32.結婚してくれ(元カレより)
ただいま休暇中の琴子。診察から帰宅、母と自宅に戻って夜を待つ。
夜遅く、本当に英児が寝てしまうような夜中に会いに行こうと思った。
たぶん、彼女も帰っているだろう……。いるかもしれないけど。
それに心配なことがひとつある。英児の携帯電話を破損させたほどの荒っぽさ。琴子の持ち物もなにかされているかもしれない。置きっぱなしにしてきた小物や服はどんなことをされても良いけれど、あの『ジャケット』になにかされていたらそれだけは絶対に許さない――と思った。
彼女もどうするのか。琴子と偶然会った後の夕方、また琴子の境遇を知った後。あの顔で、龍星轟でまた再会するのだろうか。
夕方、携帯電話が鳴る。着信音がびっくりするメロディで琴子は思わず電話主の表示を確かめてしまう。
一瞬、迷った。でも、思うところがあり琴子は電話に出てしまう。
「はい」
『俺、元気だった』
そっとため息をこぼす。今更、なんだというのだろう。でも琴子には、この彼が今になって連絡してきたのは何故か、なんとなく予感していた。
「なに。雅彦君」
年明けに別れたデザイナーの彼だった。
『いや、どうしているかなと思って』
電話だから、琴子はあからさまに顔をしかめた。
「うん、相変わらず。普通に過ごしているけど」
『会えないかな。会社の前で待っていたけど、昨日も今日も休んでいた?』
三年も付き合ったのに。この時期にまとめて休みを取って、貴方と一日中一緒に過ごしたり、ドライブに行ったり旅行したり、買い物したりしたじゃない。だから今年も休んでいると気がつかないの? 今更だけれど、改めてがっかりしてしまった。
まあ、確かに。そんな人だった。彼は女に付き合わされている――といった感じで、はしゃいでくれたのも最初の一年だけ。あとは面倒くさそうにして、とにかく家にいてデザインに没頭したいという人だった。それほど好きな仕事なのに、ぱっとしなくなった業績。気持ちの切り替えが上手くできない、不器用な人。三十を過ぎていた琴子は、それに気がつきながらも見てみないふりをした。互いにもう冷めていても。そう思って彼に必死にしがみついていたのは、たぶん……彼ではなくて琴子の方。だから千絵里さんのしがみついてしまった気持ちも解らないでもない。
そんな無愛想で不器用で世渡りが下手な彼がわざわざ連絡してきたのが何故か。元は付き合っていた彼女だからこそ、それが分かってしまった琴子は切り捨てることが出来なかった。
「夕食を済ませてからならいいわよ。夜、迎えに来て」
『わかった。あの煙草屋の前で待っている』
あの煙草屋。琴子の胸が切なく締め付けられる。そこは付き合っていた当時、この別れた彼との待ち合わせ場所だった。彼がそこで待っている間にピースを買っていたから、あの自販機で買おうとした。そうしたら、その時、黒い車の兄貴と出会った。そんな場所……。
空がすっかり暗くなり、琴子は出かける。雅彦と話し終えたら直ぐに龍星轟に向かう心積もりで家を出た。
煙草店へ向かう国道の歩道。午後から急に湿度が高くなったように感じる。夜になっても涼しく感じていた風が一転、湿っていた。
煙草店の前に、深緑色のミニクーパーが停まっている。
「ひさしぶり」
そこからご無沙汰だった男性が現れた。
最後に会ったのは、ジュニア社長に契約解除を申し出てきた時。あれ以来。あのとき、目も合わせられないほど冷たくすり抜けて去っていった男性が、今はかつての笑顔。
「元気そうだね」
元気じゃないわよ。なんにもわかっていない。
でも無理もないかと思いながら、琴子からさっさと助手席に乗った。彼が慌てて運転席に戻ってくる。
「そこのカフェでいいわよね」
「うん、よく行ったな。アイスコーヒーが美味いもんな」
少し走ったところに、老舗の珈琲店がある。二人でよく行った店だった。
「琴子、そこのミルフィーユが好きだったよな。今日も食べるんだろ」
もう、どうしてくれよう。そのミルフィーユは苺ミルフィーユで春限定。毎年三月になったら覚えておくよう気をつけて必ず出向き、その期間中に何度も食べに行く。そういうことだったのに。
――やっぱり、ただ付き合っていて上の空だったんだわ。私のこと、自分から見てくれていなかったんだ。と、痛感した。
その珈琲店に入り、良く座った奥の角席に落ち着く。向かい合って座る位置も変わっていなかった。
オーダーをして落ち着くと、彼が言った。
「あれ、ミルフィーユなかったなあ」
「あれ。春しかでないから」
「え、そうだったのか」
やっと気がついたのかバツが悪い顔。今日も白いシャツの襟を立て、さわやかなカジュアルトラッド。柔らかそうな茶色の髪にくるくると流行のパーマをかけて、デザイナーらしくファッションには敏感でソフトな印象でまとめている。お洒落で繊細で、その気になれば女性を喜ばせるお洒落なエスコートも出来る。だから琴子もすぐに好きになってしまった。でもそれは『マニュアル』だった。そして琴子も悪くは言えない。その『マニュアル』をしたかったのだから……。
でも今となっては物足りない。あまりにも、あの兄貴のなにもかもが強烈すぎたから。
窓辺の席、まだ薄い闇の空。だけれどまた山間から黒い雲が覆い被さろうとしていた。蒸し暑かったのは雨が降る前兆だったよう。そんな空を眺めていると、気まずそうに黙っていた雅彦がやっと口を開いた。
「お母さん、元気か」
「うん。だいぶ気持ちも落ち着いたみたいで、いまリハビリにも通い始めたの」
「良かったじゃないか。家から出ないといっていたから」
彼のとってもほっとした顔。でも琴子はそれすらも……。何故、母が前向きになったのか。雅彦君、わからないでしょうね。という苛立ち。
「だから安心して。なんとか母と二人で元通りにやっていけそうだから」
その途端だった。彼が原稿を持ち歩いているバッグのポケットから黒くて小さな箱を、意を決したように琴子の目の前に置いた。
しかもその蓋を開けた。ビロードの高級そうなその黒い箱、そこから貝の中から出てきた宝石のように、きらりと輝きを放つものが出現。
「おまえがいなくなって、俺、ぼろぼろなんだ。戻ってきてくれないか。やっぱり琴子じゃないと駄目なんだ。結婚しよう」
はい?
思っていた『用件』とは、激しくかけ離れていて予想が外れたので、琴子はあんぐりと口を開け言葉が出なくなった。
「おまえが苦しい時になにもしてやれなくて悪かった。俺もあの頃は仕事が上手くいかなくて……。これからは琴子と一緒にお母さんのことも協力していくから」
受け取ってくれ。
彼が目の前で頭を下げた。
え、別れてからそんなに私を恋しく思ってくれたの? やっと必要だって思い直してくれたの?
一瞬、そう思いかけた。だが琴子は『これからはお母さんのことも……』と雅彦が口走った時に目が覚める。これからじゃない、琴子がやってほしかったのは『あの時』!
でも、初めてだった。大粒のダイヤモンドの指輪。それが琴子のためにと光り輝き、目の前にある。それは幾度となく夢見てきた光景ではないか。だから思わず、その小さな箱を手に取ってしまう。雅彦がそれだけで、ほうっと胸を撫でおろし嬉しそうに笑った。しかもビロードの箱に触れた琴子の手を、すかさずぎゅっと正面から握りしめてきた。
「琴子、ほんとうにごめんな。なにもできなかったこと反省しているよ」
唖然としている琴子の目の前で、彼がおかしなことを言い出した。
「俺、仕事を頑張るから、琴子は仕事を辞めて俺のそばで手伝って欲しいんだ」
「え、仕事を辞める?」
なに勝手に言いだしているのだろう? そしてついに、この男は言った。
「あのさ。三好さんに会わせてくれないかな。琴子と結婚することも話したいし」
じわじわと底から沸き上がってくるこれは、なに?
そして『当たっていた』。やはり彼は彼、琴子がよく知っている彼だった。
握りしめられている手を、琴子はさっと離した。ダイヤのケースも手放した。
「なにそれ。つまり、もう一度、うちの仕事をしたいってことでしょ」
「違うよ。三好社長は琴子を大事にしているだろ。だから挨拶をしてから、琴子を引き取りたいんだよ」
「嘘。それを理由にしてもう一度、ジュニア社長に会いたいだけでしょ。出戻りに妻を使ったと思われるのが嫌だから、再契約がまとまったら仕事場では私は目障り、だから辞めさせようとしているんでしょっ」
「なにいっているんだよ。そんなことだけで、この指輪まで用意しない」
そうかもしれない。ただ離れて寂しく思ってくれたのも本当なのかもしれない。でもきっと仕事もそろそろ上手くいっていない頃だとは思っていた。ジュニア社長からも『やっぱりアイツ、向こうで切られそうだぜ』と聞かされていたから。関係ない、もう関係ない――と言い聞かせた。でも、彼がこの三好堂との契約を自ら切ったのは琴子がいたから。仕事で出逢った恋だったから、やはりそこは琴子も関係ないわけでもなかった。だから……、話だけでも聞こうと思って彼に会うことにしたのに。
でも、ひどい。三好社長と顔を合わせ辛いから、なんなく会える理由にアシスタントの琴子と復縁して、なんなく気兼ねなく近づけるために『結婚』を利用するだなんて。三十を超えた女の焦りとか寂しさとか、そんな弱さを上手くついている『思いつき』だと思った。
琴子はもう一度、手放したダイヤの指輪ケースを手に取った。また雅彦がほっとした顔。徐々に腹立たしくなってくる。
今じゃないのよ。母のことも、結婚も、いまじゃないの! もっとずっと前なの!!
「雅彦君」
ケースをどんとテーブルの上に置いて、琴子は彼を睨んだ。
「決めて。私と貴方は結婚……」
そう言いかけた時、琴子の隣に誰かがどっかりと座り込んだ。途端に煙草の匂い、そして汗くさい男の……。
「なんだよ、これ。ぜってえ、許さねえっ」
琴子が触っていたダイヤのケース、それを彼が手にして、雅彦の手前に突き返していた。
「え、英児……さん」
いつもの匂いが隣に。そして、いつもの薄汚れた紺色作業着姿で。それに指輪を返した手先も黒ずんでいる。あの指先。
「だれ……。え、どなたですか」
雅彦の、ぽかんとした顔も腹立たしい。すぐにピンとこないその鈍感さと、『琴子にはまだ男がいない』と信じ切っているその感覚が。
「私がいま、愛している人」
そう言ったら、やっと雅彦が電撃に打たれたようにびくっと背筋を伸ばした。
でもそれは。隣の、やっぱり突如として現れる兄貴も同じようだった。面前で、彼女が、離れていた彼女がきっぱりと『愛している』と言ったからだろうか。
夜空の向こうがピカピカと光り始め、琴子のそばにある窓ガラスに小さな雨粒がキラキラと流れ始めていた。
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