2.いやーっ ヤン兄再び。怖いっ(≧д≦)

 結局、トレンチコートの染みは落ちなかった。もう着るような状態に戻せそうにない。一応クリーニングにも出したが、きっと全ては落ちないだろうと思うと、琴子の気分は余計に沈んだ。


「これ、全部チェックしたから。製版に回して」

 社長が版下を数枚、差し出している。それを受け取り、琴子は事務所を出た。

 歩いて数百メートルのところに、社長の父親が経営している印刷会社がある。

「版下、あがりましたー」

 製版室で『うっす』と男性達が気合いを入れる声が響いた。

 まず託された版下を製版課長に手渡す。彼も疲れた顔をしていた。誰もが徹夜明け。特に最後に仕事が回ってくる製版室のマックオペレーター達の作業時間は納期との戦い、昼も夜もなく苛酷を極める。

「やっと発注分も落ち着いたなー。はい、サンキュ。割り振って仕上げておくよ」

「お願い致します」

 繁忙期より少なくなった版下原稿を眺め、課長もホッとした顔。

 透明なアクリル壁、仕切の向こうでマッキントッシュの画面に向かって製版をしている男性達も眠そうな顔を揃えていた。だが琴子を見つけた途端、笑顔を見せてくれる。

「琴ちゃん、昨夜はアシスタント、サンキュー」

「いいえ、間に合って良かったですね」

「今度、俺達、飯おごるわー」

「楽しみにしていますねー」

 製版室にいる兄貴達が手を振ってくれた。琴子の古巣だった。今や製版制作もデジタル化。マックとマウスひとつで製版出来るようになる前の手作業の時代に、そこにいる兄貴達に職人的な製版技術を叩き込んでもらった。だから間に合わなければ、デジタルでもアナログ手作業でも彼等のお手伝いができる。納期が差し迫っていたから手伝った。

 製版室を出るドアの壁際、そこにデスクがふたつ。ドアを出ると外に出られるのだが、そこでも呼び止められる。

「琴ちゃん、昨日は手伝ってくれて有り難うな」

「もう検版、てんこもりで間に合わなくて助かったわよ」

 こちらは中年男性とベテランおばさんの二人組。たった二人だけで出来上がってきた製版の最終チェックをしている。琴子もこの過程に携わる仕事を一年ほどしてきたから、ここも古巣か。

「二人じゃ無理ですよね。社長ジュニアにもいつもそう言っているんですけど」

「本当、ジュニアさんによく言っておいてよ。琴子ちゃんを取っていっちゃったんだから」

 部署責任者の男性がため息をついた。

 昨今のデジタル化に伴い、昔気質な製版員が徐々に自主退職。社長が仕入れるマックの台数も限りがあり、琴子もいよいよ居場所がなくなって転職をせねばならぬかという時、文句も言わずにどの部署もこなしてきたことを認めてもらえたのか、息子が興したデザイン会社へ抜擢されたのだ。

 そこでデザイナー達が原稿を制作、アナログ版下やデーター入稿を作るまでがジュニア社長デザイン会社の仕事。出来上がったらパパ社長の印刷会社が製版、印刷という流れで業務を行っていた。

 デザイナーをやりたかった時期があったのも本当だが、今はデザイナーの苦労を目の当たりにしているので、如何に自分に才能も忍耐もないか良くわかっている。この会社の仕事を流れを良く知っている琴子が社長ジュニアのアシスタントとして望まれたということだった。

 ちなみにジュニアといえども、若社長は四十代のおじさんで既婚者。中学生の子供がいる。社長から見ても琴子から見ても異性としてはひとまず対象外で、そこのところは気の置けない仲で仕事が出来ていた。


 事務所に帰ると、ジュニア社長が応接ソファーでデザイナーと向き合っていた。帰ってきた琴子と目が合うなり、いつも堂々としているジュニア社長が気まずそうに目を逸らす。そして琴子もドキリと固まる。

 若社長と向き合っているのは、ついこの間、琴子と別れた彼だった。

 いまどきの緩いパーマをかけた茶色の髪、カジュアルでもきちんとしているトラッド系スタイル。白いVネックセーターに赤いチェックシャツ、そして黒いネクタイ。そんな見慣れた男の後ろ姿があった。

 彼が振り返り、帰ってきた琴子と目が合う。こちらの男もすぐに琴子から目を逸らした。

「お世話になりました」

「こちらこそ。またご縁があれば依頼するかもしれませんが、新しい契約先での活躍を祈っていますよ」

「有り難うございます」

 挨拶が終わり、席を立った彼は素っ気なく琴子の側をすり抜け、出て行ってしまった。

 ドアが閉まった音を聞き届けるなり、ジュニア社長がソファーに身を沈め伸びをした。

「今月いっぱいで契約解除したんだ」

 『え!』とだけ驚き、暫し琴子は固まった。

「でも。フリーランスのデザイナーにとって契約をひとつ失うのは大打撃ですよ。それに彼……ここでの仕事が一番多くて」

「しょーがないじゃないか。あっちから『他の会社と契約したので、ここの仕事まで出来ない』て言ってきたんだから」

 『ええ!』、今度の琴子は目を丸くした。

 ジュニア社長お抱えのデザイナー社員はこの会社では五名ほど。おかげさまで業績は上々なのだが、その為に数人程度では間に合わない時がある。なのでそのような時は、フリーランスのデザイナーに外注することもある。琴子とフリーデザイナーの彼はこの事務室で出会った。つまりはジュニア社長のアシスタントになって、そして社長が彼をこの事務室に連れてきたのが出会い。ジュニア社長とのビジネス面での付き合いも長かったようで彼にとっては『一番太いパイプ』だったはずなのに。その仕事を自ら断っただなんて――。琴子は呆然とした。そんなことで、あの人やっていけるの?

「やっぱ気まずいんじゃないの。琴子が俺のアシスタントだから」

「そんな。私達が破局したことと仕事は関係ないじゃありませんか」

 そう思ったから。迷惑にならないよう別れた後も彼が来るスケジュールの日は、なるべく事務室を出て隣の印刷会社にある製版課をうろうろしてやり過ごして来たのに――。

 しかしそこでジュニア社長が呆れた半笑いをすると、手元に残っていたコーヒーを飲み干した。

「琴子。俺、黙っていたけどさ」

 急になにかを決意したように社長が低く呟く。

「あいつ、才能ないと思う。たぶん、次に契約したってところ、俺の会社と契約していたより短く切られると思う」

「そんな……」

 だがそこでジュニア社長に睨まれ、琴子はビクッと背筋を伸ばした。

「恋は盲目だったわけだ。でも、琴子も本当は気が付いてたんだろ。俺もさ、付き合いが長いし仕事は仕上げてくれるからこれまで契約は継続してきたけどな。ここ数年のあいつの仕事、出来は良くなかった。俺がそう思っていたんだ。琴子だって本当はわかっていたんだろ」

 琴子は黙り込む。……そして唇を噛んだ。社長の言うとおりだったからだ。出会った頃、三年前の彼にはまだやる気と勢いがあった。でも……近頃の彼の仕事はなんだか『とにかくこなしている』といったふうで、熱意も独創性も感じさせずおざなりだった。それはわかっていた。わかっていたが、デザイナーがそんなしょっちゅう絶好調であるわけはない。これはスランプだからと黙って見守って。

「そもそも。結婚でもしようかと思っていた女の母親がさ、具合悪くなった途端に手のひら返したように冷たくなる男の気の持ちようってその程度な訳よ。デザインの出来にしたってよ、その前から、なんだか適当だったしな。なのにこっちの要望に対して柔軟性ナシ、自分だけの世界からなかなか出てきてくれなかった。俺も裏切られた気分なわけ。そこへきて、別れた女がいるからやりずらいと正直に言うならともかく、よその契約が条件が良くなったからと向こうから契約辞退してきやがった」

 それも裏切りだと、徐々にジュニア社長の声が荒ぶる。落ち着くためか、ジュニア社長がいつもの煙草をくわえる。火をつけて一息つくと社長はどこをみるとでもなく煙を吐いて言った。

「才能も大事だけどさ。フリーランスやっている以上、人付き合いも重要なわけよ。女と顔合わせ辛いのひとつで、こうも簡単に切ってくれるような男なんて、もういらんわ」

 かなりご立腹。まるで社長が恋人に裏切られたかのようだった。

「琴子さ、あいつと縁が切れて俺は良かったと思っているんだよ。親父さんも病気で亡くして、翌年におふくろさんが脳卒中で倒れて、なんとか助かって退院できたが足と手先に軽い後遺症。それを知った途端、めんどうくさそうにお前を避けて、その上別れもお前から言わせた男なんて――やめておけ」

 いま、社長が言ったとおりの数年間だった。このデザイン事務所に慣れてきた頃、両親を立て続けに襲った不幸、そして介抱。この社長の寛大な処置で、なんとか琴子は母と二人で父親を看病し無事に見送ることが出来た。ほっと一息ついたら今度は母が……。

「もう未練なんてありません。なんか、私も、冷めちゃって」

 半分本当で、半分は強がり――。

「そうか。それならいいんだけどな」

 応接用の灰皿に煙草をもみ消したジュニア社長が立ち上がると、窓際の自分のデスクに戻っていく。

「だったら良かった。ちょっと俺もさ、どうしようかと思っていて」

 『ちょい、こっち来な』と手招きをされ、琴子は首を傾げながら社長のデスクへ。向き合うとジュニア社長が大きな封筒を差し出している。

「これは? なんの仕事ですか」

 仕事なら淡々と手渡してくれる社長が、バツが悪そうに黒髪をかいた。

「親父から頼まれていたんだよ」

「社長から?」

 とりあえずそれを受け取り、中身を確かめ、琴子は絶句した。なんと『見合い写真』だったのだ。唖然としてジュニア社長を見ると、彼も面白くなさそうに顔をしかめる。

「あの男と琴子が別れたことを知った親父がさ。なんだか待ちかまえていたようにこれを俺に渡したわけよ」

「こ、困ります。だいたい今はそんな気分ではありません」

 『わかってる、わかってる』とジュニア社長も断ろうと必死になる琴子の勢いを制した。

「俺もこれ渡されて『あちゃー、田舎親父のやりそうなことだ』て脱力しちゃったぐらいだよ。とにかくさ、見るだけ見たってことにしておこうや」

「そ、そうしてくださいませ」

「あ、でも一応その気になってみてもいいと思うんだぜ。俺も見ちゃったけど、悪い男でないことは確かだ。ただ無難なのな。熱いロマンスになる確率は低いから、そこは期待するなよ」

 若い頃、修行と称して東京に出ていた社長らしい軽い物言いだったので、琴子は笑ってしまう。

「そうですね。見るだけ見ておきます」

「俺も見合い結婚だったしな。なーんかどの女も良くて決められなかったから、これで良かったんだと思っているんだよ。家業を理解してくれるいい女房だし。結婚なんてそんなもんよ。毎日、暮らせそうな人間と出会うことが大事なんだってね」

 かなり女遊びをしてきた――というのが、東京帰りであるジュニア社長の『武勇伝』。でも見合い結婚で平穏な家庭をもち、次期後継者としてのしっかりした足固めも着々。ジュニアなりに築いた日常がそこにある。

 でも琴子には、なんとなくうっすらと漠然としてしまい遠い『おとぎ話』に聞こえてしまう。これまで、当たり前のように『誰にでも平等にやってくるんだ』と思っていた『結婚』なんて、今は遠い存在。もう胸が熱くならない。

 その見合い写真を、社長の顔を立てる為に琴子はひとまず自宅に持って帰ることにした。




 ―◆・◆・◆・◆・◆―




 桜、満開の夜を迎えていた。

 見合いか。仕方ないか。ジュニア社長が言うことも一理ある。そうとも思った。

 もう最初から恋をするのも、新しく出会うのも仲を深めていくのも、積み上げていくのも、もうヘトヘトという気分だった。

 結局今日も暗くなってからの帰宅。走る車が減っていく郊外への帰路。自宅に向かいながら、琴子は見合い写真の封筒を抱え、溜め息をつくばかり。


 実家も仕事も男も。ここ三年でひどく琴子を疲れさせすり切らせていた。

 結婚に逃げる訳じゃない。ただ、この状況現状から抜け出したい。果てしなく続く閉塞感に変化をつけるのは、やはり『新しい出会い』ではないかと思うのだ。

 だけれど。時間も精神力もない。だからリスクを避けようとすると、こうした身元が分かっている見合いが一番安心できるのではないだろうか。

 琴子だって――。若い頃から、見合い結婚より恋愛結婚。本当に熱い恋をして大好きな人と結婚することを夢見てきた。でも――今の琴子は孤独感に打ちひしがれている。母がいるが、母ではダメなのだ。どんなに母が愛してくれても。何故ならその母が琴子より疲れ切っているから。

 また、泣きたくなってきた。母の寂しそうな姿が痛々しく、そして全てを汲み取ってやれない『自分のことだけで必死な娘』でしかいられないことに。


 この見合い写真をみたら、知ったら、母も少しは喜んでくれるだろうか。

 ――いやいや。琴子は首を振る。まるで結婚が決まったかのような気分になっていたが。会ってみて話が駄目になったら、また母ががっかりするのではないか。黙っていようか、どうしようか。

 うつむいて歩く靴先に、はらはらと舞う薄紅の花びらがどこまでもついてくる。


「こんばんは」

 考え事の帰り道。唸りながら歩いていると急に話しかけられ、琴子はハッとして顔を上げる。

「良かった。また昨夜ぐらい遅い時間のご帰宅かと思った。今日は早かったんだな」

 息が止まる。目の前にあの黒いスカイライン。

「待っていたんだ」

 そして同じく紺色作業服姿の煙草の男がそこにいる!

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