28.結ばれる、その瞬間に……

 だが、英児はその彼女を自分の胸から離した。

 彼女の顔を見据え、もう一度言った。

「鍵を返してくれ」

 ふるふると彼女が首を振る。いつもより深い皺が英児の眉間に現れる。彼が本気で怒ったときの、爆発する前の、あの強い眼光を放っている。

「おまえの家……になるはずだった。でも捨てていったのはおまえだろ。この街も、この新居も、選んだベッドも。ぜーんぶ、おまえは置いて海の向こうへ行っちまったんだ」

「でも、住むはずだったのよ。あんなことがなければ!」

 『あんなこと』? ドアの隙間から窺うことしかできない琴子は眉をひそめる。『あんなことさえ』。それが二人の傷のすべての根元? それってなに?

 それがどうしても見えてこない。英児が思い出したくなくて、垣間見せる隙もだせないほど蓋をして封印していたのだから、どうしても後から来た琴子には見えない。

 それでも。やや狼狽えているような英児ではあるけれど、ちゃんと一息ついて落ち着いて、どうするべきかを探っているのは琴子にも伝わってくる……。

「耐えられなかったのよ。貴方が幸せそうに、可愛い女の子と、あんな若いお店にいて――」

「若いって。同じ三十代だぞ。それに店も、おまえがいるフロアはミセスが多いだけだろ。独身女性向けの年相応の店にいただけじゃないか」

「三十五を過ぎるのと、過ぎていないのは全然違うのよ。だって、英児。この前まで、たった一人で車を乗り回していただけじゃない。それがいつからなのよっ。ずっと誰とも付き合っていなかったて知っているんだから。気の迷いなの? ねえ、まだ付き合って間もないのでしょう? ねえ、その程度なんでしょ、まだその程度なんでしょ。私と何年付き合って、どれだけ愛し合ったと思っているのよ。数ヶ月なんて軽さじゃなかったじゃない」

 千絵里さんの詰問に、英児が辟易して目を逸らす。

「なんだよ。おまえ、全然変わってねえな」

 その冷めた一言に、千絵里さんが黙った。その隙に英児が彼女からいとも簡単に離れた。

「待ってろ。言いたいこと、もっと聴いてやるからよお。でも服だけ着させろや」

 凄味を利かせた物言いに、英児の腹立たしさが現れている。だからなのか。あんなに憤っていた彼女もやっと一息ついた。それでも、上気した顔は赤いまま。

 パンツ一枚なんて、無様な格好で必死にさせられた英児がこちらに向かってくる。琴子は急いで、ベッドルームに戻った。

 暗がりの寝室。ベッドの縁にブラウスの首元を握りしめながら腰を下ろすと、すぐに英児が入ってきた。

「琴子」

 廊下から差し込む灯りが一筋、やっと琴子がいる暗い部屋を照らす。ボクサーパンツ一枚で佇む彼の顔が、悲しそうにゆがんだ。

 琴子は……、目が合わせられなかった。

「大丈夫か」

 それでも彼は琴子の足下にひざまずいて、そっと膝の上にある手を優しく握ってくれた。それだけで。我慢していたものが溢れ出しそうになったが、琴子は堪えた。

「悪かった。ずっと前に俺がハンパなことをしていたのが、今になって……。琴子を巻き込んだな」

 謝る彼に、琴子はそっと首を振る。

「だ……だいじょう、ぶ」

 そんなつもりはなかったのに、声が震えていた。

 直ぐに、英児が胸の中にきつく抱きしめてくれる。そして琴子の乱れている黒髪も撫でてくれた。

「驚いたよな。でもよ、大丈夫だから」

 英児の声も震えていた。悲しいのか、怒りなのか。わからない。彼だって、まさか完全に終わったはずの元婚約者に、こんなふうにして勝手に家に入られるとは予想外だったのだろう。

 自分が一番安心できる場所で、プライベートの、秘めた場所。限られた許された人間しか出入りできないはずのテリトリー。そこから自ら出て行ったはずの人間が、安心しきっている時に踏み込んできた。それならまだしも、ずっと昔に終わったはずのことを掘り返して、怒りをまき散らして――。これが驚かずにいられるだろうか? 琴子だって『怖くて』震えているのに。

 でも琴子も彼の肩先で『大丈夫』と首を振る。そして琴子からも英児を抱きしめた。

 まさか。恋人同士だけに許された秘め事の最中に踏み込んでくるだなんて――。

 しかも。本当に本当に、今このとき、私たちが身も心も完全に結ばれるというときに、踏み込まれた!

 なによりも『何故、彼女がこの部屋のドアを開けたのか』。英児はきっとまだわかっていない。でも琴子にはそこはもう『女として』通ずるものが見えている。だからこそ、震えている。

 そんな琴子の震えに気づいた英児が、申し訳なさそうにして、さらに強く琴子を抱きしめてくれる。

「琴子、俺……さっきの邪魔されたけど本気だからな」

 彼女が戻ってきたことを知って動揺もした。でも彼の今夜の決意は変わらない。そうして琴子を安心させようとしてくれているのがわかったから、琴子はまた無言で頷いた。

 だけど。それだけ言うと、英児はいつものポロシャツとデニムパンツをクローゼットから出して着替え始める。そこに身動きが出来ない琴子を背に、ポロシャツを頭からかぶりながら言った。

「きっちり帰ってもらうから。ここで待っていろ。直ぐ戻ってくる。でも琴子は、あいつの前に姿を現さないほうがいい」

 なんだか父親か兄に言い聞かされるようだった。それだけ英児の目が何かに構え、警戒しているよう。

 だが琴子もそう思う。あそこまで逆上している人間の、一番やっかいな存在になっているだろう張本人は『琴子』。それに女だから良くわかる。愛している男を憎むのではない。その男に関わっている女へ矛先が向かってしまう女の性は、同性だからわかるもの。

 だから静かにこっくりと頷いた。

 それに安心したのか、英児はきっちりと身なりを整えると、あっという間に出て行ってしまった。

 その後、直ぐ。怒濤の言い合いが、堰を切ったように始まった……!

 

帰ってくれ。俺達はもう終わったんだ。そうだろ。何年経っているんだ。

彼女といつから付き合っているの。

いつからだっていいだろう。

どうして彼女をこの家に入れる気になったの? ずっと誰も入れなかったんでしょ。それって何故。どうして何年も誰とも付き合えなかったの? ねえ。

……いいたくない。でもおまえが忘れられなかったとかじゃねえからよ、うぬぼれんな。

なんですって。そっちのせいで、私がどれだけ傷ついたと思っているの! 式も結納も予定していたのに、キャンセル。親にも親戚にも白い目で見られて、友人達からは哀れむような目で見られて腫れ物に触るみたいに遠巻きにされて。この街にいられなくしたのは、そっちの家族じゃない!

俺は何度も引き留めたぞ。それを振り払って神戸に行っちまったのはそっちだろ。

 


 リビングから響いてくる男と女のどうしようもない言い合いに、琴子は耳を塞ぐ。

 どちらも退くことがない平行線な言い分が、延々と続いていた。

 しかも。同じ事を繰り返し言い合っている。平行線の上に、何度も回って戻ってくるエンドレスループ。

 英児の『今度こそ、これで終わりにする』という意地と、彼女の『今度こそ、解ってもらう』という意地がただひたすら噛み合わず投げつけあっているだけ。

 ――こうして別れたの? これを繰り返して別れたの?

 一人、暗いベッドルームで息を潜め待っている琴子だけが置き去りになっている。だからって、英児が琴子を忘れている訳じゃない。忘れていないから今度こそ『綺麗に精算しよう』と、痛くて背けていた過去に果敢に向かってくれている。

 でも、そこは琴子が入ることが出来ない『数年前の世界』。現在愛している女を置いて、過去を持ったままだった男がそれを今こそ返上する時とばかりに、過去をさかのぼって行ってしまった――。そんな感覚。

 

私は、引き留めて欲しかったんじゃない。一緒に来て欲しかったの!

それが何故出来ないか、良くわかっていたはずだ。それを知っているくせに、敢えて俺が何も出来ない方向へ突っ走っていったのは千絵里、おまえだろ。

……それでも。一緒に来て欲しかった。一緒にいて欲しかった。私のことをよく知っているのは、貴方だけだったはずなのに。わかってくれなかった。

 

 そこでピタリと千絵里さんが黙った。

 琴子も耳を塞いでいた手を緩め、見えない向こうへと視線を馳せる。

 彼女が何故黙ったか。良く通じたからだった。

 思った通り。彼女は嘘でもいいから英児に『わかった。一緒に神戸に行く』と言ってほしかったのだと。

 『私のことをよく知っているから、どうして私がこんな我が儘を貫こうとしているのか、貴方ならわかってくれるはず』。そう信じていた。でも駄目だった。

 だから意地を張ったまま神戸へ。だがそこで彼女も身に染みたのだろう。

 ――『貴方。この前まで、たった一人で車を乗り回していただけじゃない。それがいつからなのよっ。ずっと誰とも付き合っていなかったって知っているんだから』。

 それを聞いた時、琴子の胸を貫く激しい痛みが生じた。それは『女の悲しみ』。その痛みを感じ取ってしまったから……。

 英児は頭に血が上って、とにかく彼女を落ち着かせて帰そうと必死だからまだ気がついていないかもしれない。

 でも、千絵里さんは……。神戸からこの街に帰ってきてからずっと、英児を確かめに来ていた。この住むはずだった店舗兼自宅を何度か確かめにやってきていたのだ。

 戻ってきても、英児はここでずっと一人で暮らしていた。暫く眺めていれば、直ぐに判ったはず。少し前の英児なら女の影もなく、店を閉めれば夜な夜な車で走りに行く。彼らしい暮らしぶりを知ったことだろう。しかも、まだ独身でフリーだった。それを知った千絵里さんにどんな想いが巡っただろうか。

 はだける胸元のブラウスを握りしめ、琴子は一人うずくまる。年月が経ったからこそ、落ち着きを取り戻した彼女に残っていたのは、やはり『思慕』。英児をまだ愛している。『やり直したい』。でも酷い別れ方をしたから、直ぐに顔を合わせられない。迷うのに半年以上かかっても無理はない。気持ちが整うまで、『ごめんなさい』と言えるようになるその日まで。それが満タンになってから英児に会いに行こう、許してもらおう。そう思っていた矢先に、彼に何年ぶりか。『新しい恋人』が既に隣にいた……。

 琴子だって胸がキリキリする。そういう女の悲しみ。まったく違うけれど、琴子もデザイナーの彼と別れてから、『もうだめなの?』と考え直して欲しくて、彼のマンションに押しかけようかと思ったことが何度かある。『父が病気になって亡くなって、母もあんなことになって取り乱したけど、もう大丈夫。もう一度、前みたいに……』。無駄かもしれないと思っていても、一度は愛し合った気持ちを胸に、女はその愛をくれた男にもう一度問いかける。無駄と解っていても――。

 今夜の千絵里さんはそれだった。鍵を使ってしまったのも、『売り言葉に買い言葉』で関係を駄目にした人なら、それすらも『出来心』でやってしまえる人だったのかもしれない。軽い気持ち……。見つかりそうになったらそっと出て行けばいい……。でも入ったらそこらかしこに琴子の痕跡。既に染みつき始めている女の匂いと形跡。『私の家だったのに』。また取り返そうと思っていたならば、それは腹立たしいことだったかもしれない。後戻りが出来ず、『まさかあのベッドも使っているのか』。その気持ちが一直線にベッドルームへと向かっていく。そうしたら、彼と新しい女が愛し合う囁き。

 そこまで考えたどり着き、琴子は改めて震える。胸のあたりが苦しくなり、息が少しばかり荒くなる。

 ――何故、ドアを開けたのか。

 もし、琴子が千絵里と同じように、別れた彼の家に忍び込んでしまったなら。もし、そこで彼と新しい恋人がベッドルームで愛し合っていたなら。ドアから聞こえてくる恋人同士の濡れた囁き合いなんかに遭遇してしまったら『逃げ出す』と思う。でも……琴子はそこでもっと、女として困るほど見えてしまったものがある。それは『聞こえてきた囁きの内容』だった。

 今夜の英児の囁きは、いつもと違った。『特別』だった。これから一緒に暮らしていこう、『家族になろう』と、睦み合っている恋人に告げた。囁きだけなら、青ざめて絶望して唇をかみしめてドアの側で泣き崩れるだけで終われたかもしれない。でも……。琴子は苦しくなる息を吐きながら、またうずくまる。

 ――『琴子、いくぞ』。

 英児の、あの最後を駆け抜けようとした声を聞いてしまったに違いない。それを見過ごしたら、新しい恋人の身体に英児と女を確かに繋ぎ止めるものが生まれる可能性ができる。

 もし、子供が出来たら。もう取り返しようがない。

 そこに遭遇した女が後先考えずにしたこと。『ドアを開ける』。

 そこに至り、琴子はついにベッドに倒れうずくまる。涙がいっぺんに出てきた。

 『阻止、されたんだわ』

 英児と本当に結ばれるその瞬間を、男と女として対になるその瞬間を。琴子にとっては最高に幸せになれたかもしれないその瞬間を。秘密の時を踏みにじられた!

 女の情念に襲われたおぞましさと悔しさがいっぺんに沸き上がってくる。

 

 起きあがる。そしてすぐさまクローゼットを開け、この家に置いている下着に洋服を手に取り身につけた。

 英児が琴子用にと揃えてくれたナイトテーブルに置いてあるバッグを手に取ると、頭が真っ白なまま、このベッドルームを飛び出す。

 リビングでは、まだ二人が言い合っていた。

 

妻になるはずの女に『家族になれない』と突きつけておいて、『お前から出て行った』てなんなのよ。そっちが仕向けたんじゃないの。

順序ってもんがあるだろが。その加減を間違えたんだよ。

良いお嫁さんになろうと、頑張っただけなのに?

だから、『まだ家族』ではなかったんだよ。

これから貴方の嫁になるなら『家族』同然じゃないの。違うの、そうだったでしょ。私をいい気分にさせておいて、あんな突き落とし方ってある?

だから『まだ、家族じゃなかった』と言っているだろ。おまえ、最後に俺とおふくろに何を言ったか忘れたなんていわせないぞ。もう一度、ここで、俺の目の前で、今すぐ言ってみろ!

 

 琴子にはもうそんな言い合いは聞こえないに等しかった。だから構わず、険悪な空気をまき散らしてやまない二人の世界の側へと飛び込んだ。

 『カチャリ』。今度は琴子がドアを開ける。当然、二人が揃って静かになった。

「琴子」

 英児はとても心配そうな顔をしてくれたが、千絵里さんは琴子と目が合うなり背を向けた。

 だが琴子はそんなものもどうでも良く、そのままリビングを横切って玄関へ行くドアを目指した。それに気がついた英児が追ってくる。

「まて、琴子。帰るのか」

 すぐに追いつかれるから走るように玄関をめざし、サンダルはきちんと履かずつっかけて玄関を飛び出していた。

 階段を駆け下りると、やはり直ぐに玄関が開いて英児の引き留める声。

「琴子、待て!」

 それでも琴子は階段を下りてしまう。英児が駆け下りて追いかけてくる足音を聞いても……。

 事務所裏の通路を駆け抜け、外へと出る裏口のドアを開けて飛び出した。だが、そこで『うおっ』と開いたドアをさっと避ける人影と遭遇した。

「琴子じゃねえか」

 ――矢野専務、だった。

 涙に濡れ、着崩れ、そして乱れた黒髪のままの琴子を見て、矢野さんの顔つきが瞬時にあの強面に。ぎらっとしたその目に、琴子はびくりと固まる。

「英児だろ。英児のやつが、おまえになんか酷いことでも言ったのか? それとも機嫌が悪くて八つ当たりでもされたのか?」

 機嫌悪くて八つ当たり? え、なんのこと?

 ただでさえ、二階であった酷い出来事で頭がいっぱいなのに。今度は『英児が酷いことをしたのか!』と怒るおじ様の登場に、琴子はさらに何が起きているのかわからず佇んでしまった。

 茫然としていると、何故か矢野さんがばつが悪そうに目を逸らした。

「いや、英児のやつ。実家から帰ってくるとたまに荒れることがあってよお。盆、正月の休みの終わりは、おっちゃんが様子見にくるのが恒例なんだよ」

「そ、そう……なんですか」

「ごめんな。おっちゃん、琴子を必要以上に心配させまいと、実家に帰っても英児は大丈夫だなんて嘘をいった。それでも、今年は琴子がそばにいるから安心はしていたんだけどな。でもよ。琴子はそんな英児を初めて見るだろ。カミさんが『せっかく上手くいっているんだから、些細なことでこじれないよう様子見てこい』て、おっちゃんの尻をたたいたわけよ。一番心配だったのは、琴子を助手席に乗せて、危ないドライブに行くことな――」

  じゃあ、やっぱり……。英児にとって実家への帰省は気負うもので、帰ってきたら情緒不安定になることもある。琴子が密かに案じていた通りだった。

 そこで琴子ははっと気がつく。

 ――『家族になりたい』。

 今夜、英児が琴子を今まで以上に手元に引き寄せてくれたのは、『寂しいんだ。一緒にいてくれ。ずっと俺と一緒にここで。もっと賑やかに暮らしたいんだ。琴子となら、それが出来る』。そんな決意、だったから? 琴子とひとつになろうとしていた?

 入浴前に見せていたあの目は、彼の寂しさを表していた……。琴子はやっと今夜の英児の真意に気がつく。

 そう思ったら、涙が。違う涙が溢れてきた。今度の涙は冷たく寒くなる涙じゃない、熱くて身体中の血が沸きそうな涙。

「あいつ怒鳴ったりして琴子を困らせたのか。あいつ、そこんとこまだガキぽいところあるからよ」

「違うの、矢野さん。英児さん、優しかった。いつもどおりのお兄さん……で……」

 それを聞いた矢野さんが困惑した顔になる。

「だったら琴子、おまえ、なんでそんな泣いて、逃げるみたいに飛び出してきたんだよ」

 その答えが、向こうで響く。

『英児、もどってきてよ。あの子のところに行かないで』

『なに言っているんだよ。俺達はもう終わっているし、やり直しても絶対に上手くいかないんだよ』

『わからないじゃない。もう一度やり直したら……だってあんなに私たち……結婚しようとしていたほどなのに』

『俺とおまえは……上手くいかない』

『どうして! あんなことなければ、もうあのことも終わったじゃない。もう時間が経ったもの、もう一度……もう一度……』

 琴子ではない女性の悲痛な声。それを知った矢野さんも驚愕の表情に固まった。

「千絵里……か?」

 何故。問いたいのに驚きで問えない矢野さんが、琴子を見て答えを求める目。

「鍵、持っていて……。入ってきてしまって」

「はあ?」

「まだ、結婚前にもらった鍵を持っていたみたいで。一緒に……いるところ……見られ……」

 ベッドルームで休んでいるところを見られて。オブラートに包んで言おうとしても、やっぱり言えなかった。それでも矢野専務は、彼女が鍵を持って入ってきただけで察してくれる。

「わかった。おっちゃんが、馬鹿たれ二人をなんとかしてくるわ」

 階段ではまだ千絵里さんが不条理なことを泣き叫び、それに捕まって琴子を追えない苛立ちをぶちまけている英児の怒鳴り声が繰り返されている。

 矢野さんの顔もとんでもない形相になり、琴子が恐ろしくなる。

 腕をまくるような意気込みで矢野さんが裏口から中へ入ろうとしていた。

「待って、矢野さん」

 その腕を琴子は掴んだ。飛び込もうとしていた矢野さんが、もどかしそうに振り返る。

「私、大丈夫。あのまま二人にしてあげて」

「琴子……! この前おっちゃんが言ったこと忘れたのか」

 ――遠慮するな!

 あの言葉、ある意味矢野さんらしい激励。忘れていない。そんなつもりもない。でも、琴子は涙を拭いて専務に告げる。

「英児さんに伝えてください。私、待っているから――と。だから、ちゃんと話し合って『終わらせてあげて』。お願いです、矢野さん。英児さんのそばにいてあげて。数年前に戻ったつもりで、二人きりで『もう一度、やり合う』ほうが良いと思うんです。今、私が彼のそばにいたらこじれてしまう、きっと遠回りさせてしまう。私だって力になりたいけど、ずっと前の二人のことにはなんの役にも立たない。だから、矢野さんが英児さんのそばにいて見守ってあげてください」

「琴子、あのな」

「伝えて……。待っているから、数年前からちゃんと今の私のところに戻ってきてと伝えてください」

 それだけ言い切ると、琴子は矢野専務にすら背を向け走り出していた。

 ――『琴子!』。

 矢野専務が呼び止める声なのか、英児が叫んでくれた声なのかわからなくなった。

 団栗の葉がさざめく裏道を抜けて、琴子は夜の道路を駆け抜ける――。やがて、一台のタクシーを見つけ、すぐさま手を挙げた。

 息切れるまま、ドアが開いた後部座席に乗り込もうとした時、バッグの中の携帯電話が鳴る。英児用の着信音。でも琴子は取らずに、タクシーに乗り込む。

 車が走り出し、琴子は携帯の電源も切った。

 「嘘つき。私、嘘つき」

 タクシーの後部座席で、琴子は一人涙をこぼし、声は必死に堪えた。

 どんなことがあっても、あなたのそばにいるからね。

 彼に何度もそう言ったのに。彼がそれをとても喜んでくれたのに。嘘になってしまった……。

 でも『どんなことがあっても、きっとあなたのこと好きよ』。

 こんなことがあっても。彼が好き。それだけは嘘じゃない。嘘にしたくない。

 だから待っている。あなたが過去を終わらせて、私のところに身軽になって来てくれると。

 その時はまた、真っ黒なスカイラインで颯爽と現れてくれる?

 桜が咲きそうな雨上がりの夜。初めて出逢ったあの時みたいに。


 


 

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