24.いつ、帰ってきた?

 気怠い朝の睦み合いの後、琴子もしっかり汗を流して、いつもの自分に戻る。

 黒髪を綺麗に整え、メイクをして、休日用のお洒落をする。今日は真っ白なシフォンブラウスに、ベージュのショートパンツ。それにヒール高めのエスニック風サンダル。

 ベッドルームで身支度を終えリビングに行くと、煙草片手に新聞を読んでいる英児が待っている。

「支度できたか」

「うん。お待たせ」

 彼も、襟と袖口を紺色ラインで縁取っている白いポロシャツにデニムパンツと、いつもの姿だけど夏らしく爽やか。トワレをつけたばかりなのか、英児が動くだけで男っぽい香りが窓から入ってくる風にのって広がる。

 二人で一緒に、既に開店している龍星轟事務所へと降りる。英児からドアを開けた。でも事務所には武智さんだけ。

「うっす、武智。おはようさん。午後までよろしく頼むな」

「了解。いってらっしゃい店長。おはよう、琴子さん」

 英児宅に初めて泊まった女、その女の朝の顔。それを見られた気がして琴子はわずかに躊躇したものの、武智さんの眼鏡の笑顔があんまりにも爽やかなので自然に微笑んだ。

「おはようございます。店長をちょっとだけお借りしますね」

「あはは。土日に半休取るのは、俺も他のおじさん達もよくやっているから気にしないで。せっかくの日曜休暇だから楽しんできたらいいよ」

 こういう人なんだなあと、いつものさりげない気遣いが武智さんらしいと琴子もほっとする。

 英児はデスク後ろの壁に備えているキーを眺めている。

「今日はどの車にするか。琴子はどれに乗っていきたい」

 迷わずに答える。

「ゼット!」

「よし」

 英児がフェアレディZのキーを手にする。

 店先に銀色の車が出てきてから、琴子も事務所を飛び出す。

「おう、琴子。おっちゃんになんか美味いもん買ってきてくれよ」

「はーい、わかりました。店長をお借りしますね。行ってきます」

 ガレージから叫ぶ矢野さんに手を振って琴子は助手席へ。

 シートベルトをしている時に、英児がガレージにいる矢野さんを見ながらふと溜息をついた。

「オヤジなんだよ。琴子が頑張りすぎるから、一緒に休んでやれって半休を勧めてくれたのは……」

 それを聞いて、琴子はとてつもなく驚き固まった。

「そうなの。だから英児さん、私に『休め』と言い出したの?」

「いや、俺もそろそろ『力を抜こうぜ』と言おうとは思っていたんだよ。でもさ、俺も琴子がどう考えているか、わかっちゃうんだよな。琴子がすげえ頑張り屋で頑張っちゃう女だって。ひとまず気が済むまでやらせてから、タイミングを見て息抜いてもらおうと思っていたんだよ」

 琴子の胸を、なにかが貫いていく――。

 それはやっぱり恋するまま大好きになってしまった彼と一緒にいたいと、年甲斐もなく周りが見えなくなっている自分に気付かされたことや、そんな自分を穏やかに見守ってくれていたおじ様にお兄さん達が遠回しに気遣ってくれていたことや。そして何よりも、まだ付き合って間もないはずの恋人が既に『私のこと、よく知っている。見ている、理解してくれる男性』であったこと。それが涙が出るほど嬉しくもあって……。

「あの、そんな気を遣われるほど頑張っていたつもりなかったの。でも、ごめんなさい」

 だけれど、英児もシートベルトを装着しながら笑っている。

「ごめんなさい、なんて言うほどのことか? つーか、それが琴子だろ。初めて見た時だって疲れきった顔で徹夜明け。慣れない暑さの中、無理すんなと止めても、草引きやり遂げて。そんでもって最後は、俺の車を全部磨くと言い出してきかなくて。あの頑固な矢野じいまで巻き込みやがって」

 ゼットにエンジンがかかる。

「それが琴子だって。そんな琴子に俺は惚れたんだと思っているから」

 ハンドルを握った英児がアクセルを踏む。日曜の午前、龍星轟から銀色のゼットが青空の下飛び出した。

「……でも、反省。これからは店長を休ませてしまうような、行きすぎた頑張りはしません」

 嬉しさ反面、どうしようもない申し訳なさも琴子の中で入り交じる。自分の気持ちさえ満足すればいいものではないと身に沁みた。

「まあ、これからはたまには休む姿を見せた方がいいかもな。良い意味で『適当にやっている』ところを、琴子だからこそやってもいいと思うんだよ。店のヤツらも琴子はやる気になったらとことんやる女だって充分理解してくれていてさ、そういう反応をもらえると、俺もさ、嬉しいんだよ。頑張り屋の彼女だって言ってもらえて」

「うん、わかりました。皆さんが安心してくれるようにするね、これからは」

「そっか。安心した。琴子だって自分の仕事を持っているんだからさ。平日の仕事中に倒れたとかされちゃあ、俺が三好さんに怒られてしまうもんな。それ困る。龍星轟には行くなとか言われたら、哀しくなるわ。三好さんにとっても、琴子は大事な戦力なんだからさ。力使うところ間違えるなよ」

「はい」

 やっぱり、彼はずっと大人だなと琴子は痛感。どんなにプライベートで悪ガキみたいに琴子にふざけてばかりいても、大人としてどうするべきか、押さえるところをきちんと押さえ、彼女が道筋を逸れそうになったら冷静に遠くから見守って、そのタイミングになったら軌道修正のアドバイス。青空の国道を行くゼットの助手席で、琴子もほっと一息。英児は琴子にも頼れる兄貴だった。


 ローからハイへ、英児の手がギアを軽やかに動かす。空港沿いの国道を唸るゼットが真っ直ぐ走る。

 彼と一緒にいるのは、この力強く走る車のがっしりとしたシートに座っているのと同じような気持になる安心感。

 そして今日はこの素晴らしい夏晴れの中、どこへ連れて行ってくれるのだろう。いつも知らないところへ連れて行ってくれる彼の運転に任せて、琴子の期待もふくらむ。

「さって。昼飯はあそこで食うか」

 いつもは郊外へ遠い町へと向かう傾向がある英児のドライブコース。なのにゼットがウィンカーを出したのは、この中心街のデパート駐車場。

 あら? なんだか英児さんらしくないんだけど?

 そう思ったけれど、銀色のフェアレディZは大手百貨店の立体駐車場へと入ってしまった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 すっごい拍子抜け。日曜の昼前、人が多い百貨店の中を彼と歩く。こんなふうに人混みの中を英児と歩くのは初めて。……らしくない、絶対にらしくない。

 ああ、でも久しぶり。琴子は辿り着いた百貨店内を見渡す。英児と出会ってから、こうした街中に出かけなくなったし、買い物もしなくなった気がする。

「実は、昼飯が目的ではないんだ」

 え。それなら、どうしてここに連れてきたの?

 そう聞こうとしたら、この人混みの中、英児からぎゅっと手を繋いできた。琴子もちょっと驚いたが、嬉しいというより『なにをする気』という気持。真顔で黙っている英児の目が、琴子と手を繋いでデートなんて浮かれた眼差しではなかった。

 案の定、強く手を引かれてどこかに連れて行かれる。

「え、なに。なに」

 英児はエスカレーターにさっさと乗って降りていく。人々の隙間をぬって迷いなく進む英児が、琴子の手を引いて辿り着いた場所。そこを知り、琴子は唖然とする。

 そこは、琴子いきつけのショップ。英児と初めて出会ったときに汚されてしまったパステルグリーンのコートを買ったところ。そして英児が代わりのトレンチコートを買い直してくれたお店。

「え、どうして」

 本当に何をしにきたの? 琴子はまだ飲み込めない。

 でも男の英児から堂々とショップへと入っていってしまった。

 見慣れたショップスタッフが笑顔で『いらっしゃいませ』と言った途端、英児と琴子を見て驚いた顔。

 もう、それだけで琴子は逃げ出したくなった。大好きなお店だけれど、でも『いきさつ』を知られるのも説明するのも、たとえただの客でもそれはちょっと気恥ずかしいし、照れてしまうから。

 それなのに、英児は。

「その節はどうも。お世話になりました」

「いらっしゃいませ。え、やはりコートを汚してしまった女性というのは大内様だったということですか。では、あれから……?」

 お洒落なスタイルにきめている顔見知りのスタッフが、もうそれだけで察してくれた。

「おかげさまで。こちらのコートのおかげで、ね」

 全ては言わずとも、英児が意味深に笑っただけで、ショップスタッフの彼女が『ええー、でも素敵!』と騒いだ。

「大内様、おひさしぶりですね。うちの商品がご縁を結んでくれたなんて嬉しい。どうぞご覧になっていってください」

 この時期、既にバーゲンで琴子もたくさん買い漁りに来るところなのに。今年はまったくその気になれず、そのままだった。

 それにしても。英児は何故、急にこのお店に来たのだろうか。

 いちいち店先で躊躇していると、男の英児からショップの中をうろうろ。奥の壁に並べられているワンピースを彼から眺めている。しかもそのうちの二、三着をハンガーごと取り出して、店の接客用ガラステーブルへと置いてしまう。

「これ、琴子が好きそうだな。それから、あれもかな」

 彼からどんどん、棚にたたまれているカットソーからブラウス、そしてブティックハンガーに吊されているスカートまで次々にテーブルへと持っていく。

「すごい。あの、本当に大内様が選んでいるみたい……で……」

 琴子もびっくり。もし、これ全部買えるなら本当に全部欲しいというデザインの、琴子好みの服ばかり。

 そして英児が選ぶだけ選んで琴子に言った。

「だろ。俺、わかるんだ。琴子がどんなものが好きか。これ俺が買うから、琴子も好きなもの選べよ」

 全部俺が買ってやると言い出して、琴子は飛び上がる。

「ま、ま。待って。服ぐらい自分で買うから!」

「言うと思った。だから黙って無理矢理ここに連れてきたんだよ」

「どうして急に。こんなにいらない。他にもたくさん持っているんだから」

「だってさ。おまえ、俺と付き合うようになってから、服を買っていないだろ」

「いつだってちゃんと欲しいときに買っています。ただ、今は、ちょっとだけ……」

 あなたといる時間に夢中だったから……。

 とてもじゃないけど、こんな人目があるところでは言えない。

「だってな、本当に俺が好きな服を琴子が好きなんだもんな。ちょっと試してみたかったんだよ。どれだけ俺と琴子の好みが合っているかってこと」

「それだけのために?」

 これは一種の遊びでやったのかと琴子はますます唖然とさせられる。

 でも少し違ったよう。あの優しく滲む目尻の微笑みを、英児が静かに見せる。

「店のジャケットは龍星轟スタッフから。これは、事務所の接客用品を改善してくれたり、店の代車とか俺の車を磨いてくれた彼女へのボーナス、バイト代。それでいいだろ。これぐらいはおまえ、ずっと働いてくれていたよ」

「え、そんな。そんなつもりでやったんじゃないもの。好きでやったのに」

 それでも即決の男が、自分が選んだ服から何点か選り抜きスタッフに差し出す。接客する隙もない決断に、スタッフの彼女も口を開けて呆けている。

「琴子が選べないなら、これは絶対に着て欲しい服を俺が勝手に買うからな。これだけちょうだい。俺が彼女に着て欲しいから」

「あ、はい。あ、ありがとうございます! えっと、お包みいたしますね。こちらにお座りになってお待ちください」

 そのガラステーブルにある猫足の椅子へと促され、英児は満足そうに座り、琴子は腑に落ちないまま隣に座った。

 スタッフの彼女がタグの半券をちぎり、電卓で会計をする。英児は財布からクレジットカードを差し出してそのまま支払ってしまう。

 スタッフの彼女が、ショップ外にあるフロア共通のレジへと向かっていった。ショップの中、二人きりになる。

「あの、有り難う。本当に着たい服ばかりでびっくりしちゃった」

 急に座っているソファーでわざとらしくふんぞり返った英児がニヤリと笑う。

「まあ、なんていうの。作業着で油まみれの俺だけど、洒落た店で男の甲斐性もやってみたいわけよ。ちょっとだけ良い気分にさせてくれよ」

 また、嘘。洒落た店で男の甲斐性を格好良くやってみたかったなんて。あなたはそんな男じゃない。甲斐性をここで感じる男じゃない。でもそう言えば、琴子が受け取ってくれると思っているのだろう。今度は琴子がわかりすぎてしまう。そんな彼の優しさとか嘘のつき方が……。

「明日から日替わりで着て、会いに行きます」

「よっしゃ。楽しみ。脱がすの」

「ほら。すぐにそういうこと言うの。本当はそれが目的なんじゃないのっ」

「あはは。そうです。それも目的です」

 開き直ったので、琴子は思わず彼をどつきたくなった。でも英児はケラケラと笑って楽しそう。結局そうして、悪ガキの英児に茶化されたままお終い、琴子も笑ってしまっている。

「買い終わったら、海まで走って外で昼飯食うか。やっぱここの店より、俺は外の店がいい」

「私も。外の風と緑の中に行きたい。時間が大丈夫なら、漁村のマスターのピザが食べたいな」

「大丈夫だろ。間に合う。じゃあ、そこで決まり」

 初めて一緒に食事をしたお店、そして……その夜、初めて。それを思い出したのか、二人の眼差しが熱っぽく見つめあう。賑わいの中だけれど、そっとテーブルの下で手と手を繋ぎ合う。

「お待たせ致しました。こちらにサインをお願いします」

 スタッフの彼女が帰ってきて、英児がボールペンでサインをしていた時だった。

「お忙しいところ、失礼致します」

 黒い制服のワンピースを着込んでいる他ブランドショップの店員が入っていた。

「お疲れ様です。海藤店長」

 すっとした涼やかな佇まい、きりっとした横顔。一目で一階下のプレタポルテにあるショップスタッフだと判る凛々しい女性。所作から雰囲気からハイブランドスタッフの品格を感じさせた。

 だがそこで英児のサインをするペン先が止まったのを琴子は見た。彼がその女性を座っているソファーから見上げる。

「当店に来店されているお客様に同伴されていたお嬢様が、こちらでお母様と見られていたフリルのスカートと、当店のブラウスを合わせたいと仰っているので、お借りしたいのですが」

「どちらのお客様ですか」

 黒いワンピースの女性がその名を呟くと、ヤングブランドのスタッフである彼女もすぐに判った顔でスカートを取りに行く。

「ちえり、じゃないか」

 英児が呟いた言葉に、琴子ははっとする。彼が女性の名を言ったから。

 そして呼ばれた女性も、やっとそこ座っている男性を見下ろした。そして、彼女もゆっくりと驚きの顔に変わっていく。

「英児……」

「いつ、帰ってきたんだ。神戸はどうした」

 英児の問いに、彼女が目を逸らした。

 そして英児も、そっと彼女から目線を外した。目が合うこと見つめることは耐え難そうにしている二人を見て、琴子もすぐに判った。

 この女性が、英児の元婚約者なのだと――。


 

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