14.俺の店、俺の家

 土曜日の夕。琴子は母と共に料理をしていた。

「もー、あの滝田さんが、まさかまさか経営者だったなんてねーっ」

「別に。経営者じゃなくても、滝田さんは滝田さんでしょ」

 そんなうきうきしている母に対し、琴子は冷めた応答に徹した。

「あらあら。社長じゃなくても、彼はいい男だって言いたいんでしょ~」

 いちいち母は意味深な笑みを娘に見せる。琴子は素知らぬ顔。でも母も落ち着くと、ふっと穏やかな顔つきで呟く。

「でも、お母さんもそう思う。社長じゃなくても、彼はいい人というのは変わりないわね。また琴子にばれるまで黙っていたというのが奥ゆかしいじゃないの」

 先日、彼の正体が判明してから母にも報告。それから母は『やっぱりー! ただ者じゃなかった』と大はしゃぎ。

 娘とその彼がそれとなく『良い関係』になりつつあることも察しているようで、真っ向からの確認はしてこないが、もうわかっているようだった。

「ねえ、お母さん。やっぱり『お重』なんて大げさよ。こんなの電車とバスを乗り継いで持っていくの重たいもの」

 だが、そこは母が怖い顔を琴子に見せた。

「これぐらい。彼のために、頑張りなさい」

「お母さんが彼に食べて欲しいんでしょう、これ」

 お重に詰められたおかずのほとんどは母が作ったものだった。

 琴子が『土曜日に彼のお店を見に行ってくる。自宅も兼用なんですって』と告げると、また母が張り切って作り始めてしまったのだ。

 その横で、琴子は一品だけ。小アジの南蛮漬けを作った。

 夏本番、まだまだ空も明るい夕。母娘はお弁当を作り終え、琴子も出かける準備を整えた。

「行ってきます。きっと彼、お母さんのお弁当を喜んでくれるわよ」

「お店の従業員さん達にも、きちんと挨拶をするのよ」

 英児から『俺の他に、整備士が三人と事務員が一人いる』と聞かされていたので、母に言いつけられ琴子も頷いて出かける。

 

 だけれど、琴子はそれを避けていく心積もりだった。

 自宅を兼ね備えているといっても、彼にとっては職場。あまり姿をちらつかせたくない。『お店を閉めるころに行くね』と彼にも伝えていて、英児も承知してくれた。

 彼の仕事姿を見たいけど、それはまた次の機会に。まだつきあい始めたばかりだから。

 母とこさえたお重を持ち、琴子は電鉄の駅へ向かう。

 日が傾いたとはいえ、まだ空は青々としていて蒸し暑い。日傘片手にのんびり歩く。

 峠が近い郊外にいる琴子の家と、海側にある空港近い郊外に店を持つ英児とは正反対に位置しているといっても良い。そこへ今から郊外電車とバスを使って向かう。

 

 一度中心街の駅を降り、そこから空港行きのバスに乗る。店の立地はほぼ空港の傍。

 道順も教えてもらったが、本当に郊外だった。少し行けば、この前行った入り江からきらきら光って見えた工業地域。だけれど、あそこなら街の雑踏や賑やかさからは遠ざかるが、のびのびとした環境で店を運営しているのだろうと想像できた。

『一目でわかると思うから』

 あの龍星轟のマークが目印と英児が笑っていた。

 郊外電車にバスを乗り継いで行くうちに、空に茜が滲み始める。バスの窓には、離陸したばかりのジェット機が横切っていく。夕なずむ空へ機首を上げて。

 空港をすこし通り過ぎた国道沿い。住宅地というよりかは、店舗や企業事務所が多い事業所地帯と言えばいいのだろうか。そんな道筋にあるとあるバス停で琴子は降りる。あとは道沿い、日傘を差してゆっくりと行く。

 でも胸がドキドキしていた。彼のお店。彼の会社。彼の自宅。彼の世界。琴子はそれを初めて目にするから、見たかったから。

 そしてついに、その目印をみつける。

 まだ目の前じゃない、百メートル以上ありそうな位置でもすぐにわかる。コンクリートのフェンスにでかでかと、あの龍と星のロゴマークがペイントしてあったから。

「ほんと。一目でわかっちゃう」

 揺らめく熱気がまだある夕の歩道を琴子は急いだ。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 フェンスのペイントが、おそらく看板代わり。店を取り囲んでいるコンクリートのフェンスに辿り着き、琴子はそこを超える前にそっと覗いてみた。

 奥に二階建ての事務所らしき建物、その隣にシャッターがあるガレージが二つ。ひとつは開いていて如何にも整備ガレージと伺える設備と車が数台入っている。その隣のガレージはシャッターが閉まっていてわからない。

 建物前にはガソリンスタンドのように広めのコンクリの敷地になっていて、そこで彼が車一台と向き合っていた。

 いつもの紺色ジャケット。今は夏服なのか半袖、その袖にあのワッペン。そしていつもと違うのは、デニムパンツではなく上着とお揃いの作業ズボンを履いている姿だった。上下お揃いの作業着。本当に整備士を思わせる姿。

「タキ、帰るぞ。お疲れ」

 彼と同じ上下紺色の作業着姿の男性が見えた。若い男性ばかりかと思ったら、琴子の父親ぐらいの年齢かと思わせる初老の男性もいる。少し意外に思った。まさに『職人気質』を思わせる強面のおじ様。

「ああ、お疲れさん。あとは俺がやっておくよ」

「気前いいねえ、女を待っているヤツは」

 おじさんがニヤリと笑う。そして琴子はドッキリ、彼が琴子を待っているだなんて……既に従業員に知られているみたいだから。

「うっせいな。せっかく早く閉めるんだから、とっとと帰って孫のところに行けよ。たまには娘さん家族に親父からサービスしろよな」

「余計なお世話だ」

 孫がいる親同然と言った年齢らしい。琴子はますます驚く――。

「おめえよ、惚れたら一直線になるんだから、夢中になりすぎるなよ。まあ、店終わってから来るような女で安心したわ。おまえの女気取りで営業中にその面でくるような女は反対しようと思っていたけどな」

「……彼女の方がしっかりしているもんでね」

 琴子はまたドッキリ。やはりこの気構えで正解だったと安堵のため息をひっそりついた。

 社長さんは彼かもしれないけれど、やはり年配の目上の人がいるなら、あの男性が若い経営者のお目付、気を配っておいて正解だった。

 社長さんに挨拶はしなくて良かったが、いずれ、あの強面のおじ様にはきちんとした挨拶をしておいた方が良さそうだと思った。

 そのおじ様は店の端に駐車している車に乗り込んで、龍星轟の店先に出てきた。道路に出るための停車、左右を確認している運転席。その時、おじ様の目線がフェンスの影に身を潜めていた琴子とかっちり合ってしまった。

 会釈をしたいが、咄嗟に日傘で顔を隠してしまう。道路を走っていた車が途切れ、帰路につくおじ様の車が発進。

 ――『プップッ』。

 琴子の前をすがる時、クラクションを鳴らされてしまう。『私が誰か、知られてしまった』。そう思った琴子は遅いとわかっていたが、日傘を閉じ過ぎていってしまった車へと会釈をしておいた。

 空の茜が薄らぎ、空港とその向こうの内海に夜の青が忍び始めている。琴子はまたフェンスから店先を覗いた。

 従業員が帰り、店長たった一人の店先。事務所の看板にも龍と星、滝田モータースの文字は小さく添えられているだけで、龍星轟という文字とロゴが大きく描かれていた。その看板を照らすライトが、事務所前の作業場で車を磨く彼を照らす。

 ワックスがけをしているようだった。黒い、ちょっとレトロな車。車好きのマニアが所有していそうな車だった。その車にワックスを掛けている。

 丸いケース片手に、スポンジにワックスを取り、それをボンネットに丁寧に塗っている彼。人の車でも英児のその横顔は真剣だった。初めて見る横顔に、琴子は釘付けになる。

 低いボンネットに身をかがめ、長い腕がじっくりと車のボディを磨く。決して楽な姿勢ではなくとも、英児はボンネットの端の端まで、きちんとワックスを塗り込んでいる。その手つきに、やはり愛を感じた。車を優しく撫でる手……。ちょっとドキドキしてしまう。だけれどそんな琴子の僅かな女のときめきを霧散させてしまうのは、英児の眼だった。離れているここでも、彼のあの黒い瞳がきらめいていて、はっきりと見える。その眼に濁りはない男の純粋な輝き。さらに真一文字に結ばれた口元に揺るぎない信念を見る。そんな彼を琴子はひたすら見つめていた。いや、近づけなかった。そして、見ていたかった。

 そんな英児はやっぱり素敵だなと思った。なかなか見られないだろうから、琴子はここでじっと見ている。

 やがて空は薄暗くなり、ぱたくたと小さなコウモリが英児の店の上を飛び交う。僅かな茜を残した夜空に、東京行き最終便のジャンボ機が横切っていく時間。そこでやっと英児が腕時計を確かめる。はっと我に返った顔を琴子は確かめる。慌ててポケットから携帯電話を取り出す英児の姿――。

 琴子はそっと微笑んでしまった。本当に車のことが好きで、没頭したら時間を忘れてしまうのね……と。

 肩にかけている白いバッグから着メロが流れる。その時やっと、琴子はフェンスから店の入り口へと立った。

「琴子」

 バッグの中のメロディがやむ。英児も電話をポケットにしまい、すぐにこちらに駆けてきた。あの作業着姿で慌てるように。

「いつからそこに」

「もう一人の整備士さんが帰る時から」

「えっ。どんだけそこにいたんだよ」

 面食らう英児に、琴子もそっと笑う。

「英児さんがどれだけ車が好きか、よくわかったの」

 ワックスがけを見られていたと知り、しかも黙ってじっと見られていたことに、英児が唖然としている。

「うんとかっこよかった。だから、ずっと見ていたくて……時間が経っちゃった」

 少しだけ申し訳なさそうな小さな笑みを英児が見せる、でもすぐにいつもどおりに琴子の肩を抱いて胸に寄せてくれた。

「暑いのに。なにやってんだよ。待っていたんだからな」

 待っていてくれたのだろうけど、車にはまだ勝てないのかもしれない。琴子は胸の中だけで呟き、それでも油の匂いと煙草の匂いがする彼の作業着に頬を寄せて静かに微笑む。

「これ。母が英児さんに食べて欲しいって。また張り切って作っちゃったの」

 風呂敷に包まれたお重を運んできた紙袋を差し出すと、彼が母に見せていた無邪気な笑みをすぐさま浮かべた。

「うわ、嬉しいな。この前いただいたお母さんのメシ、マジで美味かったんだ」

 琴子の手から、彼が本当に嬉しそうに受け取ってくれた。

 社交辞令じゃないと、今ならわかる。でも……それでも本当に嬉しそうな顔をするのが、ちょっと不思議だった。

 

 二階が俺の自宅な。

 英児に手を引かれ、琴子は『龍星轟』の店内兼事務室へと連れて行かれた。

 そんなに広くはない店内。接客をするための綺麗なソファーやテーブルが二セット。カタログがたくさん展示されているマガジンラック。店のガラス壁には、いろいろなカー商品が展示されている棚も。

 そして奥にはノートパソコン数台を置いているデスク。事務所スペースといったところのよう。

「ここでお客様と話し合うのね」

「ああ。車の部品、内装のインテリア、うちでセレクトしているカー用品。いろいろな」

「車のセレクトショップね」

「そうとも言うかもな。とにかくさ、いろいろ探して試すのが好きだからな『俺たち』。それを客にも勧めているだけ」

 ――『俺たち』という言い方が、彼らしいと琴子はまた微笑む。先ほどのおじ様を含め、きっと彼に負けない車好きが集まっているお店なのだろうと想像できた。

「二階が俺の自宅な」

 事務所デスクが並んでいる向こう、壁際にドアがある。そこを英児が開けると、二階に向かう階段があった。

 この造りだと、最初から店舗兼自宅を要望して建てたとしか思えなかった。

 その階段を上がると、本当に玄関のようなドアがある。そこを彼が鍵で開ける。

「わるい。勝手にあがって良いから。俺、店を閉めてくるからここで待っていてくれ」

「うん、わかった」

 琴子を玄関に入れると、英児は急ぐようにして階段を下りていく。

 ついに彼の自宅に来てしまった。琴子はまたドキドキしながら靴を脱ぐ。

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