20.これが最初の相棒
今度は矢野さんが横について、あれこれ口うるさくいちいち指示をして教えてくれた。だが琴子も黙って従う。
そしてワックスがけを終えたゼットを矢野さんとボンネットから眺めた。
銀色のボディだから、日光に反射しても黒いスカイラインほど塗りムラは目立たなかった。それでもまだある。
「いや、でも、さっきよりマシになったな」
矢野さんがいちいち『こうだ、ああだ。そうじゃない、こうやれ』と教えてくれたとおりにやったからだった。
「よし、店長に見てもらおう」
今度は事務所の社長デスクでノートパソコンを眺めている英児を矢野さんが呼びに行く。琴子も固唾を呑んで待った。
そしてやってきた滝田店長が、愛車のフェアレディZをひと眺め。今度は車を一周してあちこち眺めている。
「へえ。教えただけでこんなになるんだ」
「だろ。まあ、姉ちゃんのやる気もあるけどな」
「ふうん、なるほど」
英児は琴子を見ず、ひたすら銀色のボディの仕上がり具合を眺めていた。
「もう一台、持ってくる」
今度は英児が言い出し、矢野さんが驚いた顔。
「おいおい。車屋じゃない姉ちゃんにちょっと試しにやってもらっただけなんだから。もう今日はいいだろ。なあ、姉ちゃんも疲れたよなあ」
もちろん、疲れている。慣れない炎天下、琴子の全身は汗びっしょりで、腕はだるくなった。だが英児がキャップのつばからちらりと琴子を見た。その目が、店長でもなく恋人でもなく。なんだか彼にも少し迷いがある目に見えてしまった。なにか考えているのか。
「いえ、もう一台。頑張ってみます」
答えると矢野さんはまた驚き、英児はすっとガレージに行ってしまった。
「無理すんなよ。英児のやつ、まだやる気あるか厳しく試しただけだと思うんだよ」
「一台目でワックスがけがどのようなものか驚いて、二台目でやっとワックスがけがどのようなものか知ったから。お手軽に覚える彼女としては二台目まで充分ということですか?」
などと返してみると、またまた矢野専務の顔が驚愕で固まった。
「ふうん。なんだかなあ。俺もわかってきたわ。英児が姉ちゃんだけ平気でここに連れてきたのが」
「私だけ平気で?」
ちょっと引っかかた。矢野さんが急に慌てた。
「まあまあ。いい大人だろ。琴子ちゃんもさあ」
こんな時だけ『ちゃん付け名前』で呼ばれて、琴子は眉をひそめた。それって英児さんの昔の女性たちのこと? そうしたら、あの矢野さんがますます慌てた。
その代わりなのか、矢野さんがいろいろと教えてくれる。
「まあ、あのさ。出会いがあっても、続かなかったわけよ。英児のほうが怖じ気づいちゃってな。それに社長社長と浮かれてたかる女もいたんでね、出会いがあってもかなり慎重だったみたいだぜ。ちょっとだけデートして終わりってやつばっかな。そこんとこは寛大に……」
そこまで矢野さんが言ったところで、ガレージからまた車が一台出てきた。
話していた途中の矢野さんが、呆然とした顔で固まってしまった。目を見開いて固まっている。
「まさか、あれを」
英児がその車で再び、琴子の前へと車を停車させる。紺色の、また日産車。乗ったことがない車。初めて車庫の中にある車を教えてもらったけど、琴子はスカイラインとゼットしか覚えていない。 紺色の車から英児が降りてきた。
「これ。琴子一人にやらせてくれよ」
英児が矢野さんに話しかけるのだが、その矢野さんがまだ車を見て放心状態。
「おい、矢野じい!」
やっと矢野専務がはっと我に返る。
「英児、おまえ。いいのか、これ」
『いいのか』なんて、どういうこと? 琴子も首を傾げる。しかもあの矢野さんがびっくりするほどのこと?
「ああ。いいよ。琴子の気持がよくわかったから」
そして英児が琴子を見た。
車のルーフをぽんと叩いて、彼がいつもの英児の笑顔で琴子に告げた。
「日産シルビア、5代目 S13。こいつが最初の相棒だよ」
驚いて、琴子も紺色の車を見た。これが彼が走り屋として乗り回していた車?
「けど、その時乗っていた車じゃない。峠で怖いもの知らずで飛ばしていた時、事故って廃車にしちまったんだ。俺な。あの時スゲーこいつと別れるのが悔しくて、」
当時の悔しさが未だに忘れられないのか、彼が唇を噛みしめる。
「それから馬鹿な走りはやめた。安全運転で走りを楽しむ、車を大事にする車屋になるって決めたんだ。これは中古で買い直したヤツ。事故ったトラウマで滅多に乗らない。でも二度と失いたくないからそばに置いてはいるけど触らせない」
日産シルビア。彼の原点、だった。
その車を、琴子に磨かせてくれるという。
「いいよ。龍星轟の仕事ではなくて、俺の彼女として気楽に磨いてくれて。琴子がゼットを磨いているところも、タイヤにワックスをスプレーして艶出しをしてくれているところも事務所から見ていた」
「うん。楽しそうで触るのが嬉しそうで、下手っぴだけど車を大事にしてくれている可愛いにこにこ笑顔だったよな~。俺の女だったら、嬉しいわ」
矢野さんまで! そんな顔しながら車を磨いていたところ、事務所から英児にもじっと見られていたらしい……! そう思うと、かああっと頬が熱くなるほど琴子は照れてしまった。
しかも英児まで。しっかり見つめていたことを知られ照れて照れて琴子を見てくれず、帽子のつばでまた顔を隠してしまう始末。
それを見て、矢野さんが豪快に笑った。
「俺、監督だけするからよ。琴子、自分でやりな」
名前で呼ばれた。
「では、専務頼んだよ」
「おう、任せておけや。タキ」
どうやら、英児を店長と見ている時は『タキ』。弟子か息子のように見ている時は『英児』と呼んでいるようだった。
「ほれ、姉ちゃん。もう夕方になるぞ、早くしろ」
姉ちゃんに逆戻り? でも琴子ももう笑ってホースを手にしていた。
洗車をして、濡れた車をたった一人で拭いている間も、琴子は嬉しくて嬉しくてどうしようもなかった。
そんな琴子を黙って眺めているのが退屈だったのか、矢野専務が途中でぽつりと言った。
「もう今までの女なんて関係ねーってわかっただろ。英児がシルビアを触らせてくれたんだから。あいつ、琴子のこと堪らなく好きだと、おっちゃんはそう思うなあ」
彼の師匠からそう言ってくれるとなおさら嬉しい。でも琴子は聞こえなかったふりで作業をする。でも矢野さんは独り言のように続ける。
「琴子のようなお育ちが良いお嬢ちゃんに似合いそうな、大手にお勤めの高学歴な野郎じゃないけどよ。自動車専門の大学校を出て、国家試験の資格もいろいろ持っているし技術もあるしさ。こうして店も持っているしさ……」
まるで。息子を庇っているかのように琴子には聞こえた。
濡れた車を拭き終わり、琴子は座って独り言に懸命だった矢野さんに真っ直ぐに見つめて告げる。
「私、英児さんに出会う前、お見合いのお話いただいていたんです。『高学歴で、お家柄の良い、大手にお勤めの男性』。その男性が、男親も亡くなった上に後遺症を抱えている母親と二人だけで暮らしている女性は、母親の世話のために実家にばかり帰るだろうからお断りと、向こうから話を持ってきたのに会う前に断られたんです」
聞いた途端、矢野さんも『はあ? なんだって』と顔をしかめた。
「高学歴で、良いお家柄で、大手にお勤め。私にはその価値がどれだけ良いものかさっぱりわかりません。まったく魅力を感じません」
だから。英児という男を愛している。その顔を向けると、矢野さんはもう黙ってしまった。
最後、いよいよ琴子はワックスがけに入る。愛する男から託された車を、綺麗にするクライマックス。
「よろしく。英児シルビア」
事務所前、アウトドア用の折りたたみ椅子に座って監督をしている矢野さんの死角になる影で、琴子は紺色のボディにそっとキスをしていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
シルビアのワックスがけも終わると、また店長チェック。でももう英児の眼差しも柔らかかった。
「まあ、最初はこんなものか。ありがとう、琴子」
「でも。相談もせずに、今日は勝手にやりたがってごめんなさい」
最初、嫌な思いをさせたことを謝った。でも英児もそっと優しい微笑みのまま首を振るだけ。
矢野さんも椅子から立ち上がってひと眺め。
「最初のスカイラインに比べたら、だいぶマシになった」
「矢野さんのおかげです。丁寧なご指導、ありがとうございました」
頭を下げる琴子に、矢野さんも照れてまた帽子のつばで顔を隠す。琴子はくすりと笑う。父子じゃないのに、本当に親子のように仕草も生き方もそっくりで不思議な師弟の二人。
そんな矢野さんが、シルビアをじっくり眺めている英児を呼んだ。
「おい、英児」
呼ばれて振り向いた英児へ、矢野さんが何かを投げた。
「もう今日は店長担当の仕事、終わったんだろ」
英児が片手でパシリと受け取ったのは、シルビアのキーだった。
「おまえら、休みが合わないんだろ。たまには彼女を週末ドライブにでもつれていってやんな。店閉め、俺がやっておくから」
「え、いいのかよ。矢野じい」
戸惑う英児だったが、矢野さんがまたニンマリ、意味深な笑みを見せる。
「おう。俺、気に入ったわ」
何が? 英児が訝しむ。そして矢野さんの視線が琴子へと向かってきた。
「この姉ちゃん、やる気あるわ。車屋のカミさんになれるぞ。英児、嫁にしな」
『えー!』、英児と揃って飛び上がりそうになった。なんて大胆に直結を望む発言を! 婚約破棄の過去がある英児には、ある意味、敏感なところなのに。彼の親父同然の男はそこへバシッと切り込んでくる。
もう英児も琴子も呆然。しかも互いの顔を見ることが出来ないほど、なんだか照れてしまう…。だが矢野さんは、そんな二人を置いて、ガレージへと行ってしまった。
やっと二人で顔を見合わせる。
「せっかくだから、行くか」
「いいの? 英児さんは、もうシルビアに乗っても大丈夫なの」
あの優しい目尻の笑みで、英児が助手席のドアを開けてくれる。
「琴子が綺麗にしてくれたから、走らせないともったいないだろ。車は走らせて車なんだから。琴子が一緒なら大丈夫だ、きっと」
彼の最初の相棒。しかも曰く付きの相棒。その助手席に乗れる。琴子もにっこり微笑んで、その車に乗り込む。
夏の夕暮れ、港町へと英児のシルビアが風を切って走り抜ける。
空港を抜け、フェリーが停泊する港を抜け、夕の港町を英児は海沿いにずっと走る。
その間。何故か二人は微笑みあいながらも無言だった。
でも琴子にはこの嬉しさと、そしてもどかしさが混ざりあう奇妙な空気の根元をきちんと見つけていた。それは英児も。
「矢野じいが言ったことだけれど」
――嫁にしろ。二人の間で言葉にせずとも浮かんだだろう言葉。
「私、ずっと英児といる。あなたの部屋に通って、ずっと愛しあうの。これからもずっとよ」
夕の海をまっすぐに見つめ、彼の顔を見なかった。彼が結婚を意識してしまっていたから、素知らぬふりをする。だけれど琴子は『ただ一緒にいれたらいいの』と、それだけはっきりと告げる。結婚なんて言葉は、私たちには関係ない。
夕暮れの運転席、彼の黒髪もふわりと潮風になびいている。サングラスの奥の目は見えにくかった。でも彼は静かに笑っている。
全開の窓には、琴子の黒髪を強くなびかせる潮風。隣には夕の日射し除けに茶色のサングラスをかけた作業着姿の英児。そして琴子も今日は龍星轟のワッペンがあるお揃いの上着を羽織ったまま、隣にいる。
龍星轟のシルビア。運転席には龍星轟の店長。その隣の助手席にはお揃いの上着を羽織っている彼女。そこまで私たちは揃うことが出来た。
今はそれでいいじゃない。
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