18.女の子はやらなくていい

 その時間が来て、琴子は準備を完了させる。

 二階玄関のチャイムが鳴ったので、わかってはいるけどインターホンに出てみると矢野さんだった。

 キッチンに用意していた『冷たいざるうどん』。それを天ぷら盛りと一緒に盆にのせ、琴子は玄関に出る。

「おー、美味そうだな」

「冷たくしてありますから、温まらないうちにどうぞ」

「おう。いただくわ」

 本当に嬉しそうに盆を受け取ってしまう。どうして『食べる』だなんて言い出したのだろうかと、琴子は腑に落ちない。だが、向こうも向こうでなにやら琴子に言いたいことがあったようで、盆を受け取ると急に言い出した。

「今日はどうした。本当にタキの部屋の掃除だけで、こんなに早く来たのか。ただ昼飯を作りに来ただけなのか。平日も如何にもOLのお姉ちゃんって感じのかわいい格好をしてタキが連れてくるのに、今日はそんな格好で」

 平日、三好堂印刷まで英児が迎えに来てくれ、その後この龍星轟宅へ。その時、ガレージで一人残業をしている矢野さんに何度か出会ったことがある。その時も無愛想だけれど、プライベートを楽しむ店長の英児がすることには我関せずという素っ気なさだった。

 だけど、案外、琴子と付き合う英児の様子を心配しているのでは? そうでなければ、今日だって平日の残業だって、琴子のことそんなに見ていないと思う。しかも。英児は気がつかなかったのに。おじ様には『どうしてこの格好で、日中に訪ねてきたか』を気がつかれている。琴子はその鋭さに驚き、やはりこの男性は目上の敵わない人だったと絶句する。

「なんだ。店の手伝いまでしたくなったとか言うなよ」

 ドッキリ、琴子の心臓が固まる。『図星』だった。

 今日、琴子の目的はそれだった。

「タキタモータース社長の女だって、お手伝いも出来るいい女だって、見られたいのか。誰に。自慢の彼女になりたいか」

 今度ばかりは冷めた目つきで言われた。この矢野という男性からは、英児と同じ匂いを琴子は感じている。きっとこの人も昔は英児のようにツッパリながら車を乗り回していた狼のような人だっただろうと。だから怖くはないけど、噛みつかれる瞬間というのがうっすらと感知できている。それがきっと『俺たち男の世界に、甘い女が踏み込んでくるな』ということ。

 それに琴子は改めて思った。英児と付き合いを続けていくには、この矢野さんとの関係は無視できない。

 だから、琴子も心積もりを整えてきたので、恐れずに言い返す。

「いい彼女に見られたい訳じゃなくて、ただ、私も車に触ってみたいだけです」

「不純だなあ」

 『彼が好きな車に私も触りたい』、そんな殊勝な心がけに聞こえてしまったかもしれない。だから『良い子に見られたいための、良い子ぶった回答、本心を隠すための。とどのつまり不純だな』と言われている。でも、構わない。琴子もそれぐらいの目で見られることは予測してきた。だから、気持のままを口にする。

「私、初めて走り屋の車に乗ったんです。常にピカピカの車、心臓のエンジンまで大事にされている。まるで恋人みたいに。その魅力がなんであるのか知りたいんです。それには車を触ってみなくちゃわからないと思っているんです」

 それはまるで『車を女に見立てたような嫉妬』に聞こえたかもしれない。だけれどきっと、英児にとっては車も恋人もおなじぐらい大事。それもわかっているし、そんな彼であってほしいと思っている。だからこそ、カノジョである琴子も車を知っておくべきだという……、そういう独りよがりだとも自覚している。

「それなら、英児に頼んでみろよ」

「頼みました。『私にもワックスがけを教えて』と。でも彼は『そんな女の子がやらなくていいから』と、笑って流しちゃうんです」

 矢野さんは一時黙って、ふっと悟りきったように鼻で笑う。

「適当に笑って流しておいて、本当は誰にも触って欲しくないという気持もあるかもな」

 意地悪な言い方だと思った。車好きの男が『彼女にも触って欲しくない大事なもの』と言う意味をほのめかしているのだから。

「そうですね。それが本心なら。諦めます」

 流石の琴子もつい不機嫌に答えてしまった。別に車と張り合いたい訳じゃないし、車を知って彼にますます愛されたい訳じゃない。ただ、琴子は……。いや、もうやめておこう……、そう思った。

「邪心でしたね。失礼いたしました。麺がのびます。早く召し上がってください」

 玄関先で一礼をし、これにて撤退。琴子の意気込みも玉砕したようなので、今から本当にのんびり掃除をすることにする。

 そう思ったのだけれど。

「じゃあさ。俺と試してみるか」

 矢野さんが、ニヤリと笑った。

 試すってなに? 琴子は首を傾げた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 矢野さんの食事が終わってすぐ、琴子は事務所に呼ばれる。

「これ、俺のだけど我慢しな」

 あのワッペンが縫いつけられている紺色の作業着を手渡される。そして作業員の彼等が被っている龍星轟のキャップ帽まで。

「龍星轟の店頭に出るからには、たとえ、にわか作業員でもきっちり龍星轟の姿をしていてもらわないとな」

 なるほど。気持は『雇われた新入り』という本気の気構えで行けということなのだと、琴子も理解できた。

 言われるまま長袖の作業着を着た。羽織ると、ふわっと英児と似た匂い。男特有の匂いに煙草。さすがにトワレの匂いはしなかった。そして大きい。

「袖、めくりな。長袖で暑いだろうけど我慢しな。少しは日焼けしなくて済むだろう」

 そんな気遣いもあったようだった。なんとなく矢野さんというおじ様のことがわかってきた気がする。でも、今からすることって……大丈夫なの? それに『試す』てなにを?

 事務員の彼は、矢野さんがすることだからと、ちょっと困った顔をしていてもなんにも言わずに、仕事をしているだけ。

 そのうちに矢野さんは、英児の社長デスクの裏に回り、壁際にある鍵が沢山ぶら下がっているボードから何かを選ぼうとしていた。

「そうだな。R32(アールサンニイ)でいいか」

 その鍵を手にすると、やっと事務員の武智さんが呟いた。

「うわ、タキさんが怒るよ。さすがに勝手に動かすのは……。そこは『社長の所有物』なんだから」

「そうかもな。まあ、アイツの度量っつーのかね。ちょっと俺も興味あるわ。最近、丸く収まりすぎてちょっと気になっていたんだ」

「丸く収まって上等じゃない。ヤだからね、俺。タキさんと矢野じいがやり合うの、困るんだから」

 そして彼が言った。

「親父と息子の喧嘩みたいに派手なんだから。最近は『どっちも大人になってくれて』平和だったけど。二年前かな。殴り合って店のガラス割るとか、ああいうのもうカンベン」

 親子みたいな関係? それにそんな男っぽい派手な喧嘩してしまうほどの仲!? まだよく知らない琴子は驚かされる。

「うっせいな。アイツが生意気なんだよ。いつまで経っても!」

「師弟だから。師を超えたい男気ってやつなんじゃないのかなあ」

 『師弟』!? 琴子は驚いて矢野さんを見てしまう。そんな琴子の視線に気がついた矢野さんも、キャップのつばをぐっと降ろして目線を隠してしまった。

「矢野さんは、元々、タキさんを雇っていた腕利きの車屋だったんですよ。タキさんの整備士としての育ての親。タキさんが店を持つと決めた時に、自分の店を閉めて『雇ってくれ』と言い出した変わり者ですよ」

 武智さんが教えてくれたことに、琴子はますます驚きただただ矢野さんを確かめるように見てしまう。

「うるさいな。俺はもう経営に疲れていたんだよ」

「でしょうねえー。整備士としては凄腕でも、そんだけ無愛想で頑固親父じゃあねえ。その点、タキさんの方が人脈もコミュニケーション力もあったもんね」

 武智さんは結構、ずばずば言う。だが矢野さんは黙って何も言わない。武智さんがさらに続ける。

「という経緯で。いま、矢野さんはうちの経営アドバイザーみたいなもんで、社長の補佐役、専務をしてもらっています」

 ――矢野専務!?

「でもね。矢野じい。そればっかりはほんと、覚悟したほうがいいよ。聞いてから動かしてよ、頼むよ」

「おまえ、黙ってろ。武智」

 矢野さんの目線ひとつで、武智さんがびくっとして黙ってしまった。

 だが琴子。この関係を聞いて、そして武智さんが案じている様子を見て、不安を覚えた。

「あの、その、もしかして、私のお願いって。あの、すごく、とんでもないことなのでは」

 激しい師弟の関係を知る者が『それだけはやめてくれ』と言いながらも、雇われ主のタブーに『師匠』という特権で矢野さんが動こうとしている。

 だが、その矢野さんに既に睨まれていて、琴子の背筋も伸びた。

「姉ちゃんよお。今更、やめるって言わないよな。その程度の女か。タキタの女は。おまえ、英児の車の存在のデカさに、これから振り回されたくないから、そこ『押さえておこう』と思ったんだろ」

 なんだかんだ琴子が言っても、そう、矢野さんが言うとおり。英児の中で『車は別格』。『彼の女になるなら、車に乗せられているだけではダメ。こっちから車に乗り上げないと』と思うことが多くなっていたから。運転免許をもって運転できるとか、そういう物理的な問題じゃない。『スピリット、精神と心』の問題。英児の心も運転席に常に乗っている。それなら琴子の心も助手席ではなく運転席にありたいといえばいいのだろうか。そこまではまだおこがましくて言えやしなかったが、でも、矢野さんに心の底の底まで見透かされている。

「英児の真の女になるなら、肝を据えな」

 鋭いけど、熱い目線。英児と同じだと琴子は思った。

「行くぞ。俺が教えてやるから、来い」

 琴子が返事もしないうちに、矢野さんは英児の車のキー片手に外に出て行ってしまう。

 それは琴子の答えなどわかっているとばかりに。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 矢野さんと龍星轟の店先に出る。直射日光の真昼。コンクリートから照り返す日光がまぶしい。

「客の車はさすがに『お試し』には使えねーから。タキの『アールサンニイ』をもってくるから待ってな」

 客の車は預かっているものだから当たり前だが、社長の車だって『お触り厳禁』のようなもの。

 英児さん。怒るかな。

 琴子はふと不安になったが、すぐに首を振る。

 なんだろう。琴子の脳裏に、夕暮れの中、たった一人でワックスがけに夢中になっていた英児の姿が焼き付いていた。

 この英児の自宅に来て、二人で過ごすようになってから、琴子はただ『かわいい、かわいい』と愛されるだけで良いのだろうかと思い始めていた。

 しっかり者の頼りがいあるお兄さんだけれど、本当はちょっぴり寂しがり屋の英児。そんな彼のことを、琴子はもっと知りたい。あの夕の日、夢中でワックスがけをしていた彼、あの時の彼と同じ気持ちになってみたい。私も……。そうするには、彼と同じように車と向き合ってワックスをかけてみたらどうだろうかと思っていたのに。英児は『しなくていい』とさせてくれなかった。

 英児はいま、整備用のガレージで作業中。矢野さんが向かったのは、その隣のガレージ。営業中は開いていて、そこには預かっている顧客の車が駐車されていたり、英児が所有している愛車が数台、駐車してある。

 アールサンニイとは、どの車なのだろう?

 数台所有している英児に一度ガレージで見させてもらったが、琴子が聞く限り『アールサンニイ』という車はなかったのに。と思い出す。

 やがて、その車がギュウンとエンジンを唸らせながらガレージを飛び出してきた。

 そこに現れたのは、あの真っ黒なスカイライン。

 店の前にいる琴子の目の前、そこへ素晴らしいハンドルさばきで、ぐんぐん方向転換をさせバックで停まった。

 運転席にいる矢野さんが、一瞬、英児と重なった。レトロな幻が現れる。サングラスにリーゼントのようなオールバック、そしてすごい柄模様のシャツを着ていたレトロなヤンキー男。その昔、このおじ様はそんな風貌だったのかもしれない。

 矢野さんが、バンと運転席のドアを閉めて出てきた。

「この車のこと。アールサンニイて言うんですか」

「おう。日産スカイライン八代目。R32 GT-R。通称R32」

 何故か、矢野さんが得意気な笑み。そしてやっぱりおじ様もにっこりした笑みでそのルーフを撫でる。

 その男達の顔。この店の男達のその愛おしそうな顔。それを琴子は知りたいだけ。そのままでいいから。ずっと車を愛して良いから。でも教えて。なんでそんな顔をするのか。

 だが恐れていたことは起きる。

 ガレージから、案の定、英児がやってきたのだ。

「専務、なにするつもりなんだよ」

 あの英児が本気で怒っている顔。流石に琴子もヒヤッとする。

「姉ちゃんがここの仕事を覚えてみたいだってさ」

 え、そこまで言っていないけど! 矢野さんが言い出したことに、琴子はびっくりして言い改めようとしたのだが、隣にいる矢野さんが意味ありげに琴子に着せた上着の裾を引っ張って、目配せをしてくる。

「琴子、なんのつもりだ」

 戸惑う英児が琴子を見たのだが、彼に問いただされる前に、矢野さんが遮ってしまう。

「まあ、いいんじゃねえの。『新入社員を雇う』予行練習だと思えばさあ」

 にやっと、からかうように矢野さんは笑ったのだが、途端に英児がぎらっとした目線を返してきた。

 師匠も負けない。ガンを飛ばす『弟子』に同じくギラリとしたガンを飛ばしている。

 似たもの師弟の間に、火花が散った。

 その時、琴子も感じ取った。『あ、もしかして。私、矢野さんに利用された』?

 師弟はなにやら『別問題』で対立しているようだった。


 


 

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