ワイルドで行こう〈2018〉
市來 茉莉
1.スカイライン。許さない!
今日こそ『煙草』を買ってやる。
吸ったことなんてないけど、買ってやる。
ちらほらと桜が咲き始めた雨上がりの夜、帰り道。
琴子は古い煙草店の自販機の前に立っていた。
だけれど、どれがどれなのか分からないぐらい並んでいる。
彼が吸っていた煙草の箱、どれ? 『あった』。最上段に君臨しているダンディな箱。琴子は握りしめていた小銭を自販機へ向ける。
「タスポってなに」
そういえば。いつからか自販機で煙草を買うには成人であることを証明するICカードが必要になったんだっけ? じゃあお店でと言いたいが、買う姿など人に見られたくない。
何故、煙草かって。吸ったこともないのに、どうして煙草なのかって。
説明しても『理由が幼稚すぎて』自分自身が情けなくなる。でも、そうでもしないと『今の私、壊れそう!』。そんな心境だった。
自販機にまで逃げ場を拒否されたと思ったら、これまた馬鹿馬鹿しいことだけれど、本当に涙が滲んできた。
春の夜風に痛んだ茶色の毛先と、買ったばかりのトレンチコートの裾がなびく……。静かな郊外、車も少なくなった国道沿い。駅から歩いて数分ほど。昼は閑静な住宅地かもしれないが、夜は外灯も少なく寂しいところ。ますます心が軋む……。
ひとりだからと思って存分に感傷的になって大声で泣こうと思った……。
ほら、涙がこぼれてきた。『うわん』て泣いてやる!
「うわ……ん」悲痛の声がそこら中に響き渡るはずだったのだが、キキキッと荒っぽい音が琴子の声をかき消し、静かな国道の空気を震わす騒々しさが沸き起こる。
驚いて振り返ると琴子の背後に、ギュルギュルとタイヤを鳴らす真っ黒い車が停車。
びっくりして涙も悲痛の声も止まる。茫然としていると、運転席から作業着姿の男性が降りてきた。
人気もない夜道に突如として出現した、妖しく黒々と光る車。しかもその車、すっごく車高が低い。暗い中でも緑色のメーターライトだけが光っている運転席。激しい音楽。暗闇に現れた黒い車なのに、そこが一番煌々と煌めく銀色のホイール。いかにも『走り屋』の――。
まずい、どうしよう……? 夜を横行する男と接触してなにかトラブルにでもなったら!?
一気に身体が硬直する。しかもくわえ煙草のもっさい男! 行かなくちゃ、関わらないよう声をかけられないように、さりげなくここから去らなくちゃ。急に琴子の心臓が騒ぎ出す。
「そこ、いい?」
煙草をくわえたままの男が、かったるそうに目を細め話しかけてきた。自販機前に佇んでいるだけの琴子はビクッとする。
「買ったならどいてもらえる」
作業着風の紺色ジャンパージャケット。なにかの作業員? ぶっきらぼうに言った彼だが、話しかけた女がいつまでも固まって動かないので、訝しそうに下から上までじろじろと琴子を眺め始める。そこでやっと琴子ははっとし自販機から退く。そうだ、関わらずに早く去ろう。踵を返し足早に帰り道へと戻る。
離れたのに、琴子の背後から煙草の匂い。湿った空気に乗って琴子を追いかけてくるようで顔をしかめる。この道をまっすぐ、次の角を曲がったら母が待つ家がある。琴子は急いだ。
そのうちにバタンと車のドアが閉まる音が聞こえ、ホッとした。
男は琴子に関心など持たず、車に乗り込み何処かに消えていってくれる。
再びブウンと唸る黒い車。本当に乱暴そうなエンジン音。耳にかかっていた伸ばしっぱなしの黒髪に、無精髭、気怠そうな眼差し、薄汚れた紺色の作業着、くわえ煙草。だらしなさそうな男。気持ちが荒んでいる琴子は心の中で叫んだ。『さっさとその格好つけた車でどっかにいって!』。表に出ない悪態――。自分だって荒っぽいではないか、最低だ。我ながら情けない……。それでも、琴子の願い通り、その車は雨に濡れた路面にタイヤをギュギュッと鳴らし、アクセルをふかし走り始めた。
だが同じ方向にやってくる。歩道を歩いている琴子の横を通りすがっていくところ。琴子の目の前に水溜まり、そこを避けて先へ進もうと――。
「……きゃっ!」
田舎の路面にできた水溜まり。そこを男の車が通った途端に飛沫が散り、歩いている琴子へと容赦なく飛ばされてきた。
琴子は呆然とするしかなかった。我に返って自分を見下ろすと右半分、黒い斑点が散らばっている! 買ったばかりのトレンチコートなのに、裾から衿まで見事に水玉模様。
「うっそ、信じられない~」
数万円もしたのに! 迷いに迷ってやっと買ったのに! なにこの状況!
泣きたくて逃げたくてへとへとに疲れ果てているのに、さらに拍車をかけるこの不運はなに?
もう本当に涙が滲んできた。急いでハンカチを出して拭き始めると、バタンと車のドアが閉まった音がした。
「ご、ごめん。悪かった! 大丈夫ですか」
あの黒い日産車の男が律儀に車を停めて、運転席から出てきてしまった。しかもこちらに走ってくる。
「だ、大丈夫です」
いや、関わりたくない。しかも涙目の顔なんて誰にも見られたくない。でも、作業着姿の煙草の匂いが染みこんでいそうな男がもう目の前に来ていた。
「しまった。いつもそこに水溜まりができること忘れていた」
黒髪をかきあげ、困惑する彼と目が合う。だがそれを合図のようにして琴子は走り出していた。
「おい、待ってくれよ! せめてクリーニング代……」
振り切るようにして自宅への道を走り抜く――。そこの角を曲がれば、我が家がある住宅地。
近所の家が軒を並べている小道まで来て、琴子はやっと振り返る。そこにはもう、いつも通りの静かで暗い我が家への道があるだけでなにもなかった。
「ただいま」
憔悴しきって玄関を開けると、すぐに灯りがついた。
「お帰り。今夜は帰れたんだね」
母だった。杖をつき、片足を引きずってやってきた。
「琴子、それどうしたの」
「うん……車に泥水を跳ねられちゃって」
「酷い車だね! 待っていなさい、タオル持ってくるから」
「い、いいわよ、母さん。自分でやるから、座っていて」
だが、母は『いいの、いいの』と言って、片足を重たそうに引きずりながら、でも嬉しそうな顔で行ってしまった。
父は数年前に他界した。今はこの家で母娘二人で暮らしている。
昨夜はシャワーも浴びていない。徹夜だった。
折れそうな心を奮い立たせ、この年度末の忙しい時期を乗り切ったばかり。その最後が会社で徹夜、明けたその日一日も夜まできっちり残業。ただいま帰路につく。
化粧が溶けた顔に、ばさばさになった油っぽい髪。ずっとカラーリングもしていなくて、茶色と黒色が生え際で目立ち始めて……。ボロボロだった。
女は綺麗に整った時、凛と出来る。その身なりも整えられない押し迫った状況を強いられ、無事に帰還したところだった。
そんな忙殺される仕事だけならまだしも……。三年付きあった男とも別れたばかり。しかも最悪の状態で。だから、新品でデザイン最先端の春コートを着て、気分を持ち上げようとしていたのに……。
「もういい」
やっとシャワーを浴びてスッキリしたところ、クローゼット前にかけたトレンチコートの黒い染みを見つめ、やっと涙がぽろぽろと落ちてきた。
小さなソファーに座り、クッションを抱えて顔を埋める。この夜、琴子はそのまま眠ってしまっていた。
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