35.マジかよ、信じられねえ!

 日傘片手にそこに立つと、車を磨いている男性が直ぐに気がついてくれた。

「琴子じゃねーか!」

 矢野さんの声に、ガレージや事務所にいた兄貴達も気がついてくれる。誰もが琴子が立つ店先まで出迎えてくれた。

「ご無沙汰しておりました。店長は出張中ですけど、来ちゃいました」

 初めてここに来た時と同じ、黒地に白の水玉ブラウスに白いスカート。そして白い日傘。

「もう大丈夫そうだな」

 矢野さんの問いに、琴子もそっと頷く。

 琴子の片手には食材のレジ袋。

「今日のお昼は、カツ丼です」

 袋を軽く掲げると、龍星轟メンバーの誰もが笑顔を見せてくれた。

 ――『これ。新しい合い鍵な』。

 雨の中、スカイラインで愛し合った後、英児がすぐに新しい合い鍵をくれた。既に新しいキーホルダーがつけられていた。以前、なにかのキャンペーンをした時に作ったノベルティだったとのことで、龍星轟のロゴが描かれているキーホルダーだった。琴子の持ち物の中でちょっと違和感、こういう厳ついデザインの持ち物なんていままでなかったから。でもそれに自分で選んだホルダーもつけた。

 龍がついている彼らしい鍵でまったく琴子の持ち物らしくないけれど、これは確かに今は琴子のもの。その鍵を初めて使う。

 ……少し、躊躇った。彼女の匂いが残っていて、すごい嫌悪感で満ちている部屋になってしまったらと思うと、入るのが怖い。

 でもここを乗り越えないと、二度と龍星轟に帰ってこられなくなる。ここはこれから彼と寄り添っていく場所なのだから。琴子は鍵を回した。

 久しぶりの英児の自宅。リビングのドアを開けると、まったく変わっていない英児の匂いだけ。あのジャケットが脱ぎっぱなしでソファーの背に放ってあるのも変わっていない。ゆっくり歩み寄り、琴子は英児の作業着を手に取る。そっと手に取り、頬を寄せる。

 煙草の、彼の身体の匂い、そしてほのかにマリンノートのメンズトワレ。英児の匂いだった。

「よかった。ぜんぜん大丈夫。この匂いさえあれば。あなたさえ変わっていなければ」

 一人、涙をこぼした。

 ベッドルームもおそるおそる確かめると、そこも英児の部屋着が脱ぎっぱなし。本当に変わっていない。

 そして気になっていたクローゼットを琴子は開けてみる。

 服も靴もバッグも、そしてランジェリーも。出て行った時のままなにも変わってない。そしてクローゼットの一番真ん中にかけてある紺色のジャケットも。

 一番取りやすい真ん中、ハンガーかけてある龍星轟ジャケット。それを琴子は久しぶりに手に取った。

 ラフな格好に着替え、琴子は龍星轟のジャケットを羽織った。これで元の『タキタモータス社長の女』に……。

「さあ。なにもかも元どおり……」

 でも釈然としていない。まだ少しだけ。口に出してわざわざ言うところがその証拠と自覚しつつ。それでも琴子は気合いを入れ、久しぶりに愛する彼の自宅を掃除する。

 小一時間ほど掃除をして、そろそろ昼食の準備に取りかかろうとした。その前に……。

「もう……。やっぱり男一人暮らしに戻ると溜めているんだから」

 キッチンにペットボトルにプラスチックのゴミ袋が大きく膨らんだまま放置されていた。

 あまり綺麗になっていないところ、既に男一人だけの空気が戻っていて、逆に安心する。本当にもう一人の女性が通っていたのだろうか。見る影もない。痕跡もない。ある意味、見事な去り際? それとも英児が綺麗に払拭したのか。

 そのゴミ袋を両手に提げ、龍星轟のゴミ収集所へ向かう。自宅を出て階段を下り、店の裏にある倉庫の中。そこに各ゴミを分別して保管しておく場所がある。

 そこで、琴子は見つけてしまう。

 買った覚えのない鍋とフライパンと、そして菜箸に包丁など。料理が出来る道具が一式あった。しかも赤い鍋はよく雑誌で見かける主婦が憧れる高価なもの。それらは一つの段ボール箱にまとめてあった。

 千絵里さんが持ち込んだものだと直ぐに判った。

 既に英児から聞かされていた。矢野さんから聞いたとおり、一日ほど千絵里さんが英児に料理を振る舞ったという話。

『どうしてもあのキッチンが使いたかったんだろ。だってさ。あいつの為に注文したキッチンなんだから。鍋も包丁も一式持ってきた』

 それがどうやらこの箱の中のものらしい。

『たぶん。ずっと前に揃えていた花嫁道具……』

 英児が辛そうに呟いていた。そして琴子も一目見て思った。一度使って、やっと捨てられたんだと。

 英児が食べても『どう美味しい?』とも聞かなかったとか。英児も『美味い』とも言わず、何とも言えない重苦しい空気の中、差し出された料理をひとまず食べたとのことだった。

 その時千絵里さんが『いまとなっては、美味しいとかどうでもいいわね』と言ったらしい。気持ちがこもっていない料理、気持ちが受け取れない料理。きちんと美味しく作られているのに、美味しく食べられない料理。振る舞ってもどこも喜べない料理。

『これ。捨てていいから』

 千絵里さんから段ボールにまとめ、それっきり使わなかったという。

 それを琴子はいま見下ろしている。彼女の夢だった、そして捨てられなかったもの。もう彼女にとってもきっと残骸なのだろう。

 琴子はその段ボールにしゃがみ込む。

 まだピカピカで油もこびりついていない、傷もない、赤い鍋に触れる。

 ――『母ちゃんとうまくいかなくなった』。

 あの後、英児が話してくれた詳しい話を琴子は思い出していた。

 

 ――『千絵里は、優等生でテキパキしていて気の利く女で。周りからも俺にはもったいない良い嫁さんになれる出来た女性と言われるほどだった』。

 もともと、千絵里さんのお店に英児のお母さんが服を買いに行く常連客だったとのこと。たくさんは買わないけれど時々。それでもお母さんが行けば、千絵里さんが見立ててくれていたとのことだった。だから英児よりも先に顔見知りだった女二人のほうが仲が良かったとのこと。

 ――『ある時、母ちゃんが袖丈を直したジャケットをどうしても取りに行けなくて、俺が取りに行った。それがキッカケ』。

 販売という天職に邁進する女と、車が好きで好きで仕方がなくその仕事一本、経営者を目指していた男。似たもの同士の二人が惹かれ合うのに時間はかからなかったという。母親との関係も元より上々、結婚話もスムーズに進んだ。

 なのに。結婚を目の前にして破局。どうして? 琴子の問いに英児も今度こそ逃げずに伝えてくれた。

 ――『婚約して、滝田家の嫁になることが決まっていて。何事も気を利かせる千絵里の性分が裏目に出た』。

 結婚目の前。その時既に、英児の母親はベッドから起きあがることもほとんどなく、寝たきりの治療になっていたらしい。介護をしていたのは義理のお姉さん二人。

 ――『姉ちゃん達がやっているからと、千絵里も手伝うとはりきってしまって』。

 そこで英児が言いにくそうに口ごもった。いつも言いにくそうに黙ってしまうところはそこ。『ヤンキーのくせに』と千絵里さんに言わせるまでこじれてしまった原因がそこにあると琴子は感じていた。それを英児が言おうとしている。でも言いにくそうに……。

 やっと英児が教えてくれる。

 消え入る声で聞こえたことに、琴子も固まった。

 それは。不自由になった英児の母親の下の世話のことだった。

 ――『そこで義姉ちゃん達と千絵里の差がはっきり出てしまったんだよ。義姉ちゃん達はもう母ちゃんと何年も一緒にやってきた家族なんだけど。千絵里はその時点で姉ちゃん達と一緒の嫁同然でも、ぜんぜん家族ではないという状況の差が出た』

 そこまで世話を焼く千絵里さんのことを有り難いと思いつつも、英児のお母さんのストレスがたまっていくのを、義理のお姉さん達が察知したとのことだった。

 お義姉さん二人に英児が言われる。『まだ家族じゃないの。家族になるけど、積み重ねてきた時間が違うの。実の子供にやってもらうのだって親はすごく辛いことなのよ。やれば良いことってわけじゃないの』。結婚しても家族になっても、他人加減というものがある。若い二人は結婚することだけ考えていればいい。お見舞い程度でいいからね。お義姉さん達にそういわれ、英児も『見舞いだけでいい』と千絵里さんに言ったのだが……。彼女は『いま親孝行しなくていつするのか』とお義姉さん達と同様に介護に参入しようと聞かなかったらしい。

 それから英児の家族と千絵里さんがぎくしゃくし始めてしまい、あっという間に諍いになり、婚約破棄。互いを傷つけるだけ傷つけ合って別れたとのことだった。

 英児はいまでも悔やんでいる。『俺は結婚さえすれば、その女のためだとしか思っていなかったんだろうな。家族とどううまく付き合っていけるか、千絵里とあんまり話し合っていなかった』。彼女を守れなかった。最後にそう言って、英児がスカイラインのハンドルに項垂れた。たぶん、わずかに泣いていたと……思う。

 そんな英児の背を琴子は助手席から撫でた。そして彼が結婚に踏み出せないのは、他人の家族と関わることを恐れていたことも理由の一つだったと知る。

 ――『俺。琴子とお母さんに喜んでもらいたくて、田舎蕎麦を勝手に買ってきた時も、千絵里のことを思い出していた。俺だって、喜んで欲しいと勝手に押しつけているじゃないかと』。

 琴子も覚えている。あの蕎麦を持ってきた時、母に差し出しておきながら彼が母の顔色を非常に気にしていたことを思い出す。

 ――『シノに、女だけになった家族に強引に世話やいていると言われた時も、俺も喜んでもらいたいと大きな世話やいているじゃないかと。その時も千絵里の気持ちはこんなだったのかと、その気持ちに気がついてやれなかったことを悔いてもいた』。

 自分が『力になりたい』と我が身になって気がついたこと。そう言えば……大きな世話だったと、気にしていたことも琴子は思い出す。

 だから英児は琴子と出会ってなおさらに思う。『俺みたいな男』、『結婚することになって上手くやっていけるのか』。また同じ過ちを犯さないか? 英児の未来を恐れていたその気持ち。

『でも、それは私たち母娘にはとっても救いだったのよ。ほんとうよ。だから私と母も、あなたに暖かいお料理食べてもらいたいと、勝手に作って待っていたんだから』

 お互い様。そういって背を撫でていると、どこか少年のような顔をした英児にきつく抱きしめられていた。

「俺は、あの時。本当に琴子とお母さんに、こうして抱きしめてもらっているような気持ちになったんだ。本当にほっとして嬉しかったんだ」

 寂しい歩みを続けてきた男が、ある日突然出会った団欒。そこにいた寂しく不安いっぱいに暮らしていた母娘に柔らかに出迎えてもらって――。ついに一緒に歩み出そうとしている。

 森林で触れあった夜、そうして英児はやっと一歩を踏み出せたのかもしれない。


 赤い鍋を捨てることが出来た彼女も、いまはどうしているのか。


「これで、なにもかも終わり……」

 夢見た花嫁道具をここで捨てていった彼女も、きっと歩み始めている。その前に捨てなければ始まらない。

 『過去と決別する』。琴子自身も、彼女も、そして英児も。これで前に行けるだろうから。神戸でまた笑顔で店頭にいる彼女を思い浮かべる。そうであればいい。そうであれば……。

 赤い鍋を箱に戻し、琴子は立ち上がる。

 

 昼食づくりのために二階自宅のキッチンに戻ろうと、事務所の裏を歩いていると矢野専務に見つかった。

「琴子! 聞いてくれよ!! 武智のやつ、おまえがいない間に珈琲の味を変えやがったんだよ」

「どこに売っているか解らなかったんだよっ」

「そうでしたか。お昼ご飯が終わったら買いに行ってきますね」

 事務所ドアから答えると、矢野さんも武智さんもホッとした顔をしてくれる。

「やっぱよー。琴子、それ似合うわ」

 ジャケットを羽織って戻ってきた琴子に、矢野さんはそういってくれる。

「お帰り、琴子さん。また雑貨のアドバイス、お願いするからね」

「こちらこそ。改めて、よろしくお願いいたします。出来るお手伝いなんでもしますから。ですけど、駄目なことは駄目だとはっきり叱ってくださいね」

 今後も、ご指導よろしくお願いいたします。

 きちんと頭を下げたところで、矢野さんと武智さんが一緒に笑った。『なんで笑うの』と頭をあげて、きょとんとしている琴子に矢野さんが言った。

「タキが言っていたわ。自分が留守の間に琴子が絶対に『お手伝いします』て来ると思うから、頼むなって」

「さすが。もうすぐ『旦那さん』になりそうな男は、もうすぐ『奥さん』になりそうな彼女のやること良くわかっているってことだね、これは」

「えっ、英児さん。そんなこと言っていたの? 私、英児さんに内緒で今日来たのにっ」

「わはは。お似合いってことじゃんかよ。めでたし、めでたし」

「ほんと、ほんと。これで矢野じいの昼飯もめでたし、めでたし」

 『そういうことじゃないだろっ』と矢野さんが武智さんをどついた。でも頬を真っ赤にさせて否定する矢野さんを見て『図星なんだね』という武智さんと一緒に、琴子も笑ってしまった。

 この日も、店長の英児はいなくとも、琴子は以前通りに従業員に食事を作り、さらに事務所のお手伝い。そして久しぶりに車のワックスがけを矢野さんと一緒にやった。

「磨いておくか、琴子」

 最後に。真っ黒なスカイラインを矢野さんが持ってきてくれた。

「はい、是非」

 主のいないスカイラインを、琴子は磨く。明日はゼットを磨きたい。

 いまは、どの車も愛おしい。まるで彼みたいで。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 青空に吹き抜けていく風がとても爽やかな日曜。厳しい残暑の日射しもだいぶ和らぎ、夏のざわめきが去り風の音しか聞こえなくなった頃。

 琴子は近所にある煙草屋へと歩いていた。

『琴子、ただいま。さっき空港から龍星轟に戻ったんだ。今すぐ行く』

 この日、英児が出張から帰ってきた。母にも『英児さんが挨拶に来るから』と既に伝えてある。母も昨日から英児を出迎える準備でそわそわしていて落ち着きがない。

 琴子もちょっとだけかしこまった秋色のワンピースで待っている。

 そんな英児を待っていたら、琴子の携帯電話に再度の連絡。

『いま、あの煙草屋のところにいるんだ。ちょっと来てくれないか』

 家の前までスカイラインでやってくると思っていたので、琴子は訝しく思いながら家を出た。

 すぐそこの煙草屋。店主がお爺ちゃんになってしまい、営業時間も短く開いているほうが珍しく、今日はシャッターが閉まっている。もう自販機しか管理していない古い煙草屋。彼と出会った場所。

 秋色のワンピース、裾の刺繍レエスが国道を通りすがる車と風に揺らされる。徒歩で五分ほど。煙草屋、自販機の前に銀色のフェアレディZを見つける。

 日曜の柔らかい日射しにキラリと光るその車の運転席から、スーツ姿の男が降りてきて琴子は立ち止まる。

 グレーのスーツに、爽やかなブルーのワイシャツ。そして紺色のネクタイ。きちんと整えた黒髪。爽やかな出で立ちの男性がそこにいる。

 え、誰?

 判っているけど、琴子は目を見張った。

「琴子、ただいま」

 笑った顔まで爽やかで、琴子は茫然とした。

「ん? 琴子?」

 やっと会えたのに、すぐに駆け寄ってこない彼女を見て眉をひそめている。その眉間に寄ったしわをみて、琴子は笑う。その顔は確かに、作業着の兄貴だったから。

「お帰りなさい!」

 駆け寄ると、向こうから辿り着いた琴子を迷わずネクタイの胸元に抱きしめてくれた。人目も憚らずに腕いっぱいに。

「やだ。車がたくさん通っているってば……」

「知るか。帰ってきて一直線に来たんだ。ずっとこうしたかったんだ」

 半月も触れなかったのは辛かったんだと、耳元で囁かれる。

「すぐに、おまえを――」

「――すぐに裸にはなりません」

 彼がいつもふざけて言うことを、琴子から言ってやる。英児が驚いて琴子を胸から離した。

「そんなこと思ってねえよ」

「嘘、嘘。この手がここを触ったら、絶対に言うじゃない」

 琴子は胸のふくらみを指さした。そこには既に英児の大きな手がふくらみを包み込んでいる。

 彼が『ちぇ』と言いながら手を離した。

「どうしたの。そんなかしこまってくるだなんて」

 初めて見たスーツ姿。もちろん、格好良いのだけれど……。物珍しそうに眺める琴子を知って、英児も途端に照れくさそうにジャケットの襟を直す。

「俺だって東京で他の業者と会う時はきちんとスーツで行くよ。ほんとにとにかく帰ってきてすぐにすっ飛んできたんだよ」

「嬉しいけど、格好いいけど……」

 不思議だった。格好いいと思うけれど、車を磨いている彼を見た時ほどのときめきがない。だから琴子は言った。

「やっぱり、作業着の英児さんが格好いい。龍星轟のジャケット姿が一番似合っている――と、思ったの」

 きっと母に挨拶をすることも意識して、きちんとネクタイを締めてきてくれたのだろう。でも本当にそう思ったのだ。

 すると英児がとっても嬉しそうに笑った。

「ありがとな、琴子。本当の俺を想ってくれて」

 今度は柔らかに胸元に深く抱きしめられる。

 国道の車が通る道端だけれど、今度は琴子もネクタイの胸元に頬を埋めた。

 目をつむれば、同じ匂い。紺色の作業着と同じ匂い。スーツでも作業着でも変わらない。この人の匂いを確かめて、琴子はもう一度『お帰りなさい』と英児を抱き返した。

「母が待っているの。こんなところにわざわざ呼び出して、どうかしたの?」

 尋ねると、急に英児が真顔になって姿勢を正した。その顔で琴子をじっと見下ろしているから、琴子も途端に緊張する。その顔が言おうとしていることが判って。

「いや。お母さんに挨拶する前に、琴子に言っておきたいことがあって」

「言っておきたいこと?」

 『結婚してください』なんて。今更、改めて言ってくれるのだろうか? 英児の顔が急に真顔になったので、琴子も背筋が伸びてしまう。

 英児が咳払いをして、ゼットのルーフを撫でた。

「これ、もらってほしいんだ」

 え? なにを?

 琴子は首をかしげた。でも英児がさらにゼットのルーフをぽんと叩いた。

「俺の女房になる記念に、こいつをもらってほしいんだ。結婚指輪……みたいなもんだよ」

 また英児がゼットのルーフをぽんと叩く。

「え! ゼットを、私に……?」

 驚きで固まる琴子に、さらに英児が付け加えた。

「条件があって。これを譲る時の名義変更は『滝田琴子』じゃないとダメなんだ」

 嘘……。琴子は固まった。

 黙ってしまった琴子に気がついた英児が慌てた。

「あ、その。指輪は東京にいる間に見つけて注文したんだ。届くまでまだ時間がかかるってさ。うわ、俺、馬鹿だな。そうだよな、車なんかより、指輪が先……」

「嬉しい!」

 言い分ける英児に、今度は琴子が迷わず抱きついた。

「いいの。本当にこのゼットを私のゼットにしてくれるの!」

「ああ。琴子、このゼットを気に入ってくれているだろ。それでいつか……」

「乗ってみてもいい?」

 英児が返事をする前に、琴子はもう運転席へまっしぐら。ドアを開けていた。

「運転席座ってもいいでしょう」

「お、おう。いいぞ。琴子のゼットになるんだからな」

「英児さんは助手席に座ってみて!」

 もうとびきり喜ぶ琴子の勢いに気圧され気味の英児が、戸惑いながらも助手席にまわってドアを開ける。

 その間、琴子は憧れの運転席のシートに身を沈め、シートベルトを締め、ハンドルを握る。英児も助手席に乗り込んだ。

 運転席にいる琴子を見て、英児もやっと満足そうに笑ってくれる。

「うん。いいな」

「本当にこのゼット。私のゼットになるの?」

「ああ」

「ありがとう、英児さん。私、指輪よりずっと嬉しい!」

「そっか」

「ねえ、英児さんもシートベルトしてみて」

「なんだよ。そんな本格的な……」

 だがその時、琴子はハンドルを握りゼットのエンジンをかけていた。

 英児がぎょっとした顔になる。

「ま、まて。琴子」

 琴子の手がサイドブレーキを降ろす。足はクラッチとアクセルに。サイドブレーキを離れた手はギアに。ギアを入れ、琴子はハンドルを回した。

「うわー、ちょっと待て! 琴子!! そんなこと、いつ覚えたっ」

 発進寸前。英児が慌ててハンドルを押さえた。でも琴子はにっこり微笑む。

「いつ覚えたって……」

 ワンピースのポケットから、琴子はそれを取り出し英児の目の前で見せた。

「運転免許、とったの」

 『なにいっ』と、仰天した英児が琴子の手から運転免許証と取り去った。それを手元でマジマジと眺めている。

「い、いつの間に」

「龍星轟から離れている間に、それから、英児さんが出張している間に取ったの。だから、これから運転できる車を探そうとしていたから、ほんっとにちょうどいいの! しかも大好きなゼット! 夢みたい!」

 そう言って琴子は再度、ハンドルを握りギアを手にする。

 だが、ゼットががくんと前につんのめるようにして止まってしまう。エンストだった。

「あーん。やっぱり教習所の車とはちょっと違うわね」

 気を取り直して、エンジンをかけ直したら。また英児がハンドルを押さえていた。

「ちょ、ちょ、待て。お願いです。琴子さん、それだけは勘弁して」

「どうして。私のゼットになるんでしょう。慣れておきたいんだけれど」

「そ、そうだけどよう。もうちっと違う車で慣れてから――」

「えー、これに乗りたくて頑張ったのに」

 お構いなしにアクセルを踏むとブウンとエンジンが唸る。これ、私が出している音! もう興奮せずにいられなかった。

 ちょうど向こうの信号が赤になり車が途切れたところ。そこを見計らい、琴子は英児を振り切り、ハンドルを回しアクセルを踏んだ。

 煙草屋の前から、銀色のゼットがギュウンと国道に飛び出す。

 アクセルを踏みすぎて、英児が後ろ頭をシートにぶつけるほどひっくり返った。でも銀色のゼットは琴子の運転で走り出す。

「は、走っている……。マジかよ、信じられねえ!」

 琴子は運転席で笑う。

 だって私、タキタモータースのお嫁さんになるんだから。当たり前じゃない。車を運転するオカミさんになりたかったから!

 車屋の旦那さんから、結婚の記念に車が贈られるだなんて!

 元は旦那さんの愛車を、今度は妻になる私が愛していける。この幸せ。それがいま国道を走ってる!


 

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