6.俺でよかったら、任せて
思いがけない『蛍ドライブ』。帰りは真っ直ぐに、自宅へと彼が送ってくれた。
「じゃあ、お母さん。気をつけてくださいね」
「滝田さん、本当にありがとうね。おばさん、とっても嬉しかった」
母からの礼に、はにかむ彼を見ると、ちょっと無邪気に見えてしまい琴子もそっと微笑んでしまう。
そしてあっという間に、黒いスカイラインが去っていく。
母も感無量のように、彼の車が見えなくなるまで手を振っていた。
「蛍、綺麗だったね。お母さん」
だが振り返った母が、妙に険しい顔で琴子に詰め寄ってきた。
「琴子、電話番号の交換していたでしょ」
え、車の中から見られていた!?
『しまった』と、琴子は母から目をそらす。でも、互いに大人なんだからもういいじゃないって言いたい。
しかし次に見た母はニンマリ、意味深な笑み。
「でも、琴子ったら絶対に自分からはなにも言えそうになさそうだから。お母さんちょっとね、やってみたの」
やってみたって、なに? 琴子は不安になる。この嫌な胸騒ぎ、久しぶりのような気がする。以前の母がなにかをやらかす時に見せた『悪戯っぽい笑み』だと思ったのだ。
「まあ、あとでわかるわよ。流石に疲れちゃったわ。さっさとお風呂に入ってもう寝るわ」
急に? 杖をついていても自らスタスタ……とでも言いたくなるような足取りで、自分で玄関を開け、母は家に入ってしまった。
やだ、この不安なに。お父さん、助けて。そんな感覚。
そして案の定、それは的中する。
お風呂の湯張りをセットして、母とお茶を呑みながら一息ついた頃だった。
琴子の携帯が鳴った。見ると、早速『滝田英児』という表示。ビックリして思わず直ぐに出てしまう。
「はい、琴子です」
何故か、目の前の母がまたまたニンマリ。でもそれを娘に見られると素知らぬ顔で母から目を逸らした。
訝しげに首をかしげたが、次に彼から告げられたことに琴子は仰天する。
『ごめん。俺、気がつかなくて。後部座席の下に、お母さんが帽子とハンカチを落として忘れていたみたいで』
もう背筋がピキーンと張るのがわかった。そして母のニンマリの訳も!
やってくれたな、この母! わざと忘れたのだと琴子には直ぐにわかった。
『俺、今からそっち戻るから。いいかな』
「すみません、もう……本当に。母のためになにからなにま……」
なにからなにまで。そう言おうとしたら、琴子の耳元から携帯電話が消える。母が強引に奪ってしまったのだ。
「滝田さん、本当にごめんなさいね。もう、私ったら、ご迷惑かけっぱなしで。いえいえ、もう今夜は遅いですから。私も風呂上がりでもう出られませんし。後日、ですか。平日は誰が訪ねてきても出ないようにしているの。出来たら、琴子が日中いる土曜か日曜の方がいいです。ええ、その時は琴子に連絡してください」
もう琴子は茫然、絶句。この『確信犯ママ』どうしてくれよう!?
勝手に話をまとめた母が電話を切って、満足げに琴子に携帯電話を返してくれる。
「お、お母さん! なに勝手なことしてくれるのよ!」
「あら、いいじゃない。これでもう一度、彼に会えるわよ。というか、お母さんが会いたい」
母はにっこりと満面の笑み。
琴子は頭を抱えて項垂れる。そこまでしてくれなくても、今回は勇気を振り絞って再会する約束をちゃんとしていたのに……。
もう彼も、どう思っただろうか?
琴子は父の遺影をちらっと見た。
――『お父さん、もしかするとお母さん復活したかも』
おおらかで、活発で自由だったあの頃の母のように。
―◆・◆・◆・◆・◆―
『俺、土日も仕事なんで、夕方でいいかな』
週中、彼から『何時にお伺いします』という連絡があり『日曜日の夕方』という取り決めになった。
それを母に報告。
「日曜の夕方……なんだね。うん、わかった」
また母がなにやらニッコリ。もう、なんだか怖い。なにを考えているのか教えてくれないで、さっと事を進めてしまう。生前の父が『母さんに振り回される』と呆れていた『あれ』が絶対に復活していると思った。
そしてその予感も、またまた当たってしまう。
その日曜日。ゆっくり朝を寝過ごした琴子が昼前に起きると、母がキッチンで忙しそうにしていた。
「やっと起きた。琴子も手伝いなさい」
「なにしているの」
また、あの怪しいニッコリが向けられ、琴子はドキドキする。
「滝田さんにお夕食をご馳走しようと思って。この前のお礼ね」
なんですって!? 琴子は再び仰天する。
「なに、勝手なこと考えているのよーっ」
でも母はきょとんとして平然。
「だって、出かけるの大変だし……」
そして母がちょっと驚くことを言い出す。
「滝田さん、男三人兄弟の末っ子で三男坊なんだって。お母さんが高齢出産されたらしくて、お兄さん達とも年が離れているんだって。だから琴子と同じぐらいの頃に、お母さんを亡くしたらしくてね」
「そうなの……? いつの間にそんな話」
「琴子が自販機の前で一人で休憩していた時。話し相手になってくれた彼がそう言っていたのよ。お母さん、亡くなる前にやっぱり身体が不自由になったらしくて――。お兄さん達家族が介護をしたけど、自分はまだ若くてなんの力もなれなかった。だから……放っておけなかったんだって。この前の私のこと……」
そこで母が急に泣きそうな顔になる。本当に目が潤んでいた。
「そうだったの」
「うん。年が離れたお兄さん達はそれぞれやっていて、年老いたお父さんもお兄さん達が見ているんだって。滝田さんは一人暮らしで気ままにやっているらしいわよ。だからね、せめて『おふくろの味』みたいなのでお返ししようかなって」
そこで琴子はやっと……『母の強引作戦』の意味を知る。
「出来た物を持たせるつもりだったんだけど。日曜の夕方なら、暖かい物を食べていってもらおうと思うの」
彼の優しさの一部を垣間見た気がした。そして何故、琴子のこの状況を直ぐに理解してくれたかも。彼も、その道を通ってきた人だったから……。
「私も手伝う」
琴子もエプロンを探すと、母も嬉しそうに笑ってくれる。
「久しぶりだね、お母さんとこうして並んでご飯を作るの」
「そうだね。お母さんも、お父さんが死んでから適当になってしまったから……。いろいろ言い訳にしてね。反省している」
彼に会ってから。母が変わった気がするのは本当だった。重苦しいものを、母がどこかに捨てたような、そんな清々しい笑顔を見られるようになったから。
―◆・◆・◆・◆・◆―
母と夕食の支度を終えたら、その時間がやってくる。
琴子の携帯が、メールを着信。
【もうすぐつきます。玄関先まで車で行ってもいいですか】
【いいですよ。今は車はないので、庭に駐車できます】
返信すると、その数分後。本当に庭先に、あの黒い車がやってきた。今日は近所のことも考えてか、静かなエンジン音のスカイライン。
出迎えると、彼が運転席の窓を開ける。
「こんにちは、琴子さん」
「いらっしゃい、滝田さん。ここ、とめていいですよ」
以前は車があったカーポートに誘導した。
住宅地で狭い路地なのだが、やはり彼のハンドルさばきは上手い。お向かいの塀にバンパーをこすることもなく、大内家の塀にトランクをこすることもなく絶妙な運転感覚。一発で車庫入れ完了。車から降りてきた。
今日は作業着ではなかった。黒いポロシャツに、またデニムパンツ姿。そして片手には紙袋が二つ。
「前は車があったってことだよな」
スカイラインを駐車するまで空っぽになっていたカーポートを、彼が眺めている。
「しばらくは父の車をおいていたけれど、私も母も運転しないから売ってしまったの」
「そっか。どっちも運転免許、持っていないの」
持っていないと琴子は頷く。
「親父さん、なんの車に乗っていたの」
本当に車が好きなんだなーとか思ってしまう。
「トヨタのクラウン」
「へえ。どの年代のクラウンか見てみたかったなあ。親父さん、それいつ買ったやつ?」
「本当に好きなんですね、車が」
彼が嬉しそうに笑う。その笑顔がまた……大好きなことに没頭して幸せな少年みたい。しっかり者の兄貴という第一印象からの意外性。ちょっといいなと思ってしまう女心に、琴子はうっかり困ってしまう。
「もう好きで堪らなくて、仕事も車関係だからな」
「整備士さん……なんですか」
彼が一時黙った。でもすぐに答が返ってくる。
「ああ、車検の点検とか。修理とか。いろいろ」
琴子も思い出す。あの紺色のジャケットには『車屋』ぽいワッペンが貼り付けてあった。まるでレーサースーツなどに縫いつけているかのようなワッペン。あれは車屋の制服なのだろうかと思っていたところ。
そこで母が杖をついて、やっと玄関から出てきた。
「いらっしゃい、滝田さん」
もう母も嬉しそうな笑顔。だが、母を見た途端、彼もにっこり優しい笑顔を見せる。なんだか琴子はちょっと妬けてしまった。
「お母さん。先日は俺、気がつかなくて申し訳なかったです。降りた時に確認すれば良かったのに」
もう、違うわよ。わざと、貴方の死角に『確信的忘れ物』をしたんだから。琴子は心の中でひっそりと呟いてしまう。申し訳なさそうな顔をした彼に、こちらが申し訳なくなる。
なのに母も白々しくも『まあ、お世話かけました。ありがとう』とにっこにこ。彼が差し出した紙袋を受け取った。
「それともう一つ。俺、今日、仕事で高知方面の南へ営業に行ったので。帰りに日吉村の市場に寄ってきたんですよ。ここの田舎蕎麦が美味いんで、お母さんにどうかなと思って持ってきました」
今度は琴子も母も共に驚く。
「もう、滝田さんったら。そんなことわざわざ」
今度こそ、確信犯母も恐縮したようだった。
だけれど。やっぱりお兄さんはお兄さんだった。琴子にコートを持ってきた時のように、母の手に蕎麦の土産を握らせてしまう。
「いいんですよ。営業の通り道で近くを通ったら俺が食べたいから、いつも買うんですよ。そのお裾分けだと思ってください」
もう母も茫然だった。それどころか、彼をじいっと見つめてそのまま。
「ありがとう、頂きますね。琴子の父親もここのお蕎麦が好きで、よく買ってきたので。久しぶりで嬉しいです」
「そうでしたか。よかった……」
なんでもすっぱり気持ちよく行動する割には、彼がとってもホッとした顔になったのが意外だった。胸までなで下ろしたりして……。ちょっといつもと違うように見えてしまった。そんなに緊張することだったのだろうかと琴子は不思議に思う。
「せっかくだから、茹でて一緒に食べましょう」
唐突な母の誘いに、流石の彼も『え』と戸惑いをみせる。琴子も苦笑い。母はすっかりその気でも、彼にしたらまだ誘われていないのに。
「あの、母と一緒にお夕食を作ってみたんだけど。よろしかったら、いかがですか」
ますます彼が固まる。
「いや、俺、そんなつもりは……」
「勿論です。私たちの勝手なんです。母が是非と。先日、助けて頂いただけではなく、とても素晴らしいものを見せてくださったので」
きっと彼なら『俺にとっては普通のことをしただけで』とか言いそうだと琴子は思う。
「いや、俺はただ、いつもどおりの俺で……」
ほら、言った。つい、琴子はクスクスと笑い出してしまう。そして母も、既にそれが彼らしいと見通しているのか笑っていた。
「こちらの勝手でしたから、唐突でごめんなさいね。お忙しいかもしれないから、良かったら持って帰れるようにもできますよ」
母も無理強いはしなかった。ただ『一緒に夕食ができればいいな』という心積もりがあるだけ。それでもいつになく懸命に支度をしていた母だったが、そこまで彼に対してやり尽くしたから、もう気が済んだと言いたそうだった。既に清々しい母らしい落ち着いた顔をしていた。
だけれど、琴子はここでもう一押し。
「母、ばら寿司をつくったの。穴子入りの」
すると彼がちょっと言いにくそうにつぶやく。
「……俺、好物です。ばら寿司」
ばら寿司は、このあたりでは『おふくろの味』。その家庭それぞれわずかに違うが、地方的な特徴があり、ちらし寿司に『穴子が入っていること』は共通している。
「よかった。どうぞ、こちらへ」
母もホッとした顔。杖をついて上機嫌で玄関を開ける。
いつも迷い無い彼が、照れているのか困っているのかぎこちなく『おじゃまします』と口ごもっている様子に、琴子はちょっと笑ってしまった。
そんな彼にそっと耳打ちする。
『ごめんなさいね。母、滝田さんにどうしてもお礼がしたいってきかなかったの』
『そうだったんだ……』
別にいいのに――と言いたげな顔。でも嫌な顔をしなかったので安堵する。靴を脱ぐ彼の横顔が、ちょっとだけ嬉しそうに見えたのは、琴子がそう思いたいからなのだろうか。
―◆・◆・◆・◆・◆―
意外と律儀で礼儀正しくて真面目な人。いま目の前にいる彼を見て、琴子はそう思っている。
なぜなら、いま彼は、父の遺影がある仏壇に手を合わせているから。
「おじゃまいたします。お父さん」
リビングでテーブルの支度を整えた母もやってきた。
「まあまあ、滝田さん。そこまで気遣ってくださらなくてもよろしかったのに。でも……お父さんは喜んでくれているかも」
もう物言えない父ではなく、確実に母のほうが嬉しそうな顔をしていた。でも、ここまで気遣ってくれると、琴子も嬉しい。
「とんでもないですよ。まだお会いして二度目の俺が家にあげてもらって。女性二人を置いて行かれたお父さんにしてみたら、心配でしかたがないでしょう。見知らぬ男が自分がいない家にあがるんですから。俺だったら、絶対に嫌です」
『まあ』と、母も絶句。でもやっぱり『女性を大事にする気持ち』、それが嬉しくてしかたがないようだった。だけれど、お兄さんはちょっと厳しい顔を母に見せていた。
「お母さん。この際ですから言わせていただきますが、やっぱり見知らぬ男を、どんなに世話になったからって気安く家に呼んだりあげたりしたら駄目ですよ」
「もちろん、お世話になっても『滝田さんじゃない男性』はお断りですよ」
けろっと言い返され、『注意喚起』をしていた彼が面食らう。
「だから、お母さん。もし俺が『女二人、警戒心薄いし、家にあげてもらえた。死んだ主が残していった財産でも乗っ取れそうだ』とか思っていたらどうするんですか」
彼が懸命に母に説教をしはじめた。だがそこで、母も琴子も顔を見合わせ笑ってしまう。
「やだ、滝田さんったら。ねえ、お母さん」
「本当よ。財産を狙っているなら『狙っている』て言っちゃ駄目じゃない」
「だから。俺はそのつもりはないけど、そういう男がいるかもしれないから……」
また母が大笑い。琴子も彼に気遣って笑みそうな口元を押さえたが、やっぱりおかしい。だって、本当に彼がムキになって母を説教しているから……。
「だから。滝田さんじゃない男性は絶対にあげないし、夕飯なんか作らないわよ。それにこんな小箱みたいな家、この一軒家だけで財産なんてありませんよ」
「家土地あったら充分ですよ」
まだ言う彼に、今度の母は急に真顔に。あんなにケラケラ笑っていたおおらかさを消し去った母を見て、彼も急に目下の青年としての構えた顔になった。
「頼りないオババになったと思うわよ。でも……一応、琴子をここまで育てた経歴もあるのよね。それなりに人を見る目もあると思うの。滝田さんは、そんな男性じゃない」
ねえ、琴子。同意を振られて、一瞬だけ躊躇ったが。
「うん。私もそう思う」
ついに彼が黙った。そしてまた……、仏壇の父の遺影を彼が見つめる。やがて、彼は再度、合掌してくれた。
「お父さん、今夜はお母さんのお料理、ご馳走になりますね」
父への気遣い、それだけで充分。琴子より、母が泣きそうな顔になっていた。
「はあ~、そうだわ。滝田さんにもらったお蕎麦、早速茹でて、お父さんにお供えしよう」
そんな顔を誤魔化すためか、母が足を引きずりながらキッチンへと姿を消してしまう。
「そしてお父さんに毒味してもらう。気を許してあげちゃった男の人が、美味しいお蕎麦をお土産に毒を盛っていないかって」
母の口悪い急な冗談に、彼が心外と言いたそうな顔になった。
「ど、毒なんて盛っていませんよっ」
またムキになった。琴子も笑ってしまう。
『わかっています、わかっています』と、母の悪戯っぽい笑い声も響き渡る。
本当に母は調子が戻ったなあ――と、琴子は密かに『しんみり』してしまう。
「母、すごく元気になったのよ。もう少しお付き合いして」
「あれが本来のお母さんなんだ」
彼ももう笑っていた。
「楽しいお母さんだな」
彼の向こう、父の遺影に線香の煙がたなびいている夕。
―◆・◆・◆・◆・◆―
母の料理を『美味い、美味い』と彼は次から次へと平らげてくれた。
夏の遅い夕空も翳りはじめ、ひんやりとした風が開けている窓から入ってきて、少しばかり賑やかになった大内家の団らんを包み込む。
「やっぱり。お母さん、峠向こうの町の出身だと言っていたから、もしかしたらばら寿司の穴子は白焼きかなと思って期待したらそのとおりでしたね」
「よくご存じね。そうなのよね。この市街のばら寿司だと同じ穴子でも、よくある甘辛く蒲焼きにした穴子をいれるのよね」
母の実家では甘辛い味付けではなく、軽く塩で焼いた『白焼き』の穴子を入れる。琴子にとってもこれが母の味だった。
「うちは代々ずっとこの市街なんで、やっぱり甘辛の穴子を母親が入れていたんですよ。でも、この白焼きのばら寿司を作ってくれる知り合いのお母さんが作ったものを一度食べたら『これも美味いなあ』と思って。でも白焼きを入れる家って少ないんですよね」
「滝田さんは、いろいろな土地のこと本当によく知っていそうね。知り合いが多いのかしら」
「まあ、元ヤンキーですから。つるむ仲間は昔から多かったですよ。だから知人の母ちゃんとも顔見知り多かったりします」
開き直って彼が笑う。母も『元ヤンキー』という発言に少しだけ戸惑ったようだが、すぐにいつものように笑い飛ばしている。
「あ、この太刀魚の天ぷら。美味いな」
少しだけ胡椒をふって琴子が揚げた物だった。
「琴子が作ったんですよ」
自分から言えないでいると、すかさず母が彼にそう言ってくれた。
「美味い、これ。いいな。お母さんも娘さんも料理上手なんですよね。お父さんが羨ましい」
母と顔を見合わせ、『社交辞令』とわかっていてもちょっと照れて微笑んでしまう。だって……彼が言うと『社交辞令』には聞こえないから不思議だった。
なんでも美味しそうに食べてくれるので、母も笑顔が絶えない。それにあっという間に彼は平らげてくれた。
最後の締めに、彼が持ってきてくれた田舎蕎麦を盛りにして食べる。
「ご馳走様でした」
本当に綺麗に食べてくれて、気持がよい。それにこんなに笑顔で食べきってくれるだなんて、作った者としてはこれ以上の喜びはない。
「お茶を入れるわね」
食事が終わり、彼が開いている庭の窓へと歩き出す。
風に揺れるカーテンの側に佇み、夜を迎えた庭を眺めている。琴子もそこへ。
「荒れているでしょ。私も仕事ばかりで、休みはなにもしなくて……」
「特にあの梅、剪定した方がいい」
剪定って。琴子など、そんなこと考えたことも無い。走り屋の『思うままに生きている男』と思ったけど、なんか急に生活感見えて来ちゃったんだけど? 琴子が唖然としていると、また彼モードが全開になる。
「お母さん。あの梅とか、剪定した方がいいですよ。お父さんが残した樹なんじゃないですか。咲かないともったいないでしょ。なんなら、知り合いの良い業者を紹介しますよ。料金も相談するし」
また彼が我が家のために動き出す。しかもあっという間の提案。
「ああ、気にしていたのよ。私がしたいけど、この足になってすっかり怠けちゃって。いいのかしら。お願いしちゃって」
ちゃっかり母ちゃんの母も復活してしまう。
「俺で良かったら、任せて頂けませんか。業者との話し合いが不安だったら、琴子さんと一緒に話し合えるよう俺が仲立ちしますから」
「そう? そうしようかしら」
「あ、車に名刺ファイルがあるから持ってきますね」
いちいち迷っている琴子など蚊帳の外。彼と母が段取りを決めてしまった。
彼が帰って、その後――。
母に『まだよく知らない人同然。あまりにも彼を頼りすぎでは』と釘を刺してみたが、母はあっさりしていた。
「滝田さんになら、騙されてもいいわ、お母さん」
そう言い切られ、もう琴子も言い返す言葉を失う。……琴子だって、本当は。でもこんなにいい話が続いて良いものなのか。
「……だって。母さんよりもずっと警戒心が強い慎重な琴子が、一番、彼を信じているような顔をしていたよ」
先週、半ば強引に彼が母をスカイラインに乗せた時。何故、見知らぬ男にこんな車に乗せられるのか、ずっと警戒していたのは母のほう、確かに琴子ではなかった。
「なのに。あんたったら、助手席で本当によく知っている知り合いみたいに安心した顔をしていたんだよ。二ヶ月以上も会っていない、たった一度話しただけの人のはずなのに」
母親に言われてはじめて、まだよくも知らない彼のことを、琴子が一番、信じていたことに気がつかされる。
「それに彼。仕事もしっかりしているんじゃないかしら。名刺の数、すごかったわよ。ただの知り合いがあんな多いわけないと思うわね。しかも綺麗に整理して、几帳面そう。車も綺麗だったし……」
本当に、まだ彼のことよく知らない。互いのこと、全然話し合ったこともない。
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