27.鍵、返してくれ

 以来、『千絵里』という女性の影は薄れていく一方。

 英児自身も一切ちらつかせないし匂わせない。矢野専務も警戒を解いてしまった。そして琴子も『もう私も気にしないほうがいい。これからの二人のことだけを考えていけば……』と、密かに警戒していた心が緩みそうになっていた。

 

 盆の迎え火をついに迎えていた。

 毎年、両親と共にオガラに火をつける『迎え火』は必ず行っていた。今では『父を迎える』という気持ちが強く、そこは新盆を迎えた時から琴子にとっては大事な行事。

 この日だけは母と一緒に一日を過ごし、父のことを語らう。英児もひとまず実家に帰ることにしているようだったが、やはり詳しくは彼からも話してはくれない。

 家族とどれだけ上手くいっているのか。琴子はまだ知らない。だけれど矢野さんが案じている琴子を見抜いてくれたのか『大丈夫。あれでいて兄ちゃん二人と、義姉ちゃん達が助けてくれたり、案外可愛がってもらっているんだよ』と、そっと教えくれた。それならとりあえずは大丈夫なのだろうかと、琴子はひとまず安心して英児自身に過剰に触れないように努めた。

 龍星轟でいつも抱き合って愛し合って夢中になる日々はひとまずお休み。互いの家族の元に戻り、亡き親を弔ってから会うことにした。

 

 送り火を前に、二人で遠出をする約束。その日にやっと英児と琴子は再会。以前話し合ったとおりに、県外の大橋と島を目指してドライブに出かけた。

 恋人になって初めての遠出。一日中二人きりで、作業着を着ていない英児と一緒に風を切るドライブを楽しんだ。琴子の希望どおり、フェリーに乗って小島をフェアレディZで一周。オリーブの丘を一緒に歩き、地元出身の元ホテルシェフが経営している小さなレストランでちょっと贅沢なランチコースを食べたり、土産店であれこれ選んだり。本当に恋人らしい一日を過ごした。


 帰ってきたのは日が暮れてから。やはり二人が帰ってきたのは、龍星轟。英児の二階自宅。


 彼の自宅に来たのも、泊まるつもりだった。盆休みで誰も出勤してこないし、明日一日お休み。遠出をした翌日は送り火をする夕まで、彼と過ごすことに決めていた。

 互いに、この日まで家族とじっくりと向き合う盆を過ごしたので、今から本当に『二人きり』。

 静かな郊外にある龍星轟の二階自宅。そこで琴子はいつもの週末のように、じっくりと入浴をして、遠出の疲れを癒す。

 今夜はゆっくり、彼と眠ろう。

「お風呂、お先に」

 寝室に戻ると、英児が窓辺で煙草を吸っていた。

 いつもの遠い目をしていたので、琴子はドキリとする。

 ――何を考えているのだろう。

 いつも快活な彼がそんな目をしている時は、いつも胸騒ぎが起こる。

「ああ、俺も入ってくる」

 ガラスの灰皿に煙草を消し、いつになく神妙な彼が静かに寝室を出て行った。

 ちょっと彼らしくないような気がした。いつもなら、風呂上がりの琴子を見たら悪ガキになって茶化したり、抱きついてきて悪戯をして、困っている琴子を見て楽しみそうなのに。

 でも、この時。英児の中で、彼が一人で真剣に何を思っていたのか。琴子はこのあとすぐ、知ることになる。

 

 だから、それは琴子にとっては唐突だった。

 先に入浴を済ませた琴子は、すっかり二人きりで過ごす部屋になった寝室で既に横になっていた。もう眠気が……。英二を待っている間に寝ないようにと、そばにあるライトをつけていたものの、その柔らかで優しい灯りが余計に眠気を誘う。

 ついにうとうとしていたのだろう。英児がいつこの寝室に戻ってきたのか判らなかった。

「琴子、琴子……」

 耳元が熱くなる感覚と、身体に重みを感じて、琴子はうっすらと目覚める。

 仄明るいライトが消され、部屋は青い薄闇の中。

 そこにはもう、熱い肌で覆い被さる英児がいた。ぼんやりと目覚めたばかりの琴子の身体を既に上に向け、ショーツもキャミソールも脱がされている。胸元には柔らかい彼の黒髪がさわさわと触れてる。乳房にはきゅんと広がる甘い痛み。もう彼に愛されていた。

 だが、何をされているのか気がついても、琴子はそのまま力がこもらない両腕を彼の背に回して抱きついた。

「ごめんなさい。いつの間にか眠っていたの……」

 寝起きの掠れた声で囁くと、また熱い息を吐く英児の唇が琴子の耳をくすぐった。

「そのままにしてあげたかったけどな。でも俺……」

 わかっている。いつものようにそっと眠らせてはおけなかった、そんな彼が待ちきれずにいてくれた熱い気持ち。それが今、琴子の身体と肌にぶつけられている。乳房の先を強く愛される痺れに、吸い付くような彼の大きな手が肌を撫で回している。その狂おしくなる目覚めに、琴子は彼の胸の下で気怠くもがいた。

 いつもの少し強引なキス。まだ気怠い琴子には、刺激の強い目覚ましだった。

「英児……」

 彼の背に抱きついて、琴子も英児の肌に頬を寄せる。熱い肌と、そして……シャワーで汗を流してきたはずの男の身体から、あの匂い。その匂いを知って、琴子も徐々に覚醒する。

 まだつきあって数ヶ月。でももう何度も何度も何度も、この彼と愛し合った。それこそもう何年も愛し合ってきたのだと思えるほどに。琴子自身、こんなに頻繁に肌を求め合う付き合い方は初めてだった。それまでの性生活は、あからさまにならないようどこか本心を隠してきた。それが女の嗜みとさえ思っていたから。女の本心を隠して慎ましく、最低限にを心得てきたと思う。厭らしい貪欲な女に見られないよう、でも愛してほしい気持ちを少しだけ匂わせて彼に気がついてもらう。……なんて、そんなささやかすぎる女のサイン。そんなもの、この動物的で素直な生き方をしている英児の前ではあっという間に砕け散った。会えばキスをして、会えばすぐに彼が琴子の服をめくる。乳房に触れて愛して愛されて。ベッドへたどり着くまでの駆け引きもない。だって英児がどこでも琴子に抱きついて、すぐに素肌を探して触ってしまうから。琴子も場所も厭わず、そんな彼の手を許して委ねて、自分も一緒に溶ける。

 男と女が求め合うのに、時間をかける必要があるの? 欲しいから欲しいって求め合う。それが自然なんじゃないの?

 今までが馬鹿馬鹿しくなるほど、頭や身体の奥に秘めていた女の性がこんなに恥じらいもなく覚醒していくのが、こんなにもキラキラ煌めいて思えるものだなんて。思わなかった……。煌めいても良いものなんだって。思わなかった。

「あっ、え、英児……っ」

 何度愛されても。彼がどう愛してくれるか知り尽くしても。いつも通りの手順で愛されても。琴子の肌は湿り気を帯びいくらでも湿っていく。きっと英児も、琴子の肌から上気するあの匂いを嗅ぎ分けて、もっと狂ってくれるはず。

 琴子、すごいな。ほら、もう……。いつもの意地悪な囁き、そして意地悪な指先。とけていく琴子の状態を、英児は耳元で何度も囁く。

 そんな彼ももう、男の熱を滾らせて待ちかまえている。

 その男の情熱を片手に、英児は力なく任せている琴子の耳元で聞いた。

「今日は危ない?」

 熱い吐息を弾ませながら、英児が耳元でそっと聞いたこと。でも琴子は驚かない。たまに英児が尋ねることだったから、正直に告げる。

「うん……。どちらかというと危ない時期」

 いつも通りに答えた。そうすれば気持ちがどんなに盛り上がっていても、英児は諦めてきちんとしてくれる。今までそうだった。

「琴子――」

 『あっ』。琴子の中に熱い感覚――。彼の肌の暖かみ。

 不意をつかれ、琴子はしばし茫然としてしまった。

 この日は危ないのかどうか。英児は尋ねて答えをきちんと聞いた上で、琴子の中に素肌で入り込んできた。

 琴子をすべてを奪う気迫を見せてはいるけれど、英児は乱暴にはしなかった。ただ、そのまま琴子と繋がったままで止まっている。そして琴子の乱れている黒髪を頬からのけて、しっかりと瞳を見つめてくれている。

「嫌だった……?」

 どう答えて良いかわからなかった。でも……嫌じゃない。だって初めてじゃない。初めて抱き合ったあの月夜だって、こうして皮膚と皮膚が溶けあって一つになるような感覚に二人で燃えて熱く愛し合ったのだから。

 許されるなら、いつだってこうしてなんの邪魔もなくベールもなく、彼の熱い皮膚とくっついて愛し合いたい。本当の体温で愛し合いたい。でも、それは……。

 戸惑っている琴子に、英児が今夜はとても優しい口づけをしてくれた。

「琴子。おまえとずっとこうしてひとつになって、それで家族になりたい」

 琴子はもっと驚いて、目を見開き英児をまじまじと見返した。

「どうしちゃったの」

 でも。唇を塞がれる。そして英児がさらに強く、琴子を愛しぬこうと重なってくる。

 そのまま最後まで愛され抜かれたら……。その先に、確かに『家族』が見えてくる。

 怯むことなく、でもじっくりと琴子を愛し続ける英児が囁き続ける。

「俺は今すぐでも構わない」

 それは紛れもないプロポーズ? 不確かだけれど、琴子にはそう感じた。

 彼らしい。世に言われる女が喜ぶようなムードを作らず、こんな、こんな、本能的な愛を分かち合っているときに投げかけるだなんて。でも確かに男と女が何故結ばれるのか、その本質を目の前にして彼女と共に生きていくことを申し込んでいる。本当になんて動物的で野性的で、でも確かに本質通りで……。

「俺は、おまえと暮らしたい」

 まだ琴子の答えなど気持ちなど確かめていないのに、英児はいつも琴子を泣かせるような激しさで愛し始めている。

 でも琴子はもう泣いていた。涙がぽろりとこぼれて、やっと英児が我に返ってくれる。

「俺、また。勝手に……」

 本当に彼らしい。琴子の気持ちも聞かないで、俺の気持ちをぶつけてしまうところ。そして琴子も……どうしようもない、琴子も同じ。いつもと同じ。こんな一方的で強引な男の首に抱きついて、今度は琴子から口づける。

「英児、来て。そのままいつも通りに。愛して」

 それが琴子の答え。いつも通りに愛して。今夜でいいよ。私も覚悟できているから。

 ――家族になろう。

 そっと囁きあい、いつも以上に互いの身体を強く抱き寄せる。

 その寄せ合う強さも、ただ情熱的に愛し合っている恋人同士とはどこか違った。

 繋がるそこを押し付け合い擦りつけあい、どうすれば男と女の本当の目的が果たされるのか。二人でそんな途方もない見えない何かを掴みに挑むようなそんな意志を貫くような愛し方だった。

 力強く求めてくれる英児の背中を強く抱き寄せ、琴子は爪を立てる。

 英児の息づかいもいつもと違う。歯を食いしばって、身体中から溢れ出てくるあらん限りの男の力をすべて、琴子の中に注ぎ込もうとしている。そんな激しさ。

「琴子、いくぞ」

 琴子も涙ぐんだ目で彼を見つめ、こっくりと頷く。

 ――これで本当に、私たち。一緒になる。そして、もしかしたら。私の中に、もしかしたら!

 琴子の首元に顔を埋め、ただひたすら男の行為に集中する英児を抱きしめる。耳元に我を忘れた男の熱い声が、琴子の胸を激しく貫く――。

「はあ、琴子、琴……」

 琴子も目をつむった。その感触を待って……。そうしたら私と貴方の家族が……。とてもドキドキした。

 『カチャリ』。

 微かな異音? 男と女の湿った空気が二人きりの部屋いっぱいに取り巻く中、小さく乾いた音。気のせい?

 それは気のせいではなく、英児も気がついた。あんなに夢中になっていたのにピタリと彼の動きが止まる。こんな暗闇の中でも英児は何かを察知した夜行性の生き物のように過敏に反応している。素早くタオルケットを引き寄せ琴子の裸体を隠した。

 その尋常じゃない警戒した目線が、このベッドルームのドアへと向けられる。

 嘘――。二人だけしかいないはずの彼の自宅に、もう一人誰かがいる!?

 恐ろしく警戒した英児の眼差しの先、そこに『人影』。琴子の心臓が止まりそうになる。確かにドアのそこに人がいる!

 英児が信じられないことを薄闇でつぶやいた。

「……千絵里?」

 もう琴子は息が止まる! 彼とこんなにも裸で愛し合っている今、彼の自宅のベッドルームに、どうして彼の元婚約者がいるの!?

 その人影がさっと気配を消した。

「待て……!」

 混乱している琴子の目の前で、英児はとりあえず下着を履いて飛び出していった。

『待て、千絵里!』

 英児が大声を張り上げて彼女を捕まえようとしているのが、ここまで響いてきた。

 一人ベッドに取り残された琴子はまだ上手く飲み込めず、震えていた。

 つい先ほどまで、あんなに彼と今まで以上に……。これからだった。もうすぐだった。『一緒になろう。これからずっと一緒に暮らしていこう』と約束の印を得ようと愛し合っていたのに。

 息が激しく乱れて気が遠くなりそうだった。でも琴子も胸を荒げながらも、徐々に冷静になる。どうして彼女がここにいたのか。どうしてこの家に入ることが出来たのか。

 とにかく。琴子も側にあったブラウスを羽織って、ようやくベッドから降りる。部屋を出て、灯りがついているリビングのドアの前でそっとのぞいた。

 そこには本当に、あの彼女がいた。そして英児がそんな彼女の腕を掴んで睨んでいるところ。

「まだ持っていたのか」

 何故、彼女がこの家にいたのか。琴子がやっと思いついたことを英児が言った。

「鍵、返してくれ」

 英児はすぐに思いついて、だから彼女を逃がさないよう必死で追いかけて捕まえた。

 このまま帰しては、またいつその鍵で無断侵入をしてくるかわからないだろうから、英児も必死に彼女をひっつかまえている。

 だが彼女は項垂れながらも、暴れたりなどしなかった。むしろ琴子には『英児に捕まえて欲しかった』ように見えてしまった。

 そして彼女も叫んだ。

「ここは、私が暮らすはずだった家よ! 私のベッドもあったはずよ! あの彼女とあのベッドで愛し合っていたの? あのベッドは私が選んだのに!」

 思った。どこも終わってなんかいない。

 彼女の中では、彼の新しい自宅も、鍵も、ベッドも。すべて別れたときのまま生きている。

 そんな彼女が英児に抱きついて泣きわめいた。

「ここは私の家なのよ。貴方が私と暮らすために作ってくれた家なのよ! 彼女と愛し合うなら、この家を壊して余所でやって!」

「千絵里」

 彼が少しだけ。泣き崩れた元婚約者の身体を支えた。それだけでも、琴子の胸は張り裂けそうになる。

 踏み込めなかった。わんわんと泣いている彼女を胸にしている彼。そこはずっと何年も前に引き戻された二人がいる。その時、琴子はいない。そして今も琴子はそこに行けない、入れない。


 

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