31.ここで、謝らないで
心なしか暑さが和らいで風が心地よい。蝉の鳴き声も変わった。この日、琴子は母と共にバスに乗っていた。
「ねえ、琴子。別にそんなに頑張らなくてもいいよ。やめちゃっていいんだからね」
「いや。絶対に嫌」
「英児君はなんて言っているのよ。お母さんは向いていないと思うのよ」
最近になって気がついた。母が娘のことで困ったことがあると『英児君はなんと言っているの』と、まるで琴子という小さな娘を預けている大人みたいに言うことがあると……。それだけ彼を信頼してくれているのだろうが、離れている今は彼のことを聞かれるとちょっと辛かった。
だけれど。もしかすると母も予感しているのかもしれない。あんなに毎日会っていたのに、二人が急に会わなくなった。何かがあったに違いない、それでも素知らぬふりをしてくれているような気もする。
母には『盆明けで仕事が忙しいみたい。私も今、やっていることあるし……』と伝えている。その母が『やめてもいいのに』と言っていることが、『今、やっていること』だった。
「英児さんには内緒でやっているの。ばらしたらお母さん、私、家を出て行くからね」
もちろん、大袈裟な釘刺しに過ぎない。そして母も娘が大袈裟に言っているだけと判って、『あーはいはい』と呆れた横目を流してくる。
バスは街の隅にある大学病院へと向かっている。今日は母の定期検診。それに毎回、付き合っている。
大学病院での診察は時間がかかる。予約していても待たされる。母の足も指先も慣れてきただけで、良くはならない。でも変わったことがある。
家に閉じこもって、何事も諦めがちだった母がリハビリを始めたことだった。そこでサークルを見つけて、同じような境遇の人たちと交流を持つようになった。以前通りの、なんでもやりたがり外に行ってしまう母に徐々に戻ってきている。
お母さんも独り立ち。あんたと英児君に心配かけさせたくないからね。
そう笑って始めたことだった。英児もそれを知っていて、とても喜んでくれたところだったのに……。
昼前に診察を終え、母と並んで院内を歩く。以前は母を支えながら歩いていたが、母が『もういい』と言うようになり、琴子は隣で付き添っているだけだった。
診察も会計も終わり、一階のロビーを歩いていると母が言った。
「お昼ご飯、ここの食堂で食べていこうか」
「いいね。こういってはなんだけど。あそこのオムライスが美味しかった」
この大学病院で父を看取った。この病院に母も入院した。そんな苦難の中、琴子がよく通った食堂。そんな大変な時だったけれど、だからこそ、そこの食事が美味しかった。
そのオムライスを食べて、一人奮い立たせていた苦い思い出があるのに。また食べたいだなんて……。
そんなしんみりしている娘を母が優しい笑みで見つめていた。
いつしか失ってしまったと思っていた、柔らかくて暖かい手が琴子の背を撫でている。
「ごめんね、琴子。辛い思い一人でいっぱいさせちゃったね。でもね。お父さんもお母さんも本当に助かったよ。だから、自分の好きなこと。これからいっぱいしなさい」
そんなつもりはなかったのに。やはり、今はとても自分が弱くなっていると琴子は実感した。涙がこぼれてしまった、それどころか止め処もなく溢れてくる。
「琴子……。あんた、やっぱり英児君と」
「大丈夫。ちゃんと会う約束してあるから」
「何があったの……」
いっぺんに感情が溢れ出した涙声では、何も言えず琴子は暫くはただ首を振った。
「……ほんと、だいじょうぶ。英児さん、なにも悪いことしていないから。むしろ、今の彼とっても大変で会えないの。私、彼のこと大好き。彼も、私を大事にしてくれるし……。たくさん、愛してくれたんだもの。だから私、愛してもらえたから頑張れるの……。そんな気持ちにさせてくれるほど、愛してくれたの」
「そうなの、それならいいけど」
逆になっている。いや、元に戻った。力を無くした母にはもう夫がいないから、娘の自分しか支えてやれないと、それを負担にも思った。でも……。娘が弱くなれば、今度は母が大きく受け止めてくれる。きっと、きっとその繰り返しが出来るのが『家族』。母が戻ってきてくれて、琴子は初めて知る。なにも無くしたわけでもなかったのだと。
それなら英児のことも一緒。家族になろうと決意したなら同じ。蛍を見せてくれたあの夜、彼はどん底にいる母と琴子を助けてくれた、あの底から連れ出してくれた。それなら、琴子だって。今度は琴子が英児を助けてあげなくちゃ。『家族』なら……。
母も、それ以上は深く事情を探ろうとはせず、ただそっと背中を撫でてくれる。あまりにも娘が泣き崩れてしまったので、娘を人の目から守ろうと気遣って中庭まで連れて行ってくれたほどだった。
「ここで座っていなさい。お茶でも買ってくるね」
ベンチに座ると、母が杖をついて中に戻ってしまった。琴子も『お母さん、一人で大丈夫』とはもう聞かなかった。
母も失ったものがたくさんあって、身体が元に戻らなくても――。もう気持ちは元に戻ることが出来たのだろう。琴子ももう面倒がかかる母ではなく、『私のお母さん』がそのまま戻ってきたと感じているから甘えた。
『泣きたい時に泣いておきな。今日の涙は今日のうちにな』。
そんなこと、言われたっけ。涙が止まって、琴子は思い出していた。何日分、溜め込んでいたのかな。今の涙。でもあの時と一緒、なんだかざああっと流れていった気分。
和らいだ日射し。青空は残暑の色合い、鰯雲。それを見上げていた。
『お母さん、大丈夫』
中庭、向かい側のベンチにも力無く座る母親を支えている娘さん。
やせ細った上品な奥様といった感じの母親に、琴子と同じ三十代か、でも大人っぽいお洒落なパンツスタイルの娘さん。
『疲れたでしょう。なにか冷たいもの買ってくるね』
『ごめんね、ちえり』
――ちえり?
はっとした時には、その娘さんがこちらに歩いてくるところ。あの日、市駅のデパートで見たそのままの女性が、格好と雰囲気は違うけど、颯爽と歩いてこちらにやってくる。
まさかとは思ったが、黒髪をおろし凛とした顔のその人を確かめ、琴子は茫然とした。
ついに、その女性と目が合う……。彼女も立ち止まった。そしてきっと琴子と同じ顔をしていると思う。驚きで動けなくなる顔。
「どうして」
彼女からつぶやいた。思わず琴子は顔を背けてしまう。正直、言葉など交わしたくなかった。
「琴子、ただいま」
座っているベンチの後ろからそんな声。杖をついた母が懸命に娘のところに向かってくるところだった。
また、彼女の表情が……。今度は青ざめた。
「貴女、お母様……」
自分だけじゃない。『自分より幸せそうな新しい彼女』もまた同じ。親が煩っている。それを知って何を思ってくれたのか。
そんな彼女がさらに聞いた。
「貴女が付き添っているの? お父様は……」
琴子は唇を噛みしめる。彼女の場合、生きていても非協力的な父親。では貴女の父親はどうしてくれているのか、あなたにはお父さんという支えがあるのでしょう? そう聞かれているのだと知る。そんな『お父さんが協力してくれるだけ、私の状況よりいいじゃない。あなたには英児の支えはいらない』とでも言いたそうなその質問が、まるで不幸比べのようで、不幸であれば男の支えが自分に必要なんだという基準で考えられるのが嫌だった。でも、琴子は答える。
「父は三年前にこの病院で看取りました。翌年に母が。母は一命を取り留めましたが後遺症が、今日はその定期検診です」
背中に芝の上を杖をついて辿り着いた母の気配。だから琴子は口をつぐんだ。
「琴子、お知り合い?」
どのような知り合いか。母には絶対に知られたくなかった。英児の元婚約者だなんて絶対に。
「うん。デパートのショップの店長さん」
咄嗟に出たのがそれだった。しかし母は娘が趣味のように服を買いに出かけることを良く知っているので『ああ』と納得してくれたようだった。
だが、千絵里さんは琴子の母を見て唇を震わせている。そこから動かなくなってしまう。
「……お母さん。店長さんもお母様の付き添いなんですって」
「あら、そうなの」
母の目線が向かいのベンチへ。あちらのお母様も訝しそうにしていて、でも娘の知り合いと思ったのか、こちらに軽く会釈をしてくれた。
「店長さん。お母様、お大事に」
琴子は立ち上がる。
「お母さん、お腹空いちゃった。行こう」
母が抱えている紙パックのお茶を琴子が持ち替え、母の背を押した。
語ることなど何もない。話してほしいことも、話したいこともない。元より無関係。あちらから強引に関わってきたのだから。
それよりも琴子は驚愕に固まる彼女が、後先考えずに、『自分だけが納得できる行動』に出ることを恐れた。だから早くここから母と離れたい。
「待って。あの……」
来た。そう思った。彼女がそれをしてしまう前に、琴子から振り返る。
「店長さんもお大事に」
動揺している様子の彼女に、琴子はこの上なく険しい眼差しを向けた。
ここでやらないで。ここで『謝らないで』。貴女が申し訳ない気持ちいっぱいで謝りたくてどうしようもなくても、『母の目の前』で謝らないで。
琴子の母は訝しく思うだろうし、彼女の母も心配するだろう。
謝れば、その心苦しさが軽くなる? それも自分勝手というもの。謝る気持ちがあるならば、もう誰にも案じさせない『心苦しくても、何事もなく取り繕える嘘』を背負える覚悟を持って欲しい。
「……貴女も。お母様、お大事に」
通じたのだろう。その言葉に代え、彼女が頭を下げてくれた。
肩越しに会釈を返し、琴子は母と食堂に向かった。
食堂で母と共にデミグラスソースがけのオムライスを頼んだ。
琴子の隣で母が妙なため息をこぼしている。……察知されてしまったかな。英児も言っていた。どんなに娘が笑顔で取り繕ってもお母ちゃんにはなんでもお見通しだって。でもだからこそ、笑っていれば大丈夫だとお母ちゃんも安心してくれる――と。
まだ涙が滲みそうだった。本当に彼にもらったものが、離れていても琴子を支えてくれているから。
お待ちかねのオムライスがやってくる。
「ここのオムライス、ひさしぶり」
でも、どうしてかな。普通の味になってしまった気がして。
苦しいからこそ、なんでもないものがとっても大事に思える、感じることが出来る。そんな一口だった。
だから琴子は思った。
――『会いに行こう』。
琴子がいてまとまる話もまとまらないだろうと、離れていたけれど。彼女がいない時間に会いに行こう。五分でも良い。あの人を独りにしないで、そばに行こう。
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