9.迎えに来たよ

 ひと月の内、ある時期を迎えると、また残業続きになる。

 地方誌の発行が近づいていてくる月下旬から、新刊を準備するための印刷が立て込んでくるからだった。あるいは、月初めに企画的キャンペーンを控えている企業の広告やパンフレット等々。

 この頃になると、琴子はデザイン事務所からパパ社長の印刷会社製版課に手伝いに回されることが多い。

「琴ちゃん、これマックで間に合わないから。レタッチしてくれる」

 製版課長から、ダイレクトメールや挨拶状などの小物を回される。

 デジタルじゃない。昔ながらの製版をする。下に蛍光灯をつけているガラス張りのライトテーブルのスイッチを入れ、ネガフィルムを置く。琴子は眼鏡をかけ、カッターナイフ片手に作業開始。

 ああ、今日も夜の十時を越えそう。琴子は覚悟する。夜食をオーダーするか、帰って母が作ってくれた食事をするか。選択を迫られる。でも……ここの出前夜食は油っこいものが多く、下手すると翌日は胃もたれを起こす。まだまだ続く月末の山場、ここは空腹を我慢し、帰宅してゆっくり食べようかと考えながら……。

 一人ぽつんと作業をしている中、ライトテーブルの上に置いていた携帯が震える。表示が『滝田英児』。琴子は持っていたカッターナイフを放り、すぐさま手に取る。

『こんばんは。元気?』

 彼の声に、琴子の頬がつい緩んでしまう。はっと辺りを見回し、誰もいないのを確認。

「元気ですよ。先日はお疲れ様」

 庭を手入れした日から三日ほど経っていた。それでも、あれ以来、琴子の身体は熱いまま。特に肩先の……。

『あのさ、食事でもどうかと思って』

 彼から初めて誘ってくれ、琴子の心が嬉しくて跳ね上がりそうになったが、必死に思いとどまる。

「ごめんなさい。いま、月末の締め切りが多くて残業続きで」

『そうなんだ。またあれぐらいの時間になりそうなのかな』

「そうですね……。十時、もしかしたら十一時」

『そんな遅く?』

「うん。ですから……残念ですけど。また今度」

 ほんと残念。せっかく誘ってくれたのに。デザイン事務所の仕事はとっくに片づいているのに、古巣での腕前があるだけに手伝いをすることになっていて……。本当なら帰っても良いはずなのに。無理を言えば、帰らせてくれるかもしれない。いや。どちらの仕事も捌けることが、琴子がこの会社に勤め続けている意義でもあると思い直す。

「あの、私から連絡しますね。私も一緒に食事したいので……」

『うん、わかった。忙しい時に、ごめん。じゃあな』

 それだけ言うと、ぷっつりと彼から電話を切ってしまった。

 きっぱりしている人だってわかっていたつもりだけれど、そんなあっさり切られると琴子も寂しい。しかも、ぶっきらぼうな言い方だった。

 残念だと思ってくれたから? 機嫌悪くなっちゃったの? 嬉しいような、ちょっと心配のような。

 ノースリーブの白いフリルブラウス。なんとか隠れている肩先をそっと見つめる。あの夕の熱い痕が薄くなっても、熱は籠もったまま。

 ブラウスの袖口をめくったら直ぐに見えてしまいそうな、秘密の痕。

 それだけを感じ取って、琴子は甘い誘惑を断ち切ろうとする。

「仕事、仕事」

 どんなに今ときめいて会いたくても、働き者と母も認めている彼に、仕事をおろそかにした女と思われたくないから堪えた。それに……『やりつくした女は色っぽい』と言ってくれた彼の言葉を無にしたくない。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 まだ納期まで少し日があるからと、製版課のメンバーが夜の九時で作業を切り上げた。琴子も一緒に終わりデザイン事務所に戻る。

 デザイナーも帰った後だったが、ジュニア社長だけが自分のデスクでノートパソコンに向かっていた。

「遅くなったな。送ってやるよ」

 社長が待っているとしたら、それだった。製版の兄貴達やパートのおばさんの車に乗せてもらって帰ることも多いが、その約束がつけられなかった場合を考えて、上司として社長が製版の手伝いを終える琴子を待ってくれていることも多い。

「申し訳ありません。いつも」

 そろそろ本気で運転免許でも取ろうかと思っている。気持が前向きになってきて、やっとそう思えるようになった。

「外で待っているな」

 社長から外に出て行く。

 事務所片隅のロッカーから、夏用にと衝動買いしてしまった白いハンドバッグを肩にかけ、事務所の外へ出る。

 事務所に鍵をかけた社長が車へと向かう。琴子もいつもどおり、助手席側に向かいドア側へと立った時だった。

 事務所の小さな駐車場、社長のオデッセイがぱあっと明るい光で照らされた。まぶしくて、琴子は社長と一緒に手をかざし、光がやってくる方へと振り返る。

「なんだあの車。急にこっちを照らしたりして」

 銀色の、また車高が低い……。ん? でもスカイラインじゃないし。でも車から感じる妙に身近に思えるこのオーラはなに。

 ジュニア社長も興味深そうに銀の車へと目を凝らす。

「ゼット、フェアレディZ。しかもZ34じゃないか」

 『うわ、格好いいなあ』と急に社長がうっとり。きらりと夜灯りに浮かぶ走る鎧のようなボディの車、そのドアが開いて運転手が降りてきた。

 だがその車から現れたのが、紺色作業着ジャケット姿で煙草をくわえた男の人。琴子はギョッとした。

「こんばんは」

 えーっ! 『彼』!

 『滝田さん、どうして!』と琴子は叫びたくなった。だってまだ勤め先なんて教えたことがないのに!?

「え、琴子。お前の知り合い?」

 社長に聞かれて、琴子はどう説明すればよいかと混乱する。

 まだ恋人とかそんなんじゃないし、どう言えばいいの? 迷っている琴子に構わず、彼がこちらへと手を振ってくれる。

「琴子さん、お疲れ。迎えに来た」

 もう琴子は唖然。滝田さん、『嬉しいけど』いつも驚かせすぎ!

 向こうがはっきりと『彼女を迎えに来た』と言ったので、社長も唖然とした顔で琴子を見た。

「あの……。そう、知り合いなんです。彼に送ってもらいます。お、お疲れ様でした!」

 なんの説明もせず、琴子は上司を放って駆けだしてしまう。

 今は今は。まだそっとしておいて。あとで明日でもなんとでも事情を説明するから、『ごめんなさい、社長』! きっと心配するだろうから。まるで心配性の年が離れた兄から逃げ出すような感覚。

 白い夏のミュールで琴子は銀色の日産車まで走る。

 最初は社長から逃げ出した心苦しさいっぱいだったのに。煙草をくわえて笑っている彼の顔を見たら、もう……。琴子の気持は、彼の煙草の匂いがする胸の中に飛び込む、そんな気持で走っている。

「どうして私の会社がわかったの?」

「どうしてかな」

 彼の目の前にたどり着くと、すぐさまノースリーブの肩に腕を回して抱き寄せてくれた。

 そしてそのまま琴子を助手席へとエスコートしてくれる。

「これも滝田さんの車?」

「そう。日産車が好きなんだ。乗って」

 開けてくれた銀色のドア。琴子は迷わずに助手席のシートへと乗り込んだ。

 ドアを静かに彼が閉めてくれる。今度、彼は車の後ろへと回って運転席ドアへ移動……するのかと思ったら、どうしたことか彼はジュニア社長が佇んでいるところへ行ってしまった。

 『私の上司になにを言うつもりなんだろう?』。琴子は思わず助手席を降りたくなる。やはり大人のきちんとした説明を社長にするべきだったかもしれない。

 彼とジュニア社長が言葉を交わしている。でも? あら? ジュニア社長がなんだか笑っている? しかも親しそうに彼と手を振り合って、ジュニア社長もオデッセイに乗り込んで納得した様子だった。

 彼が戻ってきて運転席に乗り込んだ。

「うちの社長と……顔見知りだったの?」

 彼が煙草を車の灰皿に押しつぶして笑う。

「うん。親父さんの車もジュニアさんの車も、奥さんのも。うちで車検してくれたり、整備に出してくれるんでね。それから今のオデッセイは社用みたいだけど、他にジュニアさんのプライベート愛車を頼まれることもあるんだ」

「社長がお客様ってこと?」

 『そう』と彼が笑った。

「私がここに勤めているのは、いつわかったの?」

 でも彼は意味深にふと笑っただけ。直ぐには教えてくれず、車のエンジンをかけた。

 スカイライン同様、アクセルを踏み込むとブウンとエンジンが高く唸り始める。ハンドルを切ると、銀色の車がぐうんっと力強く走り出した。

 会社がある小道から、大きな国道へと出る。夜の十時前、少し車が減ってきた夜の街を銀色ゼットが走り抜ける。

 真っ直ぐな走りに落ち着くと、彼がやっと教えてくれた。

「何故、琴子さんの勤め先が判ったか。気がついてないんだな。俺がコートを渡した日に抱えていた茶封筒に、『三好堂印刷』と書いてあったんだけど」

 はっと気がつく。あの『見合い写真』を入れて持って帰った封筒。確かにあのとき、抱えていた――と。

「すっごい観察力」

「かもしれない。だってさ。こんなお嬢さんを徹夜させる会社ってどんな会社だよってちょっと気になっていたんだよ」

「そうなの。この仕事って、時間容赦ない時があるの」

「だよな。そういう業種らしいのは聞いたことがある。だから納得したんだけど」

 また高いエンジン音を響かせ、彼の車がバイパスを快走する。しかも琴子の家とは反対方向へ――。

 でも、オレンジの外灯に浮かぶ夜のバイパスを走り抜けるこの車に乗っていると、力強く彼にどこかへと手を引かれているようでそのまま身を任せてしまいたくなる……。

「メシ、食った?」

「ううん。まだ。帰ってゆっくり食べようと思って」

「お母さん、待っているんだ」

「大丈夫。月中から残業期間と心得てくれていて、食事だけ準備して先に寝るようにしてもらっているから」

 『そっか』と、彼がホッとした顔。

「あと一時間、腹減っているの我慢できる?」

 どうしてと聞きたかったけど。このまま任せて彼ならどうするか。そんな期待感。

「うん、できる」

 助手席から微笑むと、やっと彼と目が合う。でも運転中なので直ぐに視線はフロントへ戻っていく。

「待ってな。いいとこ連れて行ってやるよ」

 さらに彼の長い足がアクセルを踏み込む。銀色の車がぐんっと夜の国道を突き進む。

 車高が低い車の目線は普通の車より下なので、道路が直ぐ下、アスファルトを這うように感じてしまう。走り方がちょっと重い? シートベルトで固定している身体にちょっとした重力を感じ、シートに押しつけられる感覚も。

 でも。こんなスピード感、初めて。まるでロケットに乗り込んだ宇宙飛行士の気分! 琴子の心が高揚していく。

 唸るエンジン音、がっしりとした深いシートに乗っている琴子はぐんぐん引っ張られ連れ去られるような感覚に、また胸踊らせていた。

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