30.なにもいらない、こんなに愛されたから


 彼女があれから、ずっと英児の自宅に通っている。

 それは琴子が英児と約束したことを破った代償なのか……。

「おっと。ちょっと意地悪な言い方だったな」

 港町の駅が目の前。そこで踏切の赤いランプが二つ交互に光りカンカンと鳴り始める。黄色と黒の遮断棒が降りてきて、矢野さんのマジェスタも停車。

「おっちゃんはな。琴子にそばにいて欲しかったんだよな」

 なのに。引き留めたのに置いていった、だから矢野さんは怒っている? ちくりと『英児の自宅に元カノが居着いた』と意地悪な報告をしにきた? 琴子は俯いた。

「……でも。それはおっちゃんの独りよがりだったな。今でもなにがなんでも英児のそばにいて欲しかったとは思っているよ。でもな、それは琴子も重々分かって英児を一人にしたんだなあと。ちょっと分かってきたわ」

 理解ある言葉に変わったので、琴子はそっと顔を上げた。

「安心しな。千絵里は夜には帰るし、英児ととことんやりあっているわ。それから、おっちゃんが英児の自宅でいま寝泊まりして目を光らせているから安心しな」

 図々しく矢野さんにお願いしたこと。そして願っていた状況になんとか収まっているようで、やっと琴子は安心する。そうすると、涙がじわっと滲んだが、慌ててハンカチで押さえる。

「……すみません。あの、一方的にお願いしたことを」

「いや。案外、効果があってびっくりだわ」

 目の前をオレンジ色の郊外電車がゆっくりと通り過ぎ、踏切が開く。矢野専務のマジェスタが走り出す。

 やがて矢野専務の車は、大型フェリーが着岸する観光港についた。そこの大きな駐車場に車を停める。水面がオレンジに煌めく夕凪が見渡せる静かなところだった。

「今日、琴子を待ち伏せしていたのもな。英児は今なかなか動けない状態だから、おっちゃんが来たんだ」

 後部座席を矢野さんが指さした。そこには紙袋がいくつか。それはあの日、英児と遠出をした時に琴子があれこれ買った土産の紙袋だった。

「英児に届けてくれと言われて持ってきた」

 二人で楽しんで買ったものだった。雑貨を選ぶ琴子を、あの目尻の皺が優しく滲む笑顔でとことん付き合ってくれた英児。彼が琴子にと買ってくれたアクセサリーもある。

 だが、そんなことより。それを彼自身が届けたいと望みながらも、それが出来ず信頼できる親父さんに頼んだ――その状況に絶句した。それだけ『こじれている』ということだった。琴子は青ざめる。覚悟をしていたつもりだったが、今ここで『時間がかかる』と予感したのだ。

 そんな琴子の様子に気がついたのか、矢野さんもそんな『女の子』の顔は見ていられないとばかりに、目線を正面の港へと移してしまう。だがそこで突然告げた。

「千絵里な、百貨店の仕事を辞めていたんだわ」

「えっ」

 まさか。百貨店で花形の婦人服フロア、しかもプレタポルテ。そこで一番売り上げを持っているだろう大手有名メーカーのブランドショップ。そこの店長なのに!?

 また、琴子は驚きで言葉が出なくなる。

「ここ数日で、少しずつ『事情』が見えてきたところだよ。しかも、千絵里のおふくろさんが闘病生活をしているとかで、娘の千絵里に看病の負担がかかっているらしい……」

 またまた琴子は絶句。まさか。彼女まで、英児や琴子と同じ、両親を病魔に襲われるという苦難に遭っていたなんて。

 矢野さんも、やるせないため息を落としている。

「英児と琴子が市駅の百貨店で千絵里と会った時には、もう決まっていたそうなんだ」

 あの頃に彼女は退職を? きっと頑張ってきた仕事、それを辞めることになった。なのにそんなときに……。もう本当に痛々しくて、琴子はなにも言えなくなる。

「英児との結婚が破談になって、その後は女一人肩肘はってのキャリアを目指すことに没頭した千絵里なんだけどよ。やっと手に入れた念願の店長の座を、母親の看病で維持できなくなって退職を決意したんだと。意にそぐわない状況を強いられての退職決意。そんな時まさかな、昔の男がさ、新しい恋人連れていたら、そりゃ……辛いよな」

「そうだったのですか……」

「千絵里の父ちゃんは、ちょっとした事業をしている社長なんだけどよ。ワンマンで気性が激しくて、昔気質な男尊女卑の固まりでな。母親が病気になっても会社が第一で、あんまり看病をしてくれなかったそうなんだよ。だから見かねて千絵里がこっちに帰ってきたらしくてな」

 そこまで聞いて、琴子にもうっすらと彼女があんな狂気に陥ったのが何故か透けて見えてきた。

 琴子が思い浮かべたことをそのまま、矢野さんが語り始める。

 元より『店長』に昇格したのも、母親の看病に偏るようになってから神戸の第一線での戦力が落ちてしまったから、こちらの地方への転属を言い渡されとのことだった。阪神という都心での活躍の場から退くことになっても、そこは地方であれど『店長』という肩書きをもらっての転属だったという。だが千絵里さんにしてみれば、第一線から退くための引き替え条件でもらったようなポジション。有名ショップの店長でも、地方に転属。第一線から脱落。それは結婚を諦め、仕事で邁進してきた女性には辛い通告だったことだろう。

 だけれど、家族に冷たい父親に任せておけず、なおかつ、一人娘の彼女にはその母親だけが自分の味方。その母を放っておけないから、第一線脱落を甘んじた。それならば、地方でも。神戸のショップより売り上げを叩き出して、トップになってやろうと決意をしてこの街に戻ってきた。

 しかし。そう甘くはなかった。母の看病をしやすくなったが、今度は店長としての仕事が上手くいかない。阪神というショップでのシビアさが、こののんびりした地方の百貨店では通じず、次第に孤立する日々。その影響が売り上げを落とす。八方塞がりになる。

 母の病状も一進一退。彼女一人の力では、もうどうにも回らなくなる。売り上げを落とし、今度は店長降格か。そんなの耐えられない。だから自主退職を決めた。

 この苦しい日々に思い出すのは『彼』。どうしてあんなことになったのだろう。この苦難は、あのとき、彼を理解できなかった自分への罰なのだろうか――。千絵里はそう思ったそうだと、矢野さんが話す。

「英児なら、分かってくれるだろうという頼りたい気持ちと。自分の母親も看病が必要な状態、ののしった英児と同じ状況におかれ、初めて『あのとき、悪かった』と己を責める気持ちがあって、すぐには会えなかったそうだ。仕事を辞めたら、今度こそ英児に会いに行ってせめて『謝るだけでも』と決めていたんだそうだ」

「なのに……。英児さんの隣に、私がいたから……?」

 ああ、と矢野さんが頷く。

「あのとき、なにもかも千絵里の中から崩れていったんだろうな。八方塞がりの女が少しだけ拠り所にしていたそこも塞がれて、とどめを刺されたってところかね」

 そして苦悩する中、彼女がたどり着いたのは『自分が掴むはずだった幸せ』。何故それを、別れた後も特定の恋人を持たなかった元婚約者の男がいとも簡単に、新しい女にあげてしまったのか。

 文句を言わずにはいられなかった。行かずにいられなかった。その裏側に『私の話を聞いて欲しかった』。それを分かってくれるのは、英児しかいない。その思いがあの日の夜、吹き荒れた。盆ならば、新しい彼女も実家にいるのでは。そして彼女も知っていたのだろう。実家に帰ると英児も孤独を募らせて自宅に戻ってくる。その日に会いに行こう……。そう思ったのではないか。

 なのに。新しい彼女が一緒にいた。しかもベッドルームに。

 そしてあの、ドアが開く。

 思い出すと今でもぞっとする。あの時の人影。ぼんやりと見えた彼女の青い影は、時節柄『亡霊』にさえ見えた。

 でも、琴子の胸がキリキリ痛み出す。

「……三十過ぎて、どうしていいかわからなくなることって……あるんです……。先が見えなくて、時が経つほど、このまま女一人で生きていくのだろうかと不安になる。男の人には分からないかもしれないけど」

 三十後半を迎えた千絵里さんの気持ちは、まだ若輩の琴子に『判る』だなんて言ってはいけないかもしれない。店長になるまで頑張り抜いてきた彼女の、孤独感とか焦燥感など、琴子に比べたらとてつもない大変さだったと思う。

 でも、そう思う。自分も英児がいなければ、そうなりかけていたから。

「わかんねえよ、おっちゃんにも。けどよ、千絵里を見ていたら。おっちゃんも泣きたくなったわ」

 あの矢野さんが。英児のような遠い目を見せる。停泊しているフェリーの向こうにある水平線へと馳せていた。

 そうですね。痛いです。矢野さん。

 小さくつぶやくと、琴子にも一粒の涙が目尻に。

「だけどよ。琴子も、よく堪えてくれたな。おまえが思いきって英児を千絵里に向かわせたから、なんとなく二人の様子も変わってきたんだわ」

 どのように変わったのだろうかと、琴子は矢野専務に問い返す。

「琴子が帰えっちまった晩は、朝まで二人で言い合っていたわ。もうとにかく、千絵里の怒りが収まらなくてさ。そこらへん散らかしまくって大変だったわ。朝になってへとへとになると英児は寝室で眠ったし、千絵里はあっさり帰った。それが意外だったんで俺も英児も『納得したのか』と思っていたんだけどな。やっぱり昼になってまた千絵里がやってきて。……ああ、でも。今度は鍵は使わず、ちゃんと訪ねてきたわ」

「そうでしたか」

「そこからまた言い合いが延々と続いてさ……。だけどな。その夜も千絵里が帰るって言うんで『なんだかおかしくないか』と英児とおっちゃんも気がついてな。でもまた、朝一に英児を訪ねてくる。その繰り返し」

 彼女が……通っている。それを聞いたら、やっぱり琴子も心穏やかではない。そんな『いつ諦めてくれるのか』と、自分で仕掛けておきながら琴子だって焦りが生じる、でも自分がやりだしたことだから琴子は琴子でここで戦わなくてはいけない。

「でも、そうして。千絵里がしたかったことをさせているうちにな。えっと、『したかったこと』っていうのは、英児に飯を作って食べさせるとか。あのキッチンも自分が使うはずだったものだろ。とにかく、そうさせることにしたんだよ。だから英児も、腹は立っているようだけれど、そこはぐっと堪えて千絵里とちゃんと向き合っている」

 ご飯まで作って……。自分が使うはずだったキッチンに立って。夫になるはずだった彼に、今になって食事をこしらえている。空しくないのだろうかと、琴子は思ってしまう。ますます痛々しいばかり。だけれど、それが文句を言い合うより『前に少し進んだ証拠』なのだろうか? そう思いたい。

「でも。それをやらせているうちに、千絵里がやっと夜になると自宅にすんなり帰るのは『母を一人に出来ないからだ』とか『母はいま闘病してる、自分が看病している、仕事を辞めた』と告白してくれて――。それでやっと、英児も『だから、あんなになったのか』と理解できるようになったみたいだな。そもそも英児は、千絵里がガタ崩れになると、歯止めがきかないほど暴走するのを身に染みて体験しているからさ……」

 歯止めがきかなくなる彼女の暴走を、体験している? 今度、琴子はそこが気になったが、そんな答えをほしがる目線に気がついた矢野専務が、ちょっと申し訳なく笑った。

「わりい、琴子。さすがに俺でも、英児をさしおいてそこんとこだけは語れねーわ。ごめんな」

 英児本人から聞いてくれ。矢野専務がこっそりと教えるのも憚るほどのなにがあったというのだろうか。

 だが、それからだという。英児が千絵里さんと冷静に向き合えるようになったのは。今になってようやっと、『これから』千絵里さんにどうしてやればよいのか、英児から考えられるようになったらしい。『これから、どうするか』を英児から投げかけるうちに千絵里さんも徐々に冷静になり、二人で過去にあったことも現在のことも年相応の顔つきで話し合うようになってきたとのこと。

 そこまで聞いて、やっと琴子は涙が流れた。良かった。大丈夫だった。二人揃って『時が流れ始めている』。そう感じられたから。

「もうちょっと、英児を待っていてやってくれや」

 琴子が頷くと、矢野専務もやっとほっとした顔に。

 夜の出航待ちのフェリーに、夕日がさしかかった。それを暫く矢野さんと無言で眺める。

「私、本当に英児さんに出逢ったことで、母と一緒に前を向けるようになったんです」

「……らしいな。聞いたよ。でもすげえ一生懸命に見えたってアイツ言っていたわ。いい加減に出来ない真面目そうな子だと伝わったから放っておけなかったってさ」

 あんな最低なところで最低の思いを抱いてもがいていたのに? そんな琴子を見つけてくれて、声をかけてくれた。琴子だけじゃない、立ち上がれない母も抱き上げて、英児はスカイラインに乗せて連れ出してくれた。そこで見た夢のような幻想的な蛍の夜。あれがなかったら……。

「私も母も、またあんな立ち止まるだけの日々には戻りたくないと思っているんです。英児さんに助けてもらって、それを無駄にしたくない。だからもう一度、英児さんに伝えてください。待っているって」

 矢野専務が大きく一息ついた。

「わかった。伝えておく」

 前を見据えた矢野専務の眼差しが変わる。照準を定め、真っ直ぐに突き進もうと決意するような……。そう、英二に似た目。その横顔で、マジェスタにエンジンをかける。

 そのまま矢野専務が自宅まで送ってくれた。

 あの古い煙草店の店先で降ろしてもらう。そのとき、小さなメモを手渡された。

「これおっちゃんの携帯の番号。英児に伝えたいことがあったり、なにかあったら、今はこっちに伝言してくれるか」

 それは『英児に今は連絡するな』と言われているのだと、琴子も悟った……。

「悪いけどよ。それでも今の千絵里は琴子が見えないから落ち着いていると思うんだよ。英児の携帯、一度ぶっ壊されてな」

 最後になってそんなことを教えられ、琴子はまた驚き目を丸くした。何故壊されたのか、考えたくないが、だいたい判ってしまう。『だから連絡がなかったのだ』とやっと理解した。

 英児が琴子に連絡をしようとしていたのを見たのか。あるいは、何かを見てしまったのか。それとも『怒りまくって、散らかしまくった』時にそうなったのだろうか。ともかく、携帯にコンタクトすることはタブーだということだった。

「武智の番号もメモしてあるから、おっちゃんに言いにくかったら、武智にいってくれ。店の奴らも、落ち着きないわ。店長の英児は仕事に身が入っていないし、琴子じゃない女が出入りしているわで。おっちゃんもそう長引かせるつもりはないから、あと少し我慢してくれ」

 琴子はそのメモを受け取る。

「大丈夫です。待っています。また会える日を」

 今度こそ、今度こそ。琴子は心から告げた。

「おっちゃんも、また琴子が車を磨きに来る日を楽しみに待ってるな」

 そっくりだった。英児の目尻に皺が寄る笑顔と。途端に涙が溢れてしまう。

 じゃあな。矢野さんの白いマジェスタが宵闇に去っていく。

 

 いま、琴子はあの道を歩いている。

 桜が咲きそうだった道、泥を跳ねられた道、彼がコートを届けに来てくれた花びらが舞っていた道を――。

 彼がくれたもの、幸せな恋、きっとこれ以上の恋にはもう出逢わないと思う。それまで付き合っていた男性もいたのに。ひと通りの恋愛はしてきたのに。

 彼との恋は、それまでの恋と全く違った。条件も釣り合いも、どれも私たちを縛らなかった『本物の恋』。

 愛されることを待っている恋じゃない。自分から一生懸命に愛せる恋に出逢えたこと。その恋心を彼が愛してくれたこと。そんな幸せに出逢ったこと。

 だから二度と琴子は戻らない。彼にもらった前に向ける気持ちを無駄にしたくないから。

 今はなにもいらない。愛されたことを忘れない。貴方がいないから愛せないなんて、絶対に言わない。

 たとえ、別れたとしても。貴方をずっと愛していると思う。胸の奥に秘めてずっと。幸せだったことが一時でもあったことを思い返して、前を向いていける。そんな恋。


 

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