8.助手席に乗せて、帰りたい

 午後の作業に移って直ぐ、篠原さんの仕事が終わる。

 やはり彼らのスピリットなのか、『庭の他の掃除も手伝う』と篠原さんが言い出したのだが。

「オマエんとこ、嫁さんがいま妊娠中だろ。自分の仕事終わったなら、もう帰れ」

 彼が急にきつく言う。それでも後輩の彼は手伝うと引かなかった。

 琴子と母もそれを知って、もう充分、有り難うと植木職人の彼をなんとか帰路につかせた。

 やっと後輩の篠原さんが帰って、彼もホッとした様子。お昼の作業再開、さらに日射しが強くなっているが、午前と同じく彼が日除けになってくれながらあと庭半分、二人で取りかかる。

「慣れてきたじゃん、琴子さん」

「慣れたころに、もう終わりそうだったりして」

 二人で笑いあい、隣り合っている彼と顔を見合わせる。意外と近かったので互いにびっくりしてしまう。

「俺……。新しいゴミ袋持ってくる……」

 梅雨の間に伸びに伸びた雑草もだいぶなくなった。琴子は照れて行ってしまった彼の背を見つめる。

 まさか。今日半日、雑草を片付けながら彼と語り合えるとは思わなかった――。変な気分だけれど、今日は彼といろいろ話せて良かった。琴子の心がなだらかに穏やかになっているのが自分でわかる。


 あと僅かという時だった。空がふっと暗くなり、突然、大きな雨粒がぼつぼつと庭に黒い点を落とし始める。

「夕立だ」

 彼が慌ててビニール袋などを軒下に集める。琴子も手伝う。だが夕立というものは、あっという間に激しくなる。一分もしないうちに激しい水しぶきが散る大雨となって二人を襲った。

 それでも二人で道具など、散乱したままにしないよう片づける。あっという間にびしょ濡れになった。

「二人とも、戻ってきなさい」

 母の声を合図に、琴子も彼も一緒に玄関へ駆ける。

 その途端。空がピカリと光り同時に『ドドドドン!』と空を揺るがす雷鳴まで。

 玄関の軒下に辿り着いたものの、二人ともずぶ濡れだった。

「やだ、もう。だから夕立って嫌い」

「俺も。この季節の夕立はやっかいだよな。これが外でワックスがけしていたら最悪なんだ。俺の敵」

 激しい雷雨。この地方、夏の間に激しい夕立になることはよくあること。そんな季節が到来といったところだろう。

「あと少しで終わったのに。もう今日は駄目だな」

 目の前、すぐ側にいる彼を見て、琴子は急に言葉が出なくなった。だって……すっごいドキドキしているから。


 びしょ濡れの彼。すごい大人の男……の匂い?

 これが彼も言っていた『匂い』ってもの?

 琴子もそれを嗅ぎ取っていた。


 汗だくで身体に貼り付いているティシャツが雨でますます彼の肌にぴったり貼り付いて身体の線を露わにして……その、胸先とか男っぽい体毛まで透けちゃって……。ずぶ濡れになった長めの前髪かき上げると、ちょっとワイルドなオールバックになって。それでいつもの怒った顔で空を睨んだりして。それに確かに、汗なのか体臭なのかトワレの香りなのか。そういう入り交じったものが濡れた途端に、琴子の鼻先にふわりと取り巻いてまとわりつくように……。これがまさか彼が琴子からも嗅ぎ取っていた『匂い』? 男性から鮮烈に感じた初めての匂い。ある意味、初体験。ドキドキしないはずがない。


 もしかして、もしかしなくても。ああ、ダメだ。きっと私、私……。


「もうーすっごい雨ね。ほらバスタオルよ。二人とも早く入りなさい。あったかいコーヒー入れてあげるから」

 母が玄関を開けて迎え入れてくれたところで、琴子ははっと我に返る。

「俺、汗だくになると思って着替え持ってきたので車に取りに行きますね」

 彼がスカイラインに走っていく。

「琴子。あんた頑張ったね。有り難うね」

 半日、庭の手入れをやった娘を見て母は喜んでくれた。

「うん。私、シャワー浴びてくる」

 でも今は。母の顔さえまともに見られそうになかった。



 ―◆・◆・◆・◆・◆―



 シャワーで軽く汗を流す。もう作業も出来ないようだから、くつろげる楽な格好になろうとマキシ丈のゆったりした真っ青なワンピースに着替える。カーディガンを羽織ってリビングへ。

 その頃にはもう、雨も小降りになり雷鳴もかなり遠くで響いているだけだった。

 リビングへ行くと、何故か彼の姿がない。でも飲んだあとがわかる空のカップがテーブルにある。

「滝田さん。もしかして帰っちゃったの」

 琴子のコーヒーを淹れてくれる母が首を振る。

「雨が小降りになった途端、また外に行っちゃったのよ。片づけてくるって。もう今日はいいよって言ったのに」

 庭側の窓へと振り返ると、本当に着替えた彼が腰をかがめて集めきれなかった濡れた雑草を片づけている。

 母がほうっと息をついた。

「働き者だわ。それに責任感も強いわね」

 母はもうこれ以上褒める言葉も見つからないと、感嘆のため息しか出てこない様……。


 琴子も外へ出た。

 なのに庭にいない。どこにいるのかと雨上がりの庭を歩き、裏方へと回る。すると倉庫の脇にある紫陽花の植え込みのところで彼が立っていた。

「滝田さん。今日はもう……。せっかく着替えたのに、また汚れてしまう」


 彼が振り返る。着替えた琴子を見て、少しだけ驚いたような表情をみせたが、すぐにいつもの微笑みを見せてくれる。

「うん。ゴミ袋をこっちに片づけただけ。終わったから」

 庭先から目立たないところへと片づけてくれたようだった。本当に気が利きすぎて……。

「この紫陽花は咲いている真っ最中だからなにもしないでおくってシノが言っていたから。季節が終わったら、また綺麗に整えてやってくれだってさ。そうしたら来年はもっと沢山花をつけるだろうからと言っていた」

 その紫陽花も、伸び放題。花が一つだけ咲いている。雨に濡れ、風に揺れていた。

「助かりました。私もやっとやる気になれました」

 ありがとうばかり言うと彼が嫌がるから、ありがとうじゃない言葉ってなんだろうと思ったら、そう言っていた。彼も今度は笑顔で、琴子の言葉を素直に受け取ってくれる。

「もう大丈夫そうだな。琴子さんもお母さんも」

 彼が琴子の目を、初めて真っ直ぐに長く見つめてくる。琴子の胸がぎゅっと固まった。

 ときめきじゃなくて。『この人、もう去ってしまう』という切なさだった。

 ――もう大丈夫。俺がいなくても。じゃあな。またいつか。これからも頑張れよ。

 そんな顔をしている。コートを届けるだけ届けて行ってしまったあの日のように。

 急に琴子は言葉が出なくなる。彼のそんな顔をみたくなく、目を逸らしてしまう。あの日のように二度も見送るなんて嫌、もう嫌。

 それにちょっと腹立たしくもある。女心揺らすだけ揺らして平気な顔。俺、普通のことしているだけだからって顔。だから、もう必要なくなったなら俺は帰るなんて……。

 でもそんな琴子を彼がじっと静かな微笑みで見下ろしているのが伝わってきて、熱い……。

「なんか、女っぽいな。それ」

 夕が近い雨上がりの涼しい風が、紫陽花を揺らしている。琴子の湿っていたはずの毛先も軽くそよいだ。

 足首でゆるやかなに波打つワンピースの青い裾。サンダルの足を隠したりちらりと見せたり。そんなことを見下ろして、彼と目を合わせない。

「かっちり仕事姿のOLさん、お母さんを支えるしっかりお嬢さん。外仕事は肌を出さない慎ましく女の子らしく。いつもきちんとしているイメージがあるから」

「お休みの日は、ルーズな服でだらだらしているの。朝寝坊だってするし、母任せでなにもしないし」

「ふうん。少しは気を抜いたりするんだ。ルーズな琴子さんがいると思うとホッとする」

「そんな。私だって気を抜きますよ」

 彼が小さく笑ったのだが……。

「いや、しっかり者で気を抜かない。慎重な子かなと思っていたから」

 『思ったから、なに?』と、琴子はふいと彼を見上げてしまう。

「俺みたいな男が、大きな世話ばかりしたかもしれない。ちょっと強引だったかと反省もしているんだ。琴子さん、びっくりしているんじゃないかって」

 そのとおりではあった。でも。

「滝田さんのことを何も知らないから、本当は流されちゃいけないと警戒した時もあったの。でも今はとっても感謝しています。本当よ。信じてくれたら嬉しい」

「信じるって……。俺が信じてほしいと思っていたのに……。シノにも注意されたよ。相変わらず強引だって言われた。特に女二人だけになった家に近づいて、一歩間違えたら相手に都合の良いことばかりいって気持ち良くさせて騙す詐欺師のやり口にそっくりだって」

 後輩の篠原さんが、先輩の彼がこんなに気にしてしまう大きな釘を刺してくれていただなんて。しかも琴子も一度は疑った『詐欺師』! 

「あはは! そうなの。実は私も『口が上手い詐欺師かも』と少しだけ思っちゃったもの」

 正直に言って笑ったら、彼がまた仰天した顔になる。

「さ、さ、詐欺師じゃねーよっ」

 ムキになって怖い顔で怒るんだけれど、でも見慣れてしまった琴子は笑う。

「うん。詐欺師じゃないって、もうわかっています」

 そして彼の目を、今度こそ琴子から見つめる。

「ちゃんと信じています。たとえ、本当に騙されていても。母も私も、あなたになら騙されても良いわねて言っているの」

 『お母さんまで。マジかよ』――。

 彼が目元を手で覆い、すこしだけ足下をふらつかせた。それだけショックのよう。

「俺、馬鹿だな。そんなふうに疑われるだなんて、警戒されるかも嫌がられるかもなんて、全然思わなかった」

「だから。滝田さんが『馬鹿正直』だって通じたんです。滝田さんが本気で心から助けてくれているんだって……」

 彼も黙ってしまった。また紫陽花を見て、機嫌悪そうにむくれた顔になった。詐欺師と疑われたことが心外だったよう。

「気にしないで。私たち母娘が立ち直ろうとしているのだから。本当に感謝しているの」

「だから、礼はもういいって何度言えば……」

「最後にもう一度だけ言わせてね。ありがとうって。怒らないでね」

 琴子に気持があっても、彼はいつも通りにお世話してくれただけ。行かないでと言ったら……困った顔をするのだろうか。


「怒ってねーよ」

 気がつくと、彼の長い逞しい腕が琴子の肩を抱いていた。


 ぐっと彼の白い長袖シャツの胸元に引き寄せられる。


 しかも。あっという間に彼の唇が琴子の唇と重なりそうに……。あまりの素早さに身動きも出来ずに目を見開いているだけだった。


 でも、唇に甘い味はまだこない。琴子の唇をふさごうと身をかがめた彼が、唇の側で熱い息を吐いて止まっているだけ……。

「……俺、どうかしている」

 彼の顔が離れてしまう。衝動的になったが、やはりそれは衝動的であって琴子の為じゃないと思ってくれたのだろうか。

 だから……。今度は……。琴子から彼の側に寄った。ほんの少しだけ。彼の白いボタンシャツの胸元にそっと額をつけただけ。

「俺なんかで――」

 寄り添った琴子の耳元で、彼が自信なさそうに囁いた。そして琴子は僅かに頷く――、『いいの』と。

 すると。首筋に熱い感触。唇じゃない……。彼の最初の口づけは、琴子の耳たぶの下、首筋。

「今日もする。あの匂いが」

「シャワー浴びちゃったのに?」

「うん。動きまくって汗をかいてくたくたに力尽きる前の女の匂い、そして今日は石鹸の匂い……」

 そういって首筋に鼻先をこする彼。それだけで、琴子の肌は痺れが走るように震えた。

 だが琴子も負けずに、彼の首筋に唇を寄せた。

「私も……。男っぽい動物のような匂い、感じている。初めてよ。こんなに男の匂いを感じるのは」

 本当だった。汗と体臭と微かなトワレの匂い。動物的な男の匂い。こんな匂いをこんなに鮮烈に感じたことなんてない。

 互いに分け合う『本能の匂い』。それを嗅ぎ合ったことを確認するように見つめ合う。互いの匂いを分け合った同志――。そんな気がした。

 だからもう、躊躇いはなかった。もう優しいキスは必要ない。互いの唇を奪って吸ってこじ開け、その奥の奥まで貪る口づけ。


 それだけじゃなかった。琴子を抱きしめながら唇を吸い続ける彼の腕は、琴子の素肌を探すようにして背中を撫で回している。だが、それだけでは気が済まなくなった男の手は、今すぐにでも女を裸にでもするような手つきで琴子の肩を丸出しにする。カーディガンもワンピース紐も、肩の丸みに沿ってするりと……。


 ちょっぴり強引で熱い彼の手。肌を求められたのだと思うと『あ……』と声が漏れ出てしまった。


 その露わになった白い肩先を彼がじいっと見つめている。

「このまま、助手席に乗せて連れて帰りたい。遠く連れて行って……もっと……」

 剥き出しになった白い肩に、彼が吸いつく。何度も吸って唇で愛撫して離してくれない。もうそれは既に男に脱がされ、素肌を撫で回されている錯覚に陥るほど……。


 熱く灼けて身体の奥からとろけたものが溢れてくるのがわかる。そして甘い疼きに突き抜かれて漏れた吐息が雨上がりの風にさらわれる。


 少しだけ赤く染まり始めた青い紫陽花の花びらのように。琴子の肩先に赤い痕が残った夕。

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