29.置き去りにして、ごめんなさい
いい加減に、起きなさいよ。
二階の部屋でぐったり横になっていると、急にドアが開いて琴子はびくっと飛び起きる。
「お、お、お母さんっ」
足が悪い母が、一人で階段をあがってくるのは余程のこと。いつもは電話子機の内線を使っているのに。ううん、そうではなくて……。
「なに。そんな驚いた顔で。もうお昼になるんだけど」
だが母は琴子の異変に気がついた。
「……顔色悪いね。琴子、具合悪かったの? だから今日は英児君のところに行かないの?」
青ざめた顔でもしていたのだろう。母の顔色も途端に曇ったので、琴子は慌てて繕う。
「う、うん。昨日、大橋と島まで回って……。ランチも食べて、帰り際にも善通寺で頑張ってうどんも食べちゃったから。胃の調子が……」
「英児君は」
「うーん。ゆっくり休んで、明日からの仕事に備えろって言ってくれたの」
「ふうん……。今夜、うちに誘う? 夕食」
「だめ。彼も今夜は実家で送り火だって」
とことん嘘をつく。でも母は見透かしたように、じっと琴子を見ている。
「明日から仕事でしょ。いま寝ると、夜寝られなくなるからね」
「はあい」
訝しそうな母が出て行き、琴子は震える息をやっとはいていた。
――駄目だ。まだ生々しすぎる。
すっかり安心しきっているところへ、急にドアが開いて人がやってくる。
昨夜のあの暗がりの中のことを思い返すと、こんなに暑く茹だるほどの部屋なのに、ぞっと寒気がした。
でもこのままだらけていても、なんだか惨めだった。
起きて、シャワーを浴びて。これでもかというほど、スペシャルに肌のお手入れをして。部屋の中なのにお気に入りのワンピースを着て、わざとお洒落をする。
それだけで気分が良くなってくる。暑いけれど、外の空は快晴。青い夏空。でもちょっと向こうに厚みのある雲。もしかして……夕立?
……夕立。
この家の庭だった。男の艶っぽい匂いに目覚めたのは。
部屋の窓辺で琴子はため息をこぼす……。
駄目だ。やっぱり……。一時も忘れられない。英児が寂しがり屋? 私だってこんなに寂しい。彼のこと言えない。琴子は自分で自分を抱きしめる。離れていても感じることができた『英児の温度』がいまはない。夏なのに寒い、隣をすがる空気が冷たく思える。
今になって後悔している。英児を置いてきてしまった。どんなことがあってもそばにいると何度も言ったのに。喜んでくれたのに。
昨夜だって『おまえと暮らしたい』と言ってくれたのに。それまで彼に何があったかも、なにが彼に結婚を決意させ後押ししたかももう関係ない。結婚をほのめかされると困った顔をしていた彼が、本当は琴子以上に重いものを持ったままだった彼が、やっと琴子を隣に歩こうとしてくれていたのに。
だけれど。琴子と英児の意志を貫いたら、進めない人がいる。自分より先に英児のそばにいた人が進めないと英児も進めない。それは『先に愛し合っていた者同士』でやらねばならないこと、居場所がないのに無理に入り込んではやはり前に進まない。彼女が今いる場所は、本当は琴子の居場所。でも前は彼女の居場所。たったひとつしかない場所を押したり押し返したりして奪い合っても……。なにが生まれるというのだろう。女同士憎みあって奪い合っている間に時間だけが無駄に過ぎていくだけになる……。
数年前に戻らなくては英児が進まないなら、琴子はそこにいてはいけない。『いないはずの、後から来た女』だから。
それなら。英児を信じて待っている。退いて、その場所を彼女に一時返して、数年前に戻ってもう一度向き合ってもらう。
大丈夫……。英児はあんなに愛してくれたんだから。そして琴子も、愛された痕をたくさん感じている。
でも……。やはり涙が溢れてきた。
夏空の窓辺で、琴子は探している。あの匂いとか、あの目とか、そして体温。頼りがいある兄貴なのに、時々とってもイタズラな笑顔。そして寂しそうな横顔、遠い黒い目。
山間の空が暗くなっている。まだここは青空だけれど、そのうちに本当に夕立がきそう。
もう既に遠くから雷鳴が聞こえてきていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
思った通り。母と昼食をすませたら、どしゃぶりの雷雨。
「やだねえ。夕方までになんとかやんで欲しいわね。送り火ができないじゃない」
「やむわよ。いつもそうじゃない」
ほんとうに嫌な夕立。あの日と同じ……。思い出さずにいられない。
「部屋にいるね」
少しでも母に気づかれてはいけないと思い、琴子は二階の部屋へ戻る。
でも少し自分も落ち着いてきた気がした。そこでやっと、電源を切ったままの携帯電話をバッグから取り出した。
電源を入れたら……。着信履歴がどうなっているのか。メールもどれだけ着信しているのか。それとも直ぐにかかってくるのだろうか。
怖かった。どうしてだろう。それでも彼と連絡が取りたいのに。また彼と会いたくなるから? いや、会うと……あの女の人にまた関わらなくてはいけないから?
でもそれって……。既に琴子も逃げている。英児に『あなたの事情でしょ、あなたがお片づけしてよ。私、知らない』と丸投げして逃げてきただけになる。ただでさえ『そばにいるね』という言葉を裏切ってきたのに。
だから、思い切って電源を入れてみる。
メールなし、着信一件、留守電あり……だった。
思ったより『あっさり』していて、何度も何度も連絡をしてくれただろうと思っていた自分が『思い上がっている』ように感じてしまったほど恥ずかしくなった。そして、すごく拍子抜け。
だけれど、何を言い残してくれたのか。たった一件の着信と留守電。それを琴子は再生してみる。
『琴子、ごめんな。ほんとうに、ごめんな』
苦しそうで泣きそうに震えている英児の声に、琴子の心は痛む。こんな苦しんでいる人をたった一人置いてきてしまった……のだと……。胸が締めつけられた。
『矢野じいから聞いた。琴子が言いたいこと、うん、……わかった。……あのな……』
どうしたんだろう。彼らしくない歯切れの悪さに、琴子は違和感を持つ。
しかも沈黙が暫し。様子がおかしかった。
『言うとおり、一筋縄ではいかないかもしれない。でも心配するな。また連絡する』
それだけ言うと、ぷっつりと切れてしまった。
英児はなんでもすっぱりしているはずだから、何度も着信を残すような連絡をするぐらいなら、たった一度の連絡。でも、そのたった一度できっちり伝える。そんな気がする『たった一件の着信』。それに伝言も短い。でも琴子は『心配するな。また連絡する』の一言だけで締めつけられていた胸が、ふわっと緩んだ気がした。
――ごめんな。ほんとうに、ごめんな。
たった一言。それをもう一度再生して、琴子はひとり頷いた。そこに彼がいるかのように、頷いた。
それだけで。昨夜の嫌なことが少しだけ薄れていくような気がした。
――心配するな。また連絡をする。
短い伝言。彼らしい……。
でもそれだけで、離れていても繋がっているように感じられた。
やっと、隣の空気が暖まってきたように思えた……。
電話を返したいけれど。『一筋縄ではいかない』と言っていた。まだ、千絵里さんと向き合っている最中。そこへ琴子が連絡をしたら……。
なんでだろう。まるで自分が彼を寝取った愛人みたいな……。でも琴子はその悔しさを、『後に愛された女』の悔しさをかみしめ、何とか堪えた。
大丈夫、私も。待っている。
もう一度言いたかった……。
置いてきて、ごめんね。そばにいられなくて。許して。嘘を言ったこと。
そう伝言に残したい。
だけれど。やはりいまはそっとしておくのがいい気がした。
鍵を使って侵入してきたほどの女性。触ればまた何が起きるか恐ろしくて……。
雷の音が真上で響く。いま、どしゃぶりの中にいる、私たち。でも隣は暖かい。
そっとそっと思い出す。夕立の彼の匂いを――。
予想通り、夕方になると雨が止み、雷鳴は遠のき、雲間から夏の光が差し込んできた。
庭の木に止まった蝉がまた鳴き始め、徐々に外は晴天の活気を取り戻す。
その時には琴子はもう。机の上にあるパソコンを立ち上げ、あるものを調べることに没頭していた。
――決めた。英児が頑張っている間。私も頑張ろう。
「お母さん、雨あがったでしょう。送り火を焚こう」
琴子から声をかける。母のほっとした顔に、琴子も微笑む。
そして。厳かながらも賑やかに飾られた盆棚にある父の遺影にも。
もう二度と。あんな落ち込んだ暗い日々に戻りたくない。
お父さん。彼のお陰でせっかく立ち直ったから。お母さんと元気にやっていくからね。
だから。安心して帰っていいよ。また来年。
―◆・◆・◆・◆・◆―
あることを心に決めていた琴子は、それからいつも通りの日常を過ごしていた。
ただ、毎日会うようになっていた彼がいないだけ。それだけを思うと、別れたわけでもないのに大きな喪失感。その苦しさが心を雁字搦めにしてしまう前に琴子は首を振った。『それだけじゃない』と。
心に決めたことが琴子を支えようとしていた。
盆明け。会社も業務再開。しかし盆前の忙しさが嘘のように、受注ががくんと減る。しかしこれは毎年恒例のこと。業界の『二八』(二月と八月は売り上げが落ちる)の余波がこちらにもくる。本当に忙しい時はとことん詰めに詰め込まれるスケジュールに忙殺されるが、ない時はとことん何もやることがない業界でもあった。
ここが琴子にとってもチャンス。仕事ではない自分のことを何かするなら、この時期だった。毎年ここでまとめて有給休暇を取っては旅行をしたりなどをしてきた。
ここで動こうと決めていた。その想いだけが、英児がいない日々を支えている。だって……これは英児にも繋がっていることだから。
この日も会社は定時で終わった。空が明るいうちに、琴子は郊外電車の駅を目指す。
いつもだったら。英児が待ち合わせはここと決めていたカフェで待ってくれているか、この駅の近くで車を止めて待ってくれているか。
でも……。やっぱり。いつもの場所に、黒い車はなかった。
あれから、数日。そんなに千絵里さんとこじれているのか。それとも……。琴子は考えたくないことを考えてしまう。目をつむり、そんなことは絶対にないと言い聞かせる。
「おい、琴子」
え? 彼はいないはずなのに呼ばれて琴子は振り返る。
「こっちだよ、琴子」
声がするそこに、白い車。でもその車をよく知っているので、琴子はびっくりして立ち止まった。
「矢野さん」
トヨタのクラウン・マジェスタ。それが矢野さんの今の愛車。やっぱりいつもピカピカの白い車。その運転席から作業着姿のおじ様が手を振っていた。
「乗ってけよ。っていうか、乗れ」
あの目がぐっとこちらを促すような威圧を見せたので、琴子は二つ返事で車へ向かう。
助手席に乗り、シートベルトをすると直ぐに車が走り出した。
「元気に通勤しているみたいで、安心したわ」
緩く笑った矢野さんに、琴子もそっと微笑む。
「会えないのは……、ほんとうに辛いです。でも、私から突き放してしまったわけですから」
「ったく。おめえは本当に馬鹿だな」
千絵里と英児が思わず再会したことを報告した時も言われた。そんなことよりおまえ遠慮するなよと言ってくれた。
「そうですね。馬鹿だったなあ……と後になってじわじわと襲ってきています。困っている彼を一人きりにしてしまいました。私、一人にしないと約束していたんです。なのに」
「ああ、もう英児のやつ。すげえ落ち込んでいるぞ」
そう聞けば、置き去りにしてしまった恋人としてはドキリとする。そこでやっと琴子は、笑む余裕をなくし唇を噛みしめ俯いてしまう。
駅界隈の住宅地を抜け、白いマジェスタが夕暮れのバイパスをどこともなく走っていく。暫し言葉を失った琴子は、そっと聞いてみる。
「あの……」
『落ち込んでいる』の一言が思いの外ショックだったのか、声が掠れていた。自分でも驚いたが、矢野専務は見知らぬふりで運転をしながら『なんだ』と返してくれる。
「英児さん……。私のこと……」
最初の留守電を聞いた時は安心していたが、それっきり。本当に連絡がこない。それはそれで、さらなる不安とあらぬ妄想を生んだ。やはり英児は置き去りにした琴子のことを、裏切った女と思い始めているのではないだろうか。信じているんだから、そんなこと気にしなければいいのにでも大丈夫、きっと大丈夫。その繰り返し。そのぐらぐらと揺れる心をはね除けるために、琴子はあることを始めたところだったのだが……。
そんな琴子をちらりと確かめて、やはり矢野専務は呆れたため息をこぼした。
夕暮れのバイパス、目の前に見える山の端に夕日がさしかかるところ。マジェスタはフェリーが着岸する港町へと向かっていた。
暫くして、矢野専務が教えてくれる。
「ほんと、英児のやつイライラしているわ。琴子は英児が千絵里と思わぬ再会をしてしまったから、動揺して仕事でミスしないよう俺に見ていてくれといったけどよお。おまえがいないほうがよっぽど危なっかしいわ」
え、そうなの。と、琴子はまた申し訳なくなって矢野さんと目が合わせられなくなる。
矢野専務がクーラーを切って、ウィンドウを空かした。潮の香がする。港町間近の川縁の道。仕事帰りの車が行き交い、二車線の狭い道、郊外の港町はもう渋滞寸前。それでもマジェスタは港へと向かっていた。
渋滞しそうな狭い道の運転に気を取られていた矢野さんだったが、黙っている琴子をみて堪りかねたのか、やっと話し始める。
「千絵里なんだけどよ。あれからずっと英児の自宅に通っているわ」
もしかして……と思ったが。
何かが崩れ落ちていきそうな思い。今すぐにでも泣いてしまいたい。でも……置き去りにしたのは琴子。こぼれ落ちそうな涙をなんとか堪える。
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