4.えーー、姫様だっこ!(私もして欲しい!)
通りすがりに出会っただけの人は、本当に一瞬だけの縁。二度と出会わない。
それとも、あんなことがあったから、彼から二度と会わないよう、もうあの煙草屋の前を通るのをやめたのかもしれな。
いまでも残業で遅くなって、あの日と同じ時間なら、また自販機の前に黒いスカイラインが停まっていて、彼も自販機前に立って煙草を買っているのではないかと……、ひそかに期待している自分がいた。
その度に、琴子の耳の奥で『女の匂いがした』という彼の声が聞こえてきてしまう。
あの後、とても身体が熱くなってしまいドキドキして変になった。
だって。よくよく思い返したら『やりつくしてへとへとになって力尽きる前の女は色っぽい』なんて。まるで男とベッドでやりつくして力尽きた女と並べた例えじゃないかと気が付くと、とても『エロティック』に琴子は感じたのだ。
でも、嫌じゃなかった。セックスで愛し尽くしてへとへとになった女も悪くないなら、それと同様に夢中になってやった仕事でへとへとになってやりつくした姿が、愛を尽くした女の姿と重なったなら――。変なのかもしれないが、認められたような気がして。愛し合う女の懸命さと同等だと言ってもらえた気がした。しかもベットじゃなくて日常の姿で褒めてもらえた。
琴子は、後から湧き上がってくる嬉しさを長く噛みしめている。
だけれど。彼とは二度と出会わない。
もうコートを着る時期もあっという間に終わってしまい、季節も変わり、あれから二ヶ月ほど梅雨の時期に入ってた。
この時になって、琴子はまた新たなため息をついていた。
桜の季節にいただいた『見合い話』が、いとも簡単に破談になったのだ。
どんなお見合いだったか? 見合いなんてしなかった。見合いをする前、日取りを決める前に、どうしたことかあちらから『お話はなかったことに』とパパ社長のところに申し出てきたとのことだった。
理由もいたって分かりやすい。介護が必要な母がいる一人娘だから。ということだった。家に入ってくれない、頻繁に実家に帰る可能性がある。そして、夫となるお相手の男性がそんな面倒な条件を知って敬遠したのだろう。あるいは彼の両親がかもしれない。
だがそれを聞いて、琴子の中でふっと肩の力が抜けた感があった。意外だった。『良かった』とか思ってしまったのだ。やはり知らない男に全てを晒して任せて分かり合おうとするなんて、かなりの骨折り、普通に出会う男と変わらないと悟ったからだった。
それに、男親を亡くして、母娘女手だけで細々と暮らしている家庭を理解してもらえない了見の狭さを持っているなら、こっちからお断りだった。
せいぜい自由になるなんでも揃っている若いお嬢さんでも見つければいい。……まあ、たぶん。あの様子では若い子には相手にしてもらえないから琴子クラスのアラサー女のところに話が来たのだろうけど。琴子もそう言い聞かせて、沈む心をなんとか奮い立たそうとしていた。
「悪かった。本当に悪かった。親父もへこんでいるからさ、もう二度とあんな余計な世話もしないと思うから勘弁してやって」
「もういいですよ。社長ったら……」
「しかし、許せない男だな。本当に許せない男が多すぎる。許せない」
『せめて嘘でもいいから見合いの席をやり通せよ、馬鹿。向こうから振ってきた話だぞ』と……ジュニア社長の怒りもおさまらない様子だった。そうかしら。この程度の男なら、わざわざ会って知った声など耳に残らなくて良かったぐらい。――というのが琴子の心境、本心。
それでも。ジュニア社長は根に持つこと十日ほど、その間ずっと琴子に頭を下げていた。それどころかパパ社長まで琴子のところにわざわざ足を運んで謝りに来てくれた。
それからパパ社長が暫く元気をなくしてぼんやりしてしまったりして、見合いを断られたことより、社長親子の慌てぶり動揺ぶりに困り果てたほどだった。
それだけじゃない。やはり一番ショックを受けていたのは『母』。
『やっと良いお話が来た』と、それは喜んでいた。しかも勤め先の社長さんからのお話。これは確かだと。長年黙ってやるべき事をやってきたから舞い込んできたお話よ、これは琴子へのご褒美だと、ずっと塞ぎがちだった母がいつになく明るくなった。
でも。だからこそ琴子は怖かった。もし……この話が駄目になったら? 当初からの不安が的中してしまう。
破談を伝えると、母は『どうして』と怒り始めた。勿論、母が原因のひとつだなんて口が裂けても言えなかった。どう言えばいいのか。
「私、仕事を続けたいって伝えちゃったのよね。あっちはいまどき家に入って欲しい人だったみたいで」
嘘をついた。そして母は訝しそうだったが、それで納得してくれた。だが逆に琴子が母に小言を言われた。『仕事を続けるか続けないかなんて、あとで言えばいいことを。どうして会う前に決まり切ったように伝えてしまったのか』――と。母を庇ったはずが、その矛先が自分に跳ね返ってくるなんて『理不尽だ』なんて思いながらも、もうこうして三年『へとへと』だから言い返す気力もない。
そんな文句を言っているうちもまだ良い方。本当に困るのは、その後、母が落ち込んで落ち込んで元気をなくしてしまい、普通の会話が出来るまで数日はかかってしまうことだった。
「お母さん、元気になったか」
ジュニア社長も心配してくれる。家の事情を知って案じてくれる一番の人だった。
「いいえ。いつも通りです。ですから、社長もお気遣いなく。来週には元の母に戻っていますよ、きっと」
その浮き沈みのパターンは、もうジュニア社長も周知だったから、ため息をつきつつも納得はしてくれる。
このような状態を抜け出すため、琴子は母を誘う。
「たまには外に食事に行こうよ」
篭もりっきりで塞ぎがちの母を、こう言う時は外に出してあげる努力をする。次の休日の夕、琴子は母を連れてこの界隈で人気の『トンカツ屋』に連れて行くことにした。
―◆・◆・◆・◆・◆―
土曜の夕、運転免許を持っていない琴子はタクシーを呼び、杖をつき足を引きずっている母を支えながら出かけた。
わらぶき屋根という田舎風の佇まいをみせるその店は、とても大きな店で、土曜日とあって満席に近かった。だがそこを踏まえて早めに来た甲斐もあり、母娘は待たずに席につけた。
「人、多いね」
すっかり閉じこもりがちになった母が怯えている。前はそんな人ではなかった。むしろあちこち出かけて家にいなくて、いつも父が『母さん、どこに行ったか琴子は知っているか』と困った顔で聞いてきた程のアクティブママだった。
「やっぱりここのヒレカツは美味しいね。お父さんも大好きだったし。はあ、美味しい」
なんとか楽しくしようと心がける。そして母もやっと笑顔になる。
「そうだね。よく来たよね。お父さんと」
「そうそう。お父さんたら、トンカツが来るまで待てなくて、ビールにおつまみをいっぱい食べちゃって、トンカツが食べられなくなるの」
「そうだった、そうだった。それで最後は琴子が得するんだよね」
懐かし話で盛り上がった。母の食も進んでいるようでホッとした。これで気分転換完了、明日からお留守番ばかりでも元の母に戻ってくれているだろう――。そう確信できると琴子の心も軽くなってくる。
『ご馳走様』。席待ちの人々が目立つ頃、母娘の食事も終わったので会計をして帰ることにした。
レジ前の席待ちの人が多いこと。どの椅子も誰かが座っていて、母を休ませる場所がない。
だが親切な方は必ず一人はいて『どうぞ』と席を譲ってくれた。御礼を述べ、琴子も急いでレジで会計を済ませる。振り返ると母もゆったり構えて待っていたので安心してお手洗いへと琴子は向かってしまった。
戻ると――。そこに、母がいない。どうして? 琴子は辺りを見渡す。
満席で賑わう店内、大きな膳を持って忙しそうに行き交うスタッフ達。席待ちの椅子も満席で立っている人もいるし、ひっきりなしに人も入ってくる。騒然としている中、母を捜すのだが見つからない。
微かに女性が泣き叫ぶ声が聞こえた気がした? 店の外だった。しかもなんだか人だかりが出来ているような? もしかして……。ざわつく胸を抑え、琴子は店の外に出た。
「大丈夫ですか」
「お一人ですか」
「放して、ほうっておいて!!」
その光景に愕然とした。段差がある店の階段の下で、母が杖を転がして倒れている!
そこで幾人かの人々が身体を起こしてあげようと手添えをしようとしているのだが、母が泣き叫んで抵抗しているところだった。
「お母さん、どうしたの!」
飛び込むと、そこにいた人達がホッとした顔をした。
「娘です。有り難うございました。もう大丈夫ですから」
自分達ではどうにもならないと悟ったのか、『それなら良いけど』と皆立ち去っていく。
「どうしたの、お母さん。どうしてあそこで待っていてくれなかったの」
だが母は唇を噛みしめ、そして地面に手をついたまま項垂れ顔をあげてくれなかった。ずっとすすり泣いている。
「タクシー呼ぶから、帰ろう」
母に手を添えたが、『放っておいて!』と激しく振り払われた。娘の手すら、拒否される。やっと気分が良くなってくれたと思ったのに……。
どうしようもない虚しさがこみ上げてくる。へたり込んでいる母を見てると、惨めだった。そして情けない、目を逸らしたい。ここでへたり込んでいる人は、昔はもっと凛としていて、どんなことも包み込んでくれ琴子を全身で守ってくれた人、そして愛してくれた人、育ててくれた人。『なんでも頼ってきた人』だった。なのにこの姿。それだけならまだしもここで『おまえたち、大丈夫だよ』とさらに包み込んでくれていた大きな存在だった『父』がいない。
やるせない。本当に逃げ出したい。もうこのまま……。
「お母さんさ。妊婦さんに席を譲ってあげていたんだよ」
しゃがみ込む母娘の頭の上から、そんな男性の声。
見上げると、紺色作業着の見覚えある人が!
名前で呼びたいが、名前を知らない。スカイラインの煙草のお兄さん。それぐらい。だがあの日の彼がそこにいた。
「でも妊婦さんも気遣って座らなかったから、お母さんが『もう店を出るから良いの』と言って杖をついて自分から外に出て行ったんだ。俺はそこだけしか見ていないけど、すれ違った客が『階段から転げ落ちた』と言っていたぜ」
驚いて、琴子は母を見た。
「そうなの。お母さん……」
だが、母はそれを隠したかったのか、あるいは気遣いたかったのに結局誰かの手を借りなくてはいけない無様な姿になってしまったから、情けなくてどうしようもないのか、またぐずぐずと泣き出してしまった。
「俺、付き添っているから。いまのうちにここまで車を持ってきなよ。お母さんを歩かせなくて済むだろ」
「その、車じゃなくて。タクシーで来たの。今すぐ呼ぶから大丈夫です」
バッグから慌てて携帯電話を出したのだが。
「なんだ。そういうことか」
唐突だった。目の前で彼が紺のジャケットを脱ぐと、バサッと琴子へと投げつけてきた。思わず琴子も受け取ってしまう。煙草の匂いが染みこんだ作業着風ジャケットを。
「それ俺の大事な仕事着だから、持って逃げるなよ。そこで待っていてくれ」
え、え。どういうこと? 琴子が迷っているうちに、白い半袖ティシャツとデニムパンツ姿になった彼がどんどん駐車場の奥に行ってしまう。
だが、暫くするとあの音。
ブウンブウンと高鳴るあの激しいエンジン音。まさか。
そう思った時には琴子としゃがんでいる母の目の前に、あの黒いスカイラインがキキッと停車していた。
彼が運転席から出てくる。
「あの」
確かめようとしたが、彼はもう後部座席へ乗るドアを開け、まだしゃがんでいる母へと跪いた。
「お母さん、送っていきますよ」
母もギョッとした顔を彼に向け、そして戸惑いで硬直しているようだった。だがあの彼に迷いなんてない。コートを持ってきた時のように、さっと行動する。
そんな彼だから、躊躇いもせずに母をざっと抱き上げていた。琴子は目を瞠る。『うっそ。私だって誰にもあんな格好良く抱き上げられたことないのに!』と思うほど、彼は勇ましく母を軽々と抱き上げていた。
「ちょ、ちょっと。こ、困ります」
もちろん母も仰天している。だが彼が笑った。
「やっぱり親子ですね。お嬢さんも困ります困りますって繰り返していた」
そこでやっと母が琴子を見た。『誰、この人?』という眼差し。だがその隙に、手際よい彼に後部座席に乗せられてしまった。
母に有無も言わさずドアを閉めた彼が、地面に落ちている杖を拾う。
「送るよ。あの煙草屋の近所なんだろ」
琴子も素直に頷く。
「それとも。俺なんかが行くより、親父さんに知らせた方が良い?」
「父は数年前に……」
「そっか。お母さんの足、後遺症だろ。大変だったんだな、姉さんも」
まただ。たったそれだけで、琴子が持っているものを彼はざっと見通してしまう。この『言わなくても気がついてくれる』という感触――。
「レジで姉さんを見かけてびっくりして」
「知らなかった。あ、お食事の途中だったんじゃないの」
「いや。ここ混むから、早めに来て食べ終わったところ」
その証拠とばかりに、くしゃくしゃに握りつぶしているレシートをみせてくれた。嘘じゃなかったし、それだけで琴子が気遣わなくて済む。そんなところ、けっこうきめ細かい人と感心してしまう。
「乗ってくれよ。せっかく再会したんだからさ」
本当ね。本当に再会した。狭い街の、誰もが知っていて週末には混む店だからこその再会かもしれなかった。
「有り難う」
素直に微笑むと、あの日と同じ、優しい目尻の笑みを彼も見せてくれた。
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