36.俺が待っていること、忘れるな

 母が待つ家までほんの少しの距離。庭先まで銀色のフェアレディZは、無事に到着。

「あー、もっと運転したい。ねえ、今日、龍星轟まで運転してもいい?」

 助手席で固まって息を切らしている英児が無言で首を振る。

「……そうよね。いまはまだ英児さんがゼットを運転した方が、きっと気持ちがいいわよね」

 もう、これぐらいにしておこうかな。まだ初心者だと心得て、琴子は一人笑って、シートベルトを外した。英児もホッとした顔で助手席でシートベルを外した。

「か、帰りは俺が運転するな。それで今日は漁村まで連れて行ってやるからさ」

「ほんと。マスターのところに行くの?」

「ああ、結婚報告。おっさんにもしておかないとな」

 だから遠い運転はまだダメです。と言われ、琴子は笑顔で頷いて運転席を降りる。

「いらっしゃい」

 待ちきれなかったのか。母が杖をついて玄関から出てきた。そして運転席のドアを開けて出てきた娘を見て、母も仰天の顔。

「ちょっと、英児君っ。琴子にこの車を運転させたの!」

 久しぶりに会うなり、母が叫んだので英児が狼狽える。

「この子、仮免を三回も落ちたのよ。まだ取り立てなんだから、あんまり気軽に運転させないで見張っていてくれないと」

 え、仮免三回落ち! 英児がまたびっくりして琴子へと振り返る。だが琴子も言い返す。

「車庫入れが苦手で、車庫入れのミスだけで三回落ちただけよ。本免は一発で通ったもの。今だってここまでちゃんと一人で運転してきて――」

「あのね、琴子。英児君が上手に運転しているから、隣で座って見ているだけの自分も出来る気になっているみたいだけどね。そんな気になっているだけで、あんたがあんまり運動神経に反射神経がよくないのは母親の私が一番よく知っているんだから」

「運転は運動とは関係ないもの。ちゃんとベテランの教官の目で合格したんだからっ。一番怖いベテランの教官に見てもらっていたんだからね!」

 母娘が言い合いをはじめ、間に挟まれた英児がおろおろしているのも女二人は気がつかず。そして母と琴子は一斉に英児を見た。

「ちょっと英児君、なんとか言ってやって」

「ちょっと英児さん、なんとか言ってやってよ」

 彼を挟んで、いつしかのように……母と娘の言葉が二重奏になる。

 英児がそこで急に笑い出した。

「あの、俺も。お母さんと琴子さんの仲間に入れてください。お母さん、俺を息子にしてくれませんか」

 結婚の挨拶のはずなのに、思わぬ切り出しに母が驚いた顔に。

「やだ、英児君。そうじゃないでしょ。お母さんにじゃなくて、琴子を……娘を……」

 だが英児が仏壇がある部屋を見つめる。

「それは、やっぱりお父さんに報告させてください。お嬢さんをくださいと、親父さんとお母さんが一緒の時に挨拶したいです。俺」

 母だけじゃない。もういない父も『ここに居ますよ』と英児は言ってくれる。ついに母が涙ぐんでしまった。

「やあね、英児君ったら。なんなのよ、そのスーツ。格好いいけど、似合っていないわよ。お店のジャケット姿をお父さんにも見せてあげてよ。娘は車屋の嫁になるんだって報告してあげてよ」

「あはは。琴子さんにも同じことを言われました。やっぱ親子ですね!」

 軽やかに笑う英児をみて、琴子と母も顔を見合わせ笑っていた。

 どうぞ、お婿さん。これからもよろしくね。

 母が玄関の扉を開く。英児の手を取って、琴子は一緒に家の中に入った。

『お父さん、娘さんと結婚します』

 俺も家族にしてください。

 仏壇前で英児が正座で頭を下げて、そのあと静かに合掌してくれる。だけど英児は手を合わせながら急に一人で笑いだし、父の遺影を見て言った。

「お母さんと琴子さん、そっくりですね。お父さん、楽しかったでしょうね」

 これからは、彼も一緒。三人家族。線香の煙がたなびく仏壇前で共に笑いあう今日、この日から。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 去年の夏には気がつかなかったけれど、龍星轟の裏には桜の木もあっただなんて。

 団栗と百日紅と離れた一角、龍星轟の土地の入り口に小振りの桜が数本あって、いま満開だった。

 その花びらが、朝開けた窓からひらりと二人の寝室に入ってくる。

 目で追うと、まだ眠っている旦那さんの素肌の上に舞い降りていった。

「英児さん、私、先に行っちゃうからね。ちゃんと起きて朝ご飯を食べてよ」

 うーんととりあえず唸る彼。昨夜のままの裸に毛布を巻き付けて、寝返りを打ってそれっきり。まだ起きる気がないようだった。

 琴子は既に出勤の支度済み。旦那さんに一声かけて、出かけようとしているところ。

「もう英児さん。武智さんに、専務がもうそろそろ来るでしょう」

「わかって……」

 『る!』 そこで琴子の腕が掴まれる。ぐいっと引っ張られ裸の旦那さんが寝そべっているベッドへ強引に引き込まれた。

 気がつけば、裸の旦那さんが既に琴子の身体の上――。着たばかりのブラウスのボウタイリボンをほどき始めている。

「ちょ、ちょっと。やめてっ。もう出かける……んだ……か」

 もう出かけるんだから。そう言おうとした唇を強く塞がれなにも言えなくさせられる。

 ものすごい目覚めの機動力? 違う、わざと、わざと琴子を油断させて寝ぼけたふりをしていた。朝の窓辺ですっかり気を緩めて桜を眺めていた妻の後ろ姿。それをこっそり眺めて、この悪ガキは機を狙っていたに違いない。

「もうっ。しわになっちゃうっ」

「そっか。じゃあ、脱がしちゃえ」

 もう、もう。悪ガキっ。ダメダメ。抵抗してもお構いなしの旦那さん。

 せっかく綺麗に整えた黒髪も、きちんと着こなしたブラウスにタイトスカートも。すべてこの旦那さんが台無しにしてしまう――。イタズラな顔で、容赦なく、彼はブラウスをさらっといとも簡単に奥さんの身体から剥ぎ取ってしまう。

「やめて……。もう出かけるんだから」

 でも琴子はもう降参していた。頬にキスをされ、髪の毛を優しく撫でられて……。彼がもうランジェリーの下に手を滑らせて、『いつも通り』。肌の暖かみを手のひらに感じて、目の前で満足そうに微笑んでいる。

「出かけるって、ずいぶん早い時間だな。どうせまた遠回りのドライブをして会社に行くんだろ。その遠回りをやめて、俺とさ……」

 その時間を俺にくれよ――。頬にまぶたに、耳元に。そして柔らかい肌のあちこちにキスをされて、琴子はついに英児を白い腕の中に抱きしめてしまっていた。

 なし崩しなのは、琴子のほう。結局、この悪ガキに愛されて愛し返してしまう。

 朝から濃密なキス。夜と変わらない交わりに没頭して、でも朝だから旦那さんが白い身体を腕に抱きしめて急いで駆け抜けていく――。でもその駆け抜けていく強さに、琴子は桜の花びらを遠く見つめて呻いて、身体いっぱいに彼を迎え入れて抱きしめる。

「もう。朝はダメって何度も言っているのに……」

「抱きたい時に抱く。俺の鉄則だから」

 まったくその通りで。昨年の秋からこの龍星轟自宅で過ごしながら結婚準備を始めたが、一緒に暮らし始めると、その鉄則をコントロールするのに琴子も手を焼いた。だって……。本当は琴子もその鉄則にすっごく流されそうだから。すぐに抱きついてすぐにキスされて、油断していると脱がされてしまう。そんな英児と熱烈な婚前生活を営み始めて暫くした年の瀬。式を待ちきれずに先に入籍をしてしまったほど。

 なのに。こんなに愛し合っても、子供はまだだった。

 こうして琴子の日常はもう龍星轟にある。だが食事は琴子の大内家実家で取ることが多い。母を一人にさせないが大前提だが、琴子が残業で遅くなることも多々あるので、月の半分は実家に寄っている。英児も龍星轟から大内の母と一緒に過ごし、残業で遅くなる琴子を一緒に待っていてくれたり。三人で食事をしたりして、団欒を楽しんでいる。でも二人が最後に戻ってくるのはこの龍星轟。


 春の桜が咲く少し前、二人は式を挙げた。


 神社で和服の式を挙げ、披露宴はウェディングドレスに着替えて、漁村マスターのお店でこぢんまりとした内輪だけの食事会。お店で短いヴァージンロードを作ってもらい、琴子の隣にいるはずだった父の代わりをお願いしたのはやっぱり『矢野さん』。

 私、もう父がいないから。英児さん同様、私も矢野さんに親父さんになってほしい。だから一緒に歩いてくれませんか。

 びっくりして矢野さんも最初は動揺していたが、最後には『おう、やってやらあっ』と胸を叩いてしっかり引き受けてくれた。

 漁村マスターの美味しい気取らない料理での披露宴。小さな店だけれど、ジュニア社長とパパ社長を筆頭にした三好堂印刷の従業員、そして龍星轟の従業員、琴子の母と親類、そして英児の家族親類での小さなパーティーは、瀬戸内の穏やかな海をそばに賑わった。

 それから一ヶ月ぐらい。また桜の季節――。

 あっという間の一年だった。桜が咲きそうな夜、あの頃はまだどん底だった琴子。目の前にひらりと桜の花びら。そして、熱くて強引な旦那さんが隣にいる。

 妻になった琴子を傍らに確かめ、やっと旦那さんが起きあがる。

「よっし。今日もやるぞ」

 いま全力で妻を愛した割には、とってもタフ。今日も彼は情熱に満ちた黒目を輝かせ、龍星轟店長として走り出す。

『おはようございまーす』

 一階から武智さんの声が聞こえてきた。暫くすると矢野さんの声も。『おーい、タキ。まだ寝てるんじゃないだろうなー。いつまでもカミさんといちゃついてんじゃねーぞー』なんて、毎度のからかいが聞こえてきた。

「じゃあね。英児さん。行ってきます」

 やること素早い旦那さんは、もう新聞を読みながら琴子が作った朝食をとっているところ。

「気をつけて運転しろよ。あ、今夜もお母さんのところに集合な」

「わかりました」

 琴子も綺麗に身だしなみを整え、新婚の家を飛び出す。

「おはようございます。ガレージ、私が開けておきますね」

 一階事務所で開店前の準備をする武智さんに声をかける。ネクタイ姿の眼鏡の兄貴が『いってらっしゃい』と微笑んでくれる。

 整備ピットのシャッターとガレージのシャッターを同時に開ける。

 ガレージには顧客の車に代車。そして滝田社長の愛車が並んでいる。黒く光り輝くスカイライン。そして琴子の愛車となった銀色のフェアレディZ。奥には紺色のシルビア。だが琴子は愛車のゼットのそばに行かなかった。

「今日のお相手、よろしくね」

 赤い車体を撫で、琴子はその車のキーを運転席ドアに差し込んだ。

 エンジンをかけ、クラッチを踏みギアを動かす。ドルンとエンジンが唸ると同時にアクセルを踏みハンドルを切った。

 ガレージを出た時、ちょうど矢野専務がピットに入るところ。琴子はいったん停車をして運転席のウィンドウから叫んだ。

「専務、おはようございます。行ってきます」

「おう、琴子。気をつけ……」

 乗っている車を見て、矢野さんもぎょっとした顔。

「おいおい。琴子。それちゃんと旦那の許可とってんのか」

 琴子もちょっと気後れして聞き返す。

「どれに乗ってもいいと言われていますけれど? やっぱりダメでした、これ……」

 英児が俺の車で乗りたいのがあったらいつでも乗っていいからな――と言ってくれてはいたが、この赤い車の許可を取ったことがない。英児もあまり勧めてこない。初心者の琴子には無理だと思われている気がする。そして、英児があまり乗らないから、言い出せなかった。でも乗ってみたくて。乗ってみたくて。結婚してしばらくしたら思い切って借りようと決めていた。それが今日。

 矢野さんが青ざめる。そして二階に向かって叫んだ。

「おーい、英児! カミさんがハチロクに乗っているぞ!!」

 その一声一発で、琴子の旦那さんがリビングの窓に姿を現す。

「こ、琴子、待て!」

「これ、借りていきますね!」

 赤いトヨタ車の運転席から二階にいる旦那さんに琴子は手を振る。

 今日の相棒にと琴子が選んだのは、トヨタ車のカローラレビンAE86。通称『ハチロク』、英児のレビンは真っ赤な車。それを旦那さんの許可なしに、ガレージから出してしまったところ。

 旦那さんに捕まらないうちにと、琴子は『ハチロク』のアクセルを踏もうとした。

「待てと言ってるだろが、琴子!!」

 彼の本気の叫び……。それが判ったから、黙って旦那さんの愛車をくすねていこうとした琴子は流石にブレーキを踏んだ。

 バックミラーに、紺色の作業着をざっと羽織りながら駆けてくる英児の姿。

 やっぱり、まだお前には無理って怒られるのかな。黙って乗っていかないと、いつ乗せてくれるかわからないんだもの。

 貴方の愛車、私も同じように感じて乗りたいだけ……。

 ぶすっとした不機嫌そうな顔で英児がレビンにやってくる。だが矢野さんもはらはらした顔で英児の後ろにくっついてきた。

「英児、もう諦めろや。おまえのカミさんもすっかり生粋の車好きなんだから、好きなだけ乗せてやれよ」

「うっせいな。親父はあっちに行ってろ。俺と女房の問題だ」

「あんだと、お前がつまんないことでガキみたいに憤慨するからだろ。それにおまえ、どの車も乗っていいって許可してるんだろ」

 矢野さんが新婚夫妻の間で『車が原因の喧嘩』にならないように気遣ってくれているのがわかる。

 眉間にしわを寄せ、強面の旦那さんがレビン運転席の赤いドアを開ける。

「ご、ごめんなさい。これだけまだ乗ったことがなかったから……」

 険しい眼差しの英児が琴子を見下ろしている。

 だが、次には英児が直ぐそばにしゃがんでくれた。琴子の目線になって、落ち着いた静かな眼差しを向けてくれる。

「おまえ、これ初めての車だろ。そこんとこ忘れずに気をつけて乗れよ。こいつ他の車と駆動が違うからな。だから俺も勧めなかった」

 え、乗せてくれるの? 怒られなかった。

「それからよ。忘れているだろ」

 なにを? 首をかしげた途端……。運転席にすっかり収まっている琴子に英児がキスをしてくれていた。驚いて目を見開く琴子だったが、英児の後ろにいた矢野さんも『ひゃー』と後ずさっている。

 抱きたい時に抱く。俺の鉄則。キスしたい時にキスをする。俺の鉄則。またそう言われそうな気がした――。本当にストレートで素直で、そのまんまで生きている旦那さん。

 だけど唇を離してくれた英児はもう笑っていった。

「車に乗る前のまじない」

 え、そんなの。あった?

 唖然とした顔をしていると、英児がまた笑う。

「いま、出来たんだよ。ここまで乗りたがりの女房になるとは思わなかった。大事に乗れよ。二度と乗れない車にすんなよ。それから琴子、おまえが一番大事。これに乗って帰ってくるのを待っている旦那がいること忘れんなよ」

 確かに。運転にだいぶ慣れた。スカイラインもゼットも琴子は乗り回している。そこへ来て、すっかり運転に魅せられた妻がまた新しい車に乗り始めたので、旦那さんとしてここは一つ厳しく引き締めておこうと思ってくれたようだった。

 本気で呼び止めてくれた声を思い返し、琴子も応える。

「もちろん。格好良く乗るんじゃなくて、車との一体感を体感したいの。……ここに英児さんも乗っているんだもの。大事に乗る」

 貴方が乗ってきた車で、私は貴方を感じている。そう言うと、あの目尻に優しいしわを滲ませる笑みを英児が見せてくれる。

「くそ。ほんっとお前らバカバカしいわっ」

 ついに矢野専務が『あほくさ』と吐き捨てながら新婚夫妻から離れていった。

「気をつけてな」

 英児の見送りに琴子も微笑む。

「あなた、行ってきます」

 エレガントなブラウス姿の奥さんが、真っ赤なレビン『ハチロク』のハンドルを握りアクセルをふかす。

 軽快に発進するレビン。バックミラーにいつまでも見送ってくれる紺色作業着姿の旦那さん。

「まだ時間あるわね。港をまわって会社に行こう」

 港町の海岸沿いのカーブ。この道でハンドルを回すのが楽しい。朝の海面は鏡のようにキラキラと日射しに輝いてまぶしい。琴子はそっとサングラスをかける。

 走っていると、隣からクラクションの音。並んだ車の運転手と目が合う。向こうは三菱の赤いランサーエボリューション。見覚えのある顔に、琴子はサングラスを外して会釈を返すが、あちらはびっくりした顔。運転席にいるのが英児だと思ったからクラクションを鳴らしたのに、そこにいるのはブラウス姿の女。でも直ぐに判ってくれたらしく手を振って先に走り抜けていってしまう。ウィングの下に龍星轟のステッカー。常連客だった。

 

 近頃、龍星轟のタキタ店長の車を、かわいい奥さんが運転している。

 

 龍星轟でそう言われ、タキタ店長が照れている。

 そんな車好きの男達にはもう公認の奥さんは、今日も旦那さんの車で瀬戸内の街を駆け抜ける。

 

 もう止まっていた私じゃない。ちゃんと自分で走っている。彼と一緒に。同じ気持ちで。

 感じるままに生きていこう。貴方と一緒に、私もワイルドに生きていこう。



■ ワイルドで行こう 完 ■

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ワイルドで行こう〈2018〉 市來 茉莉 @marikadrug

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