3.へとへとになった女は色っぽいんだよ
紺色の作業着姿の男。長めの黒い前髪をかきあげ、運転席のドアを開けて出てきたところ。
ドアをばんと閉めるとくわえ煙草で琴子を真っ直ぐに見据える。
その眼差しがちょっと怖かったので、琴子は昨夜同様、一気に身体が硬直した。
だが彼は琴子の様子は意に介せず、今度は後部座席から大きなペーパーバッグを取り出した。トートバッグみたいに肩にかけないと持ちにくいだろうと思えるほど大きなショップバッグ。
「これ。みつけたんだ」
前置きもなにもない。ただその大きなショップバッグを琴子に差し出している。
だが次に彼が琴子に見せた姿は、丁寧に頭を下げ詫びている姿。
「昨夜は申し訳ありませんでした。完全に運転をしていた俺の不注意でした」
昨日、一目見ただけの男性。確かにコートは彼のせいで駄目になってしまったが、だけれど通りすがりに近い男性にそんなに頭を下げられても琴子も言葉にしにくい。
「やっぱり。昨日のコート、着られなくなったんだろ」
くわえ煙草の彼が琴子の格好を眺める。昨夜のように上から下までジッと眺めている。確かに、今日の琴子は五年前に買った古いスプリングコートを羽織っていた。だいぶくたびれたことと失恋した勢いで新調したが、あの様なことになり古いものを着ざる得なかったから。
「かなり黒い泥水だったからさ。俺もこの仕事着に泥水跳ねると落ちないことあるから判るんだ。あれは絶対に落ちない汚れだと思うと申し訳なくて」
だから? だからなに? どうしてそれでそんな大きなバッグが登場してるわけ?
何が起きているか『判っているのに』、でもどうして、こんな事がいきなり起きているのか琴子にはすぐに飲み込めなくて固まったまま。
「受け取ってくれよ。突き返されても、俺に着るあても他の女にやるあてもないから」
ぶっきらぼうに、とにかくバッグだけを『ほら』と突きつけてくる。
「こ、困ります」
「なにいってんの。あのコート、買ったばかりのコートだったんだろ。三万円」
な、なんであのコートを一目見ただけで? 買ったばかりってわかったの? しかもプライスまで当ててしまうの!? 琴子はびっくり。
もしやアパレル業界の人? 一瞬でもそう思ったが、即座に首を振る。まさに『若い時は粋がっていたヤンキーでした』と物語っている風貌の男性。そんな男性が何故何故、彼等とはかけ離れたスタイルのブランドメーカーの相場を言い当てられるの? 困惑するばかり。だがそうして眉をひそめて黙っていると、彼から致し方ない笑みを見せてくれた。
「ほら、ここ見てくれよ。姉さん行きつけの店なんだろ」
突き出しているペーパーバッグのロゴを彼が指さした。それを知った琴子は二度驚く! 本当に自分がいつも服を買いに行く、しかも新品のトレンチコートを買ったショップのバッグだったから。
「ど、ど、どうして」
どもって混乱しているばかりの琴子を見て、やっと彼がにっこりと微笑む。柔らかで暖かそうなしわが目尻に滲むその笑顔は、思った以上に爽やか。
「俺も驚いたんだ。姉さんに弁償しようと思って。とにかく百貨店なら間違いないだろうと思って、似たようなコートを探しに行ったんだよ。そうしたら、店頭にまったく同じコートを店先に着せている店があったんだよ」
あ。と、琴子もやっと飲み込めてきた。
『流行最先端』だと思って買ったあのコートには一目でわかる特徴がある。春らしいパステルグリーン色で、凝っているのはボタンまでマラカイトのようなピーコックグリーンというトレンチだったから。
「これだ、これだ、良かった。同じのがあったと俺もびっくりしてその店に入ったら、なんだって、ああいう店の服は『サイズ違いの一点もの』なんだって?」
そう。琴子が買ったコートが38号、40号も既に売れていた。
「でもさ。その同じコートがもう42号一点しかないっていうんだよ。でも一点ものてすごいよな。ショップの姉ちゃんに『同じコートを着ていた人に、同じコートをまた買ってあげたいんだ』と言ったら、すぐにアンタだって分かったみたいだ」
一点ものの奇跡? でもそのコートはもうこの界隈ではないはず。同じコートはないはずなのに、じゃあ、彼が琴子に差し出しているそのコートはいったい?
「それで。そのショップの姉ちゃんと相談してこれ選んだから。着てくれよ」
自分のことが分かっているスタッフが選んだという言葉でバッグの中にある弁償用のコートが『どんなコート』か琴子には判ってしまう。もし予想が当たっていたら『絶句もの』。そんなことあってはならない。
だが迷っていると、業を煮やした彼が『チ』と舌打ちしながら琴子へと近づいてきた。
「いいから。なにも気にしないでこれ受け取ってくれ」
「困る、本当に困る! だって、もしかして、このコートって。あのショップで私を接客してくれた彼女と選んだってことでしょ」
すると彼も琴子に何かを気づかれたことを悟ったのか、バツが悪い顔になった。だからこそ、彼が慌てるようにして琴子の手を強引に取りバッグを持たせた。
強い勇ましい力だったので琴子も逆らえず、そのままバッグを握ってしまう。その途端、彼もすぐに背を向けて車へと戻っていってしまう。
流されるまま。こんな『良い思い』をするわけにはいかない。だから琴子は彼の背を追いかけ叫んだ。
「困る、だってこのコート。私、昨日の汚れたコートと迷いに迷って諦めた……あれよりずっと高い……」
「しらねーよ!」
追いついた琴子に彼が乱暴に言い返してきた。また琴子はビクッと怯えてしまう。
そうしたらまた、彼も『しまった』と申し訳ない顔に崩れた。
「俺はそれで良いと思ったから。それに……似合うな、っておもったからさ」
え……。なんだか急に照れくさそうに口ごもってる? そして居心地悪そうに琴子から目を逸らした。
居たたまれなくなったのか、彼が運転席のドアを開けてしまう。
「待って。あ、ありがとう」
返したら怒鳴られそう。受け取るまで怒りそう。それだけ俺が真剣に買ってきたんだからって。だから琴子も折れた……。
すると彼がやっとホッとした顔。火をつけたまま指に挟んで持っていた煙草をスッとまた口に銜えた。真っ黒なスカイラインのルーフにふっと煙を吐くと、そこに頬杖をついて、急に琴子をじいっと見つめて動かなくなる。そんなに真っ直ぐ見つめられ、琴子も居たたまれなくなる……。それによく見ると目鼻立ちはっきり、睫毛は長くて黒目が大きくて、けっこういい男?
「あのさ。本当は煙草なんて吸わないんだろ」
また驚くことを言い当てられ、琴子は目を丸くして彼を見返した。
「煙草吸っているやつって、どんなに香水振っている女でも分かるんだよ。姉さん、そんな匂いしなかった」
喫煙家の鼻なのだろうか。それとも、鼻が利く人? それなら徹夜明けで風呂も入れなかった汗くさい女だって逆に思ったんじゃ……? 急に琴子は気にしてしまう。
「でも、昨夜の私すっごいぼさぼさで、徹夜明けだったからすっごい汗くさかったかも……」
初対面があんなボサ女なんて最悪だろうから、笑って誤魔化した。
だけど……。また彼が、優しい目尻のしわを滲ませながら、ふっと微笑んだ。
「昨夜、雨上がりでムッとした空気の中、アンタから女の匂い、スッゲー匂ってきてた」
え? あの汗くさいのが女の匂い? 琴子は唖然とする。まったく例えが分からない。
「仕事やりきって、やりつくしてへとへとになって力尽きる前の女ってさあ。色っぽいんだよな。昨夜の姉さん、それだったわけ」
え、え、なにいってんの? このお兄さん?? 面識ない男性に『色っぽい』なんて言われて、琴子はびっくり飛び上がりそうになる。
「汗まみれでやりつくした女の匂いってさ。甘酸っぱい身体の匂いの中に、今にも消えそうな香水の残り香がまざってんの。俺、久しぶりにそういう女の匂いに出会ったわけ」
えー、なにそれ。っていうか。このお兄さん。『けっこう女慣れしている?』。琴子は仰天した。彼がそう見えなかったとかではなく、そんなことを言う男に初めて出会ったからだった。しかもすっごい動物的で刺激的な例えを平気な顔で言ってくれたので、頭が熱くぼうっと沸騰しそうだった。だってもう頬も熱い。きっと顔も赤いと思う!
「だからさ。いつも気をつけていた水溜まりにはいっちゃったわけよ。ま、そういうこと」
急に早口になって言い切ると、彼が運転席に乗り込んでしまった。
「嫌なことあったからって煙草はやめておけよ。吸ってる俺が言っても説得力ないかもしれないけど。昨夜の徹夜明けの姉さん、格好良かったぜ。あのコートも似合っていたからさ。それも着て、頑張ってくれよな」
ドアがバタンと閉まった。昨夜は嫌だったけたたましいエンジン音が響く。琴子が立っている前にある太いマフラーがブウンブウンと唸り、琴子に『そこどけ』とばかりに脅かした。
驚いて飛び退くと、それと同時にギュギュッと黒いスカイラインが道に飛び出していく――。
「ま、まって……」
でも。走り屋の男は去っていってしまう。琴子を熱くさせて、びっくりさせて。そして……感動させて。
なにも、言えなかった。『ありがとう』しか言えなかった。なのにあの人――。『嫌なことがあったからって煙草はやめておけ。そのコートを着てまた頑張りな』なんて、昨夜、ちょっとだけ一瞬だけ肩を並べた女のことを、そこまで考えてくれた人。理解しようとしてくれた人。力尽きそうだった琴子のくたびれた姿を、あんなふうに言ってくれるだなんて。胸が熱くなっている?
でも、きっともう……。
彼の車のエンジン音が、まだ遠く聞こえている。
静かになった煙草店の前で、琴子はもらったショップバッグを開けてみる。
『やっぱり』。申し訳なく目を閉じた。
三万円のグリーンコートと、どちらにしようか迷いに迷って諦めた『六万円のトレンチコート』だった。
こちらはオーソドックスにベージュ色。まさにトレンチの王道というデザイン。だけれど『サマーウール100パーセント』という上質素材もさることながら、あまり流行に偏らない、でも羽織ると抜群のスタイルラインを作ってくれるコートだった。
値段が高いこと、スプリングコートは着る時期が短いこと、そしてなによりも上質素材だけに『しわ』になりやすい欠点を言い訳にして、諦めた。
スタッフの女の子も迷っている琴子に、こんなアドバイス。『サマーウールだから出来たしわも、暫く吊っていればスッと取れはしますよ。でも最近は、しわが出来るものほど上質素材と見て理解するお洒落な人も減りましたから、しわがある服は敬遠されがちですよね。お手入れがしやすくて、しわになりにくい扱いやすいものが毎日着るのに困らないかも』というアドバイスが最後の決め手となり、三万円の化繊入りハーフコートへと決断した。
でも上質素材のロングトレンチを羽織った自分は、とても大人に見えた。大人の上質感はやはり素材と縫製だと思った。だけど倍の値段、踏ん切りつかなかった……。そのコートが今、自分の手にある。
あんな、着ることに興味がなさそうな男性が、煌びやかな百貨店に行ってポンと即決で買ったならショップのスタッフもびっくりしたかもしれない。しかも琴子と関係ある男性だと知ってしまったようだし。だから琴子がこのコートを買うどうか迷っていたから、彼に『あのコートが駄目になったなら、こちらを琴子さんは喜ぶかも』と勧めたのだろう。彼も彼で、それを信じてあっさり買ってしまうなんて――。
でも、すごい。きっぱりと迷いがない決断と判断だと思った。かえって気持ちが良い人だと思った。 ――でも、きっと。
「もう二度と会えない……ね」
そう思った。なんだかちょっと残念に思えた。
自販機の側に桜の木、花びらがひらひら。夜桜、夜風、そして煙草の匂い。
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