けあう感覚、記憶にない。

「俺さ……。堪え性ないんで、こいつがイイと思ったら……その、突っ走ってしまうんだ……」

 わかっている。ゆっくりとその耳元を愛されながら、琴子は彼の胸に頬を寄せ、密かに笑っていた。

 後先考えない初めてのキスだって、肩先に紅い痕を残したのだって……。ブラウスのボタンを開けたのも。本当に彼の勝手だった。

「でもさ。それって。もう惚れてんの」

「わ、わからなかった……」

 じゃあ。あの時、もう……彼は……私を……? 紫陽花の側のキス。あの時、彼ももう私を想ってくれていたの?

「琴子を、いつ勝手に俺ん中で、脱がしたと、思う」

 彼の息もあがっている。その問いに琴子は素肌で抱きあいながら『わからない』と首を振った。

「言いたくないな……」

 言い出しておいて、聞いておいて。なにそれ。

 でももう琴子は言い返せない。彼の肩先で、ゆるく首を振る。

「桜の夜。おまえの匂いを初めて嗅いだ後、すぐ。俺、車に乗ってすぐ、おまえを脱がしていたよ」

 思わぬ彼の言葉に、琴子はしがみついている彼の肩先で目を見開いた。

 『うそ』――。声にならない。

「馬鹿だよな。だからさ……ぼんやりしていて、泥を跳ねたんだよ……。頭真っ白だよ。イケルと思った女に泥かぶせるなんて。どんだけ俺、焦ったか知らないだろ。しかも逃げられてさ……。あの夜、眠れなかったんだからな……」

「うそ、ひとめ……なんてありえな……い」

 あの自販機で互いを見た時にだなんて信じられない。自分はそんな一目惚れされる女じゃないとわかっている。

 だけど、彼が琴子の耳下の首筋にキスをしながら言った。

「一目惚れなんてもんじゃねーよ。匂いに決まってんだろっ」

 琴子の胸が一瞬で燃えた。

 高く突き抜けていく痺れみたいなもの。イクとかイカナイとかそんな身体的なことではなくて、足の先から心臓、そして脳までバシッと走り抜ける『感情の閃光』みたいなもの。

 琴子にはよくわかる。今まで一度も良いと思ったことがない男の体臭をあんなに『いい』と急に感じるだなんて――。それは、彼の野生を琴子の本能が欲しているとしか思えない。英児も同じ。琴子の雌の匂いを嗅ぎ取ってここにいると言われたら――。琴子はそれを信じてしまう。

 

 英児が懸命に囁く――。

 

 あるんだよ。その女の匂いってやつが。琴子の優しくて柔らかくて、清々しくって。必死で一生懸命で、健気。じゃないとあの匂い出せないからな。見なくてもおまえの姿がどんなか、どんなかわいい女かすぐにわかったよ。

 そんな匂いの女はすぐに脱がしたくなるんだよ。だってそうだろ。素肌にしないと身体から出てくる匂い嗅げないだろ。

 だから。琴子には悪いけど。もう会う度に、夜、おまえを勝手に脱がして裸にして、愛しまくっていたよ。

 

「だから俺、今、すっげー興奮している。琴子の匂い、今日の匂いは特にすごい」

「う、うん……、私もおなじ……」

 

 熱くかすむ目をなんとか開けて、琴子も英児を見つめて言う。

 

 わかる。私もあなたの匂いにすごく惹かれる。その匂いを嗅ぐと、まるで……動物みたいな気分になるの。

 私、男の人の身体の匂い。こんなに好きになったことない。初めてなの、初めて……。

 

 俺たち、もしかして。

 

 牡と雌、それで引き寄せられたもの同士? 匂いを嗅ぎあい分け合って、そして混ぜ合わしている今。匂いを認めた同志。

 

 きっと、そう。あなたじゃないともう駄目。

 俺もな。もう俺の匂いだからな。これ。

 

 いつしか男だけではなく、抱きついているだけの女も夢中に愛している。

 抱きあって、唇を貪って、でも肌と肌を離さない。くっつけて押しつけあって愛しあう。

 窓から潮騒。空には昇りきって小さくなった満月。潮が満ちる入り江。人が作った光の道しるべに見つからない限りは、暗がりでどこまでも愛しあう。

 ムードなんてない、それだけの為にあつらえられた古い部屋で。

 生き物って海から来たんだよね。

 満月の夜、動物的に欲しくなるってホントみたい。

 なんて原始的なんだろう。

 本来の姿で愛しあうって。なんて熱いんだろう。

 この匂いの男しかいないって……。

 二度とないと思う。

 

 そんな男の匂いに至福を感じて、惚れ込む。

 楚々とした女の品だって捨て去って、愛しあう。ううん、男を貪って愛す。この匂いの彼だけを必死に愛す。

 『女になる』て。そういうことなのかもしれない。

 琴子はそう思った。今夜、私は初めて『女』になれたんだと――。

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